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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『アクアパレスの人々』帝国歴302年
47/287

『アクアパレスの大収穫祭』

十月の朝靄(あさもや)は、鋭利なガラスの破片に似ている。

吸い込めば肺の奥がちりりと鳴るような冷気が、石造りの王宮を容赦なく満たしていた。まだ太陽の端すら地平線に触れていない時間、親王妃リゼリアの宮殿の一室には、すでに不自然なほど規則正しい音が響いていた。

カツ、カツ、カツ、カツ。

硬質なヒールの音が、大理石の床に一定のテンポを刻む。その主であるベルナデット――宮廷において「眼鏡のナデット」あるいは「無慈悲のナデット」と畏怖されるリヴィエール家の才女は、手にした羊皮紙の束に鋭い視線を落としていた。

「予定時刻より十二秒遅れています、エミーナ。あなたのその無駄な感傷のシミュレーションは、大収穫祭全体の開幕スケジュールを狂わせる致命的なボトルネックになり得ると、昨日までに三十四回は解説したはずですが」

「うぅ……ナデットお姉様ぁ……! そんな冷たい目で私を見ないでくださいぃ! 私はただ、この栄えある大収穫祭の当日に、過酷な労働の果てに寒さで凍えて倒れる薄幸の国境の少女の気持ちをイマジネーションしていただけなんですぅ……!」

金髪の美少女エミーナは、大粒の涙をその美しい碧眼に溜めながら、ハンカチの端を噛んで震えていた。彼女はリヴィエール家の娘であり、親王側室セシリアの侍女だ。そして、重労働を文字通り「一瞬」で片付ける超常の処理能力を持ちながらも、「不幸な少女」を演じることでしか得られない奇妙な満足感を求めて生きる、救いようのない天然の気質を持っていた。

「却下します。あなたのイマジネーションに割く国家的なリソースは一バイツ(最小単位)も存在しません。あと三秒以内にその涙の分泌を停止させなさい。さもなくば、あなたの『不幸な少女ごっこ』の週間スケジュールをすべて解析し、セシリア様へ無期限の『お菓子摂取禁止令』としてロジカルに具申します」

「ひゃんっ!? 止まりました! 涙、完全に完全撤退しましたぁ!」

エミーナは文字通り一瞬で涙を引っ込め、直立不動の姿勢をとった。セシリアから太った罰としてお仕置きを言い渡されることと、ナデットの理詰めの説教だけは、彼女にとって笑えない本物の「不幸」に直結するからだ。

「ナデット様、エミーナを脅すのはそのくらいにして差し上げてください。彼女の思考回路は統計学的な予測の範疇を超えて単純ですから、負荷をかけすぎると脳の調達機能が暴発して、中庭が栗のタルトで埋め尽くされることになります」

背後から鈴の鳴るような、しかし徹底的に平坦な声が響いた。

黒髪の美少女――ロゼッタである。彼女もまたエミーナと同じくセシリアの侍女であり、リヴィエール家の血を引く優秀な妹分だった。ベルナデットよりも二歳年下、セシリアよりも四歳年下の彼女は、眼鏡の奥で不機嫌そうに書類をめくるベルナデットに対し、一切の気後れなく歩み寄る。

「……ロゼッタ。先ほど指示した、南門からの貴賓馬車の侵入タイミングについての予測データは?」

ベルナデットの問いに対して、ロゼッタはふっと薄い唇の端を上げた。彼女の特技は「予知」と「念視」。なんでもお見通し、が彼女の至高のスタイルだ。

「終わっています。ナデット様がその質問を口にされる二十秒前、私は三分後に南門の検問所で発生する、ラインハルト伯爵家の馬車の車輪トラブルを予知しました。すでに近隣の鍛冶職人を現場に待機させてありますので、遅延はゼロ。予定通り午前六時ジャストに、すべての貴賓は宮殿の前庭に整列します」

