第53.章『極東の欲望』
海辺に抱かれたノバージェ共和国のカレン宮殿は、潮風と蠟燭の匂い、そして濃密な欲望と緊張感に満ちていた。
半島の利権を賭けた賽は投げられようとしていた。
最高執政官の座に就くシン・ネグラは、羊皮紙の大地図が広げられた漆黒の円卓を凝視していた。
その面容は削ぎ落とされたように鋭く、瞳には、異様なまでの張り詰めが宿っている。
その地図には、半島からオーレリア帝国東岸全域に張り巡らされたノバージェの交易網が描かれていた。
「オーレリアの大艦隊が北上中とのこと。もはや猶予はありません」
貴族派の重臣が吐き捨てるように言う。宮内は、実権を握る庶民派と不満を募らせるマルディ家やエスキー家とい
った大貴族派の反目により、絶えず一触即発の空気が漂っていた。内部抗争で血を流しながらも、宿敵、ダラーン王国
の名が出た瞬間だけは、ひとつの冷酷な戦闘集団へと変貌する——それがノバージェという国家の本質で
あった。
「戦費は『サン・ジルジ銀行』がすべて手配する。市民から集めた金で、さらに五十隻の軍船を組み上げろ」
ドージェの静かな一言に、与座する商人政治家たちが一斉に頷く。ノバージェの政府は、単なる国家ではない。一
族の利益と株主の配当によって駆動する、巨大な軍事海洋会社そのものだった。国庫が底をついても、銀行が債
権を発行して艦隊を仕立て上げる。彼らにとって戦争とは、最大の利益を生み出すための投資に過ぎなかった。
宮殿の窓からは、夜を徹して松明が焚かれる造船所が見下ろせた。槌音が西海に響き渡り、腕利きの弩弓手(クロ
スボウ兵)たちが傭兵契約の金貨を受け取っていく。
「ビオを取り戻し、ダラーン人の息の根を止めてやる」
ドージェは冷えたワインを口にし、闇に浮かぶ港を見つめた。自らの血を流して得た富を、他国に奪われることだけ
は絶対に許さない。奪われた土地と富は奪い返すのである。
荒々しい海賊の血と、緻密な計算高さが同居するノバージェの宮廷は、宿敵を呑み込む決戦の時を、静かに虎視
眈々と狙っていた。
「ドージェ、渡海に備える船団の数が目標に達しました。
カミ—ネ・マカラ率いる第一波の軍勢、万余の兵がカレンの沖合にて風を待っております」
重臣が報告を投げかける。しかし、政庁内の空気は重苦しく淀んでいた。
「オーレリアはユーラシアを呑み込む大帝国ぞ。ラシル王国と組んだ巨人に、海を渡って勝てる道理があろうか」
そうした懐疑と恐れを、シン・ネグラが知らぬはずもなかった。だが、引き返す道などとうに断たれている。ダラーン王国が完全に潰れれば、大国の刃はすぐさまこのノバージェの国土へと向けられる。そのような危険も孕んでいる。
「風が吹けば、直ちに出航させよ」
シン・ネグラの声が、静まり返った館内に低く響いた。
「我らが引けば、海が敵の路となる。ただ前へ進むのみだ」
宮殿の外では、数百艘の軍船が波間に揺れ、水兵たちが木材を打ちつける槌音が昼夜を問わず響いていた。ノバ
—ジェの命運を乗せた軍勢は、ただ静かに決戦の時を待っていた。




