第55章『絶望と背水の陣』
ビガンテ城を満たすダラーン王国軍の頽廃と狂乱とは対照的に、クムソニアのウォンソン城は、絶望と背水の陣の緊張感に包まれていた。ダラーン王国の圧倒的な大軍によって城池が崩落する刻まで、あとわずか。ラシル王国の宮廷は、国家滅亡の危機を前に、研ぎ澄まされた刃のごとき痛切な気を放っていた。
ハニカ・マグレナ王は政務堂の灯火の下、眼前に広がる大東アジアの地図を見つめていた。その表情には、押し寄せるダラーン王国軍の威圧と激動を生き抜いてきた者だけが持つ、深く重い執念が刻まれている。自らの娘をダラーン王国に殺された個人的な情念はとうに昇華され、いまや一国の君主として、滅亡の淵からの逆転という冷徹な大計のみがその胸を占めていた。
「大王様、援軍であるオーレリア帝国のアルヴェリア親王イリアード率いる十三万の水軍が、すでに黄海を渡り、ダラーン王国の背後にあたる熊津江の口へと接近しております!」
吉報を携えて現れたのは、ムジン・ユシンであった。甲冑に身を包んだその姿は、満身創痍でありながらも動かぬ岩山のように重々しい。
「遅れるなよ、ユシン」
王は視線を地図から外さず、低く重い声で言った。
「オーレリア帝国軍がダラーン王国の背後を突くこの機を逃せば、我がラシル王国に次はない。ダラーン王国の攻勢に耐え抜き、必ずやオーレリア帝国軍と呼応して奴らを挟み撃ちにするのだ」
「はっと……。我が精鋭、押し寄せるダラーン王国の猛攻を押し返し、必ずや背後から迫るオーレリア帝国軍と共にダラーン王国を瓦解させて見せます」
ムジン・ユシンの瞳に、揺らぎはなかった。ラシル王国の宮廷において、自国が窮地に陥った末のオーレリア帝国の介入は諸刃の剣であることを誰もが理解していた。虎の威を借りて目前の狼を払い退けるが、その虎に吞み込まれぬためには、ラシル王国自身がこの土壇場で圧倒的な気概を示さねばならない。
宮廷の広場には、傷つきながらも集結した花郎たちがいた。若者たちの顔に諦めはなく、死を賭して国を守り抜くという異様なまでの高揚感が漂っている。「臨戦無退」の精神が、死に体となった国全体を支配していた。
「背後を突かれたダラーン王国軍は狂乱し、黄山原は地獄の血の海となるな」
誰かが呟いた言葉に、ムジン・ユシンは深く頷くのみだった。ラシル王国の防衛戦線は決壊寸前である。しかし、追いつめられた側から一転、オーレリア帝国の接近によって背後を脅かされたダラーン王国軍がどれほど激しく抵抗するか、彼らは痛いほど知っていた。
夜空を見上げれば、月は冷たくクムソニアを照らしていた。絶望の淵からオーレリア帝国の援軍を得て反撃へと転じる中、この国の若者たちの血で野が染まることを知りながら、ラシル王国の宮廷はただ静かに、そして確実に、逆転の歴史の歯車を回し続けていた。