「結構。ですが、私の予測ではその鍛冶職人の手配による予算の超過が数デナリウス発生するはずです。後ほどロジカルな顛末書を提出しなさい」

「ふふ、お姉様は相変わらず数字に厳しいですね。ですが、その顛末書も、私が今から十分後に書くことを予知していましたので、すでに書き終えて袖の中にあります」

ロゼッタは懐から完璧に整えられた書状を取り出し、ベルナデットの机に滑らせた。完璧主義のベルナデットと、予知能力で先回りするロゼッタ。リヴィエール家の天才たちの間で、火花の散るような実務の応酬が繰り広げられる。

「いいでしょう。では、本日の主役たちを起こしに行きます。リゼリア様、およびセシリア様の目覚めまで、あと三分十五秒。エミーナ、泣く準備ではなく、給仕の準備をしなさい」

「は、はいぃーっ! 頑張りますぅ!」

宮殿の時計塔が午前六時を告げる重厚な鐘を鳴らすと同時に、三人の侍女は、中世ヨーロッパの歴史上最も「過酷で、合理的で、そして奇妙な」大収穫祭の一日へと足を踏み出した。



◇

大収穫祭の当日は、宮廷の権力闘争と虚飾が最も剥き出しになる日でもある。

午前中、中央広場に面した大バルコニーでは、親王妃リゼリアと親王側室セシリアが、集まった何万人もの領民の前に姿を現すことになっていた。そのための「身支度」は、侍女たちにとって戦場そのものである。

「リゼリア様、本日お召しになるのは、予定通りこちらの『黄金の麦穂』を模した刺繍が施された琥珀色のシルクドレスです」

ベルナデットはリゼリアの前にドレスを掲げながら、恐るべき速度で口を動かしていた。

「本日の天候は晴れ、最高気温は十四度と予測されます。バルコニーに立たれる際、北西からの風速が四メートルに達する統計が出ておりますので、ドレスの裾にはあえて三分の一オンスの鉛の重りを仕込み、風による乱れを完全に防ぐ処置を施しました。また、リゼリア様の過去三日間の睡眠データから算出された血流量を考慮し、コルセットの締め付けは通常より一・五ミリメートル緩めてあります」

「ありがとう、ナデット。あなたの解説を聞いていると、自分がドレスを着ているのか、それとも完璧な装甲を身にまとっているのか分からなくなるわね」

親王妃リゼリアは、その気品あふれる微笑みを浮かべながら鏡の前に立った。リゼリアは知っていた。ベルナデットのこの異常なまでの合理主義と統計への執着が、どれほど自分という存在の威厳を支えてくれているかを。

一方、その隣の部屋では、側室セシリアの身支度が行われていた。

「うぅ……セシリア様、そんなに動かないでくださいぃ! このリボンを結び間違えたら、私は宮廷の片隅でドブネズミに指を噛まれて死ぬ運命なんですぅ……!」

「ちょっと、エミーナ! 大げさねぇ。動いてないわよ、ほら、ロゼッタがじっと見てるじゃない」

セシリアが楽しそうに笑う。黒髪のロゼッタは、セシリアの後ろで髪を編み込みながら、静かに目を閉じていた。

「セシリア様、三秒後に右側の髪飾りが指から滑り落ちます。……はい」

カラン、と音がする前に、ロゼッタの手は完全にその位置へと移動しており、落ちてきた真珠の髪飾りをノーLookで完璧にキャッチした。

「相変わらず不気味なくらいお見通しね、ロゼッタ。じゃあ、これは予知できるかしら? ――はい!」

セシリアが突然、ロゼッタの脇腹を目がけて指を突き出した。悪戯っぽい笑みを浮かべた主の「こちょこちょ攻撃」である。

「……っ!? セ、セシリア様、それは……!」

冷静沈着な優等生であるロゼッタの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。実は、リゼリアやセシリアは、ロゼッタの予知能力の限界を試すため、あるいは単にその澄ました顔を崩すために、こうした「フェイントの悪戯」を仕掛けるのがお約束になっていた。

