『薄墨の朝から漆黒の夜へ』
薄墨色の夜気が残る高窓から、かすかな朝光が差し込み、冷えた石造りの寢所に白銀の筋を描いた。年に一度、領国の富と実りを神に感謝する「大収穫祭」の当日の朝が明ける。
豪華な天蓋に覆われた重厚なベッドの中で、アルヴェリア親王妃リゼリアは浅い眠りから目を覚ます。すでに城の敷地外からは、祭りの準備を急ぐ市井の人々のざわめきと、賑やかな笛の音が遠く聞こえていた。
「……親王妃陛下、お覚めでございますか」
天蓋の重厚なベルベットの帷がそっと開かれ、首席侍女のベルナデットが姿を現す。17歳という若さでありながら、その佇まいには隙が一切ない。彼女はリゼリアと同じ高貴なる「リヴィエール家」の血を引く同族であり、その瞳にはリヴィエール一族特有の超常的な洞察の光が宿っていた。
「おはよう、ベルナデット。外は随分と賑やかね」
「はい。現在時刻は午前6時02分。本日の気象データ、及び過去50年の統計解析によれば、降水確率は0.02%未満。絶好の収穫祭日和です。ただし、午後の湿度低下に伴い、喉の乾燥が予想されますので、水分補給のスケジュールを14%前倒しします」
ベルナデットは洗面器を手にしながら、淀みなく数字を羅列する。彼女は徹底的な完璧主義者であり、分析、統計、解析、解説をやらせれば右に出る者は存在しない超合理主義者だ。
「……なお、先ほど側室セシリア様の侍女であるエミーナとロゼッタを締め上げてまいりました。あの2人、本日の祭りの手伝いと称して甘味の試食に夢中になり、配置につくのが3分遅れておりましたので。妹分とはいえ、たるんでおります」
「ふふ、厳しく指導してくれたのね」
洗顔が終ると、大収穫祭の特別衣装の着付けが始まる。ベルナデットの手際は狂いなく完璧で、何重もの衣服がミリ単位のズレもなくリゼリアの体に吸い付くように纏わせられていく。
「本日の衣装は、実りを象徴する深い緑のベルベットローブ。……胸元の刺繍の位置、左右の対称性よし。重量はドレスと宝石類を合わせて22.4キログラム。陛下の体幹の安定性を考慮すれば、本日の公務予定時間をノーミスで完走可能です」
真珠を編み込んだヴェールを固定し、ベルナデットはフッと小さく息を吐いた。
「完璧です。王太后フレデリカ様、セシリア様、そしてリゼリア様……我がリヴィエール家の誇る高貴なる血統を、この完璧な装いによって領民に刻み込んで見せましょう」
午前7時。大聖堂で執り行われる「大収穫祭奉納祈願祭」のため、リゼリアは親王と共に豪華な馬車へ乗り込む。
街道は色鮮やかなリボンと麦わらで飾られ、溢れんばかりの民衆が詰めかけていた。「親王殿下万歳!」「親王妃陛下万歳!」の歓声が地鳴りのように響く。
大聖堂内は、秋の収穫物である果物や穀物、葡萄の蔓で埋め尽くされていた。リゼリアが象牙の『時祷書』を開き、静かに祈りを捧げる横で、ベルナデットは超常的な知覚を発揮し、礼拝堂内の人間関係を冷徹に解析していた。
(……一番奥に並ぶ隣国使節団の視線ベクトル、および発汗量から解析。彼らの狙いは我が国の穀物生産量ではなく、南部の関税率の改定動向。右から3番目の使節の指先の微振動……何か隠し事を行おうとしていますね)
ベルナデットはリゼリアの背後で目立たぬよう羊皮紙にメモを走らせる。彼女の頭脳の中では、すでに外交上の最適解が数式のように組み立てられていた。
午前10時。城の広場で、領民たちへ大樽の葡萄酒とパンを振る舞う「豊穣の賜与式」が始まる。
高台に立ったリゼリアが巨大な木樽の栓を抜くと、歓声が沸き上がった。リゼリアは焼き立ての白いパンを貧しい子どもたちに手渡していく。
その背後では、ベルナデットが手下のパン配給の効率をミリ秒単位で管理していた。
「エミーナ、左の列の配給スピードが1.2秒遅れているわ。ロゼッタ、貴女は笑いかける時間が長すぎる。笑顔の維持は0.5秒で十分。効率を上げなさい、2人とも私の妹分なら完璧にこなしなさい!」
「「は、はいっ! ベルナデットお姉様(姉分)!」」
セシリアの侍女であるエミーナとロゼッタは、青ざめた顔で指示に従う。ベルナデットの超合理的な采配により、数千人の民衆への配給は暴動も混乱もなく、驚異的なスムーズさで進んでいった。
正午。城の大ホールで、大収穫祭の「特別晩餐会」が開催された。
孔雀の肉料理、鹿肉のシチュー、高さ1メートルを超える砂糖細工。豪奢な料理が並ぶ中、リゼリアは隣に座る夫・親王へさりげなく話しかけた。