「私の予知では、セシリア様は左から来られるはずでは……!」

「ふふん、頭の中で『左を突く』って強く念じながら、体は右を動かしたのよ! ロゼッタの予知は『思考の波紋』を読んでるから、こういうフェイントには弱いのよねー!」

「う、うう……不覚です……。この屈辱は、本日の収穫祭のパレードが成功する確率を〇・五パーセント低下させるほどの精神的打撃です……」

ロゼッタが悔しそうにそっぽを向く。

その時、部屋の扉が「バン!」と強烈な音を立てて開いた。

「そこまでにしなさい、側室側の不真面目な皆様」

現れたのは、眼鏡の位置をミリ単位で直したベルナデットだった。その背後には、凍りつくような冷気が漂っている。

「セシリア様、本日大収穫祭であなたが消費される予定のカロリー、および民衆に手を振る際の上腕二頭筋の運動エネルギーはすでに計算済みです。ロゼッタと戯れることによる余計なエネルギー消費は、午後の祝宴での『ハチミツ酒の試飲』を一杯減らすという結果に直結しますが、よろしいですね?」

「げっ!? ナデット、それは横暴よ! 私、あのハチミツ酒のために今週のダイエットを耐えたのよ!?」

「ならば、三十秒以内に身支度を終え、パレードの待機位置へ移動してください。エミーナ、遊んでいないで、その天才的な無駄能力でセシリア様の靴磨きを一瞬で終わらせなさい!」

「は、はいぃーっ! 私、世界一過酷な靴磨きを命じられた奴隷の少女として、光速で磨き上げますぅ!」

シュババババ! と風の鳴るような音がしたかと思うと、一瞬にしてセシリアの革靴は鏡のように周囲の景色を反射するほどに輝いていた。

どれほど理不尽に見える労働であっても、エミーナの手にかかれば一瞬。しかし本人は「酷使される哀れな私」のロールプレイに浸っており、どこか恍惚とした表情を浮かべている。

ベルナデットはそれを見て、深く、ため息をついた。

「……リヴィエール家の血を引く者がこれほど揃っていながら、なぜこのように効率の悪い精神構造をしている者が多いのか、統計的な答えが未だに出ません。さあ、時間です。大収穫祭、開幕いたします」



◇

正午。大収穫祭は最高潮を迎えていた。

王宮の広大な中庭は、各地から集まった民衆と、山積みにされた色鮮やかな果物、香ばしい焼き肉の匂い、そして溢れんばかりの麦酒の樽で埋め尽くされていた。

親王妃リゼリアと側室セシリアは、貴賓席からその様子を見守り、時折、功績のあった領主たちと言葉を交わす。

その華やかな光景の裏側、王宮の臨時事務局は、地獄のような戦場と化していた。

「ナ、ナデット様! 南の調理場から報告です! 予想以上に民衆の豚肉消費スピードが速く、このままだと午後三時にはストックが底を突きます!」

「ナデット様! 麦酒の樽を運ぶ予定だった第三馬車隊が、広場の手前で身動きが取れなくなっています! 群衆が多すぎます!」

次々と飛び込んでくる役人たちの悲鳴のような報告。しかし、デスクに鎮座するベルナデットの表情は、完全に凝固した氷のようだった。彼女はいっさいの動揺を見せず、羽ペンを凄まじい速度で走らせながら、冷徹な指示を乱れなく飛ばしていく。

「豚肉の消費スピードが上がっているのは、気温が予測より一度高く、民衆の塩分欲求が増加しているためです。北の貯蔵庫にある塩漬けの鰊(にしん)を三分の一の量で放出しなさい。塩気が強いため、肉の消費スピードは統計的に一五パーセント抑制されます。馬車隊の渋滞については――ロゼッタ、迂回路の最適解は?」

部屋の隅で、お茶をすすりながら目を閉じていたロゼッタが、すっと目を開けた。

「四分後、西の路地裏で野良犬の喧嘩が発生し、群衆が一時的に東へ流れます。その隙に、路地を左折して裏門から搬入しなさい。命令を下すなら、今から八秒以内です」

「だそうです。行きなさい」

「は、はいぃっ!」

役人が這うようにして部屋を飛び出していく。ベルナデットの理論と分析、そしてロゼッタの予知が組み合わさった事務局は、もはや一つの精緻な自律機械(オートマタ)のように機能していた。

しかし、どれほど完璧なシステムであっても、それを乱す「不確定要素」は外部からやってくる。

バタン! と乱暴に扉が開け放たれた。

入ってきたのは、大収穫祭の予算管理を統括する、他部署の肥満体の高官――バルカ公爵の親族である男だった。彼は酒臭い息を吐きながら、ベルナデットのデスクをドカンと叩いた。

「おい! 『眼鏡のナデット』! 貴様、我が派閥が手配した東領の極上ワインの支給を、なぜ勝手に半分に減らした!? 祝宴の席で我が一族の面潰しをする気か!」

事務局内の空気が、一瞬で凍りついた。

エミーナは「ひゃんっ! 暴漢に襲われる事務員少女の悲劇ですぅ!」と机の下に隠れ、ロゼッタは「あ、この人、三秒後に人生が終わりますね」と哀れみの目を向けた。

ベルナデットは、ペンを走らせる手を止めなかった。ただ、眼鏡のブリッジを、指先で静かに押し上げただけだ。

彼女が現在行っているのは、大収穫祭の全流通ルートにおけるボトルネックの解析。つまり、彼女にとって最も神聖な「使命」の真っ最中であった。そして、ベルナデットには一つの致命的な、あるいは周囲にとって恐怖の特性がある。

――使命に夢中になっている時に話しかけると、相手が誰であろうと激怒する。

「……今、なんと言いましたか?」

地を這うような、極低温の声。羽ペンの先が、羊皮紙の上でピタリと止まる。ベルナデットはゆっくりと顔を上げ、氷の楔のような視線を高官に突き刺した。

「わ、我が派閥のワインの件だ! 予算は正当に――」

「黙りなさい」

「ひっ……!?」

高官の言葉が、物理的な圧力によって遮られたかのように途切れた。ベルナデットは立ち上がり、デスクの上の膨大な書類から、瞬時に一枚の紙を抜き取って叩きつけた。

「あなたが『極上ワイン』と呼ぶその王宮搬入品は、過去三年の東領の収穫統計、および気候変動データを照らし合わせた結果、水分含有量が規定より一八パーセント多く、安価な砂糖水でカサ増しされた不正品である確率が九九・六パーセントに達しています。さらに、その搬入によってあなたの個人口座に振り込まれたキックバックの額は、およそ四百デナリウス。違いますか?」

「な、ななな、なぜそれを貴様が……!」

「私の脳内にある統計データを舐めないでいただきたい。現在、私は大収穫祭の全参加者数万人の安全と、リゼリア様の威厳を完璧に保つためのリアルタイム解析を行っております。そのような低レベルな汚職の隠蔽と、あなたの肥満した自尊心のために私の思考リソースを一秒でも割くことは、国家的な大損失であり、リゼリア様に対する明白な不敬罪です」

ベルナデットは一歩、高官に歩み寄る。その瞳には、一滴の慈悲も存在しない。これこそが、宮廷の悪徳貴族たちを震え上がらせる「無慈悲のナデット」の真の姿だった。

「あと十秒以内にその醜悪な顔を私の視界から消去しなさい。さもなくば、あなたの実家が過去五年間にわたって行ってきた、小麦の備蓄量水増しに関するロジカルな告発書を、大収穫祭の閉幕と同時に親王殿下および全領主の前で大声で解説いたしますが?」

「ひ、ひいいいいっ! ご、誤解だ! 私は失礼するッ!」

高官は顔を真っ青を通り越して土気色にし、自分の贅肉に躓きそうになりながら、文字通り転がるように事務室から逃げ出した。

「ふぅ……」

ベルナデットは小さく息を吐くと、何事もなかったかのように席に戻り、再び羽ペンを走らせ始めた。

「エミーナ、机の下から出てきなさい。あなたのその隠れ方は、私の空間認知における死角を二パーセント塞いでいます。ロゼッタ、次の予測を」

「はい。お姉様の説教によるタイムロスの補填として、三分後に東の広場で発生する予定の樽の破損を、エミーナに先回りして直させます」

「えぇーっ!? 私、今度は大工の少女の悲劇を演じなきゃいけないんですかぁ!?」

「行きなさい、エミーナ。三、二、一……」

「い、行ってきますぅー!」

狂乱の大収穫祭の裏側で、リヴィエール家の侍女たちは、それぞれの「異常な能力」を限界まで絞り出しながら、完璧という名の歯車を回し続けるのだった。



◇

午後四時。

太陽が西の空へと傾き始め、中庭の祝宴は穏やかな歓談の時間へと移り変わっていた。リゼリアとセシリアも、張り詰めた公式行事を終え、ようやく貴賓席の奥にあるプライベートな天幕へと戻ってきた。