「殿下、今日の祭りは見事な盛り上がりですね。ですが、この豊かな収穫も、南部の街道が整備されてこそ市場へ行き渡るというもの。関税を少し見直し、物流を促されてはいかがでしょう?」
親王が「ふむ……」と考え込んだ瞬間、後ろからベルナデットが静かに、しかし絶対的な説得力を持つ声で介入した。
「殿下、失礼いたします。親王妃陛下の仰る通りです。過去3年間の南部関税率と物流指数の相関データを解析した結果、関税を7.5%引き下げた場合、流通量が38%増加。結果として、当家に入り込むトータルの税収は21.3%増加するという統計結果が出ております」
「な……20%以上も増えるのか!?」
「はい。すべて計算済みです。損をする要素はコンマゼロ%も存在いたしません」
リゼリアの政治的誘導と、ベルナデットの完璧なデータ解析。二人のリヴィエールの女性による見事な連携に、親王は「後で速やかに評議会を通そう」と即決せざるを得なかった。
午後3時。宴が一時散会となり、リゼリアは中庭で休憩を取っていた。
ふと見ると、ベンチの隅でベルナデットが大量の羊皮紙と図面を広げ、猛烈な勢いで羽ペンを走らせている。本日の夕食会と夜会の動線計画、及び明日の予算試算の解析に完全に没頭していた。
「ベルナデット、少し休んだら? 葡萄のジュースでも……」
リゼリアが優しく声をかけた、その瞬間。
「……集中力が途切れます、話しかけないでいただけますか!」
ベルナデットはギロリと鋭い眼光でリゼリアを睨みつけた。超常的な威圧感が一瞬空気を圧迫する。しかし、相手がリゼリアだと気づくと、ハッと正気に戻り、気まずそうに咳払いをした。
「……大変失礼いたしました、リゼリア様。仕事に熱中するあまり、無礼を。ですが、この解析を15分以内に終わらせなければ、今夜の夜会のワイン消費量の最適予測が0.8%ブレてしまいますので」
「ふふ、いいのよ。あなたのその完璧主義にはいつも助けられているわ」
リゼリアは微笑み、真面目すぎる同族の少女の頭をそっと撫でた。
午後7時。大広間にて、篝火が焚かれる中でクライマックスの「夜会」が始まった。
大広間では松明が赤々と燃え上がり、宮廷音楽家たちの演奏に合わせて貴族たちが踊る。リゼリアは隣国の使節や諸侯たちと優雅に談笑しながら、政治的な駆け引きを楽しんでいた。
会場の壁際では、ベルナデットが腕を組み、超常的な解析能力で会場全体を監視していた。
「ロゼッタ、エミーナ。あそこの伯爵が親王妃殿下に近付こうとしているわ。彼の酒量と歩行のブレから分析するに、かなり酔っている。殿下に不快な思いをさせる前に、貴女たちで自然に阻み、別の歓談の輪へ誘導しなさい」
「は、はい! 行ってきます!」
妹分の2人がサッと動く。ベルナデットの完璧な指揮と分析により、リゼリアの周りには一切のトラブルも不快な要素も立ち入ることができなかった。リヴィエール家の血を引く者たちの完璧な陣形である。
午後10時。長い大収穫祭の1日が終わりを告げる。
夜祷を終え、寢所に戻ったリゼリアの衣裳を、ベルナデットは丁寧かつ迅速に脱がせていく。重い黄金の冠が外され、リネンガウンが纏わされる。
「本日のすべての公務、およびスケジュールは予定時間を1秒も超過することなく、成功率100%で終了いたしました。親王妃陛下の立ち振る舞い、完璧でございました」
ベルナデットは深々と一礼する。その表情には、自らの完璧な仕事を完遂した満足感が漂っていた。
「ありがとう、ベルナデット。あなたのおかげで、素晴らしい収穫祭になったわ。エミーナとロゼッタにも感謝を伝えてね」
「ハッ、あの子たちには後で『自己評価レポート』を提出させ、反省会を行いますので。……それでは、おやすみなさいませ、リゼリア様」
ベルナデットが退室し、重い木製の扉に鍵をかける音がカチャリと響いた。
静寂が戻った暗闇の中、リゼリアは天蓋付きベッドに横たわる。
王太后フレデリカ、私、セシリア、そしてベルナデット……リヴィエール家の力が集結している限り、このアルヴェリア親王家を揺るがせるものなど何一つ存在しない。
「主よ、我が一族と、この実りある土地をお守りください……」
暗闇の中で静かに祈りを捧げると、リゼリアは心地よい疲労感とともに、深紅の毛布の中へと深く沈んでいった。
城の外では篝火が静かに爆ぜ、秋の冷たい風が夜空を駆け抜けていく。アルヴェリア親王妃の、栄光と野心、そして完璧な側近たちに支えられた大収穫祭の1日は、こうして静かに幕を閉じるのだった。