「あー、疲れた! やっと解放されたわ!」

セシリアは天幕に入るなり、豪華な椅子にどさりと体を預けた。

「セシリア、民衆の前での立ち振る舞いは見事だったけれど、少し緊張感が足りないわよ。側室としての格式を――」

「リゼリア様、お堅いことは言いっこなしですよぅ。それより、お腹が空きませんか? ほら、ナデットのせいで、お昼はお豆のスープと硬いパンしか食べさせてもらえなかったし……」

セシリアがひもじそうにお腹を押さえる。確かに、ベルナデットの徹底した健康管理とカロリー計算のせいで、二人の食事は「最も効率的に栄養を摂取できる最低限の量」に制限されていた。

その時、天幕の影から「ふふふ……」という怪しげな、しかしどこか楽しげな声が聞こえた。

「セシリア様、リゼリア様……! 聞こえますか……。ここに、過酷な断食刑に処された哀れな姫君たちのために、命をかけて闇市場から極上の禁制品を調達してきた、薄幸の密輸人の少女がおります……!」

金髪を少し乱したエミーナが、天幕の隙間から這いずるようにして入ってきた。その手には、大きな、そして信じられないほど甘い香りを放つ漆黒の箱が握られている。

「エミーナ! それは……!」

セシリアの目が、獲物を見つけた猛獣のように輝いた。

エミーナが箱を開けると、そこには、十月の特産である大粒の葡萄と、濃厚な山羊のチーズ、そして信じられないほど細工の細かい「栗とハチミツの三層ミルフィーユ」が鎮座していた。どれも大収穫祭の一般ブースには出回っていない、最高級の試作品だ。

「リヴィエール家の能力を使いましたぁ! 厨房の奥の奥、総料理長が秘密の金庫に隠していた最高傑作のデザートを、私の『空間調達』の力で、痕跡を残さずここに転送いたしました! さあ、私を可哀想だと思ったら、どうぞ召し上がってくださいぃ!」

「さすがエミーナ! あなたって本当に使える侍女ね!」

セシリアがミルフィーユに手を伸ばそうとした、その瞬間。

「……待ちなさい」

天幕の入り口に、一条の影が落ちた。

逆光の中で、キラーンと鋭く光る眼鏡。そこにあったのは、完璧なスケジュール管理の化身――ベルナデットの姿だった。彼女の横には、申し訳なさそうに(しかしどこか楽しそうに)佇むロゼッタもいる。

「な、ナデット……!? なぜここが……! 完璧に気配を消していたはずなのに!」

エミーナがガタガタと震え出す。ベルナデットは冷徹な歩調で天幕の中へ入ってくると、エミーナの手からミルフィーユの箱を容赦なく没収した。

「エミーナ。あなたの『空間調達』の能力は、物体の質量移動に伴う微小な空気の振動(ポップ音)を発生させます。私が宮殿全体の音響データを解析した結果、先ほど厨房付近で発生した振動波形と、この天幕内部での波形が完全に一致しました。隠蔽工作としてはお粗末極まりありません」

「うぅぅ……ロジカルにバレたぁ……!」

「さらに、ロゼッタ」

ベルナデットは背後の妹分に視線を向けた。

「あなたはエミーナがこの密輸を行うことを、三分前に予知していたはずですね? なぜ止めなかったのですか」

ロゼッタはすんと澄ました顔で、人差し指を唇に当てた。

「お姉様、私の予知では、この後、セシリア様がミルフィーユを一口召し上がった瞬間に、非常に幸福な表情をされる映像が見えていました。主の幸福を阻むことは侍女の義務に反します。ゆえに、見逃すのが最適解であると判断しました」

「それはただの職務怠慢です。あるいは、私がこうして突入してくることまで予知した上で、私を『悪役』に仕立て上げるためのフェイントですね?」

「あら、お姉様。そこまでお見通しでしたか」

ロゼッタがくすくすと笑う。リヴィエール家の娘たちの間で、再び高度な心理戦が展開される。

「もう! ナデット! 一口くらい良いじゃない! 今日は大収穫祭よ!? 領民があんなに食べてるのに、なんで私たちが我慢しなきゃいけないのよ!」

セシリアが本気で膨れると、親王妃リゼリアも苦笑しながら助け舟を出した。

「ナデット、私からも頼むわ。今日の収穫祭の成功は、あなたの完璧な事務処理と、エミーナたちの働きのおかげよ。少しの『報酬』くらい、統計的なエラーの範囲として認めても良いのではないかしら?」

主であるリゼリアにそう言われると、ベルナデットは流石に言葉を詰まらせた。彼女は眼鏡の奥の瞳を何度か瞬かせ、手元のミルフィーユと、主たちの顔を交互に見比べた。

「……リゼリア様がそこまで仰る直感的な動機を、私は否定できません。リヴィエール家の万能型としての能力において、王太后フレデリカ様なら『民の喜びは主の活力であり、その活力は明日の労働生産性を五パーセント向上させる』と判断されるでしょう」

ベルナデットは、没収した箱をそっとセシリアの前のテーブルに置いた。

「制限時間は五分です。セシリア様は三分の一、リゼリア様は三分の二を摂取してください。エミーナ、あなたが摂取して良いカロリーはゼロです。あなたがこれ以上太れば、セシリア様へのバツ(連座制)として、明日の朝食をすべて根菜のボイルに変更します」

「ひ、ひえぇぇーっ!? 私だけ本当に不幸な少女になっちゃいましたぁー!」

天幕の中に、楽しげな笑い声が響き渡る。10月の夕暮れの光が、贅沢なデザートを囲む主従の姿を柔らかく照らしていた。



◇

午後十一時四十五分。

大収穫祭の熱狂は、夜の帳とともにようやく静まり返っていた。宮殿の中庭には、楽しげな宴の余韻を残すように、消えかけの篝火(かがりび)がパチパチと音を立てている。

全ての片付けを、得意の「一瞬片付け能力」で(泣き言を言いながらも)終わらせたエミーナは、自身の控え室のベッドに倒れ込んでいた。

「うぅ……今日一日、本当に酷使されて、世界で一番かわいそうな侍女でした……。でも、最後にリゼリア様が『ありがとう』って言ってくれたから……私は可哀想だけど、満たされた哀れな少女として……寝ます……むにゃ……」

エミーナは、自分が演じきった「薄幸の少女」のロールプレイにこれ以上ない満足感を覚えながら、一瞬で深い眠りに落ちていった。

その隣の部屋では、ロゼッタが静かに髪を梳かしていた。

「明日の一番最初の仕事は、午前六時十五分、セシリア様が寝ぼけてベッドから落ちるのをクッションで受け止めること……ね。ふふ、お見通しの毎日は、退屈だけど、あの人たちのフェイントだけは予測できなくて面白いわ」

彼女もまた、小さな笑みを浮かべて蝋燭の火を消した。

そして――。

親王妃の寝所のすぐ隣にある特級控え室では、未だに一つの明かりが灯っていた。

ベルナデットは、机の上に広げた巨大な収穫祭の「総括報告書」に向かい、最後の数字を書き込んでいた。

「……総来場者数、予測比プラス三・二パーセント。経済効果、目標値の一〇二パーセントを達成。懸念されていた暴動、汚職による損失はゼロ。……完璧ですね」

パタン、と重厚な報告書を閉じる。

彼女の指先は、一日中の激務でわずかに震えていたが、その表情には深い、底知れぬ充実感が満ちていた。

彼女にとって、大収穫祭とは単なる祭りではない。宮廷という巨大なカオスを、自身の知性と、統計と、理論によって「完璧なる秩序」へと調律するための、壮大な実験場なのだ。

ベルナデットは眼鏡を外し、疲れた目元を指先で押さえた。窓の外を見上げれば、十月の美しい満月が、静かに王宮の石壁を照らしている。

「エミーナの調達精度も上がっていますし、ロゼッタの先回りも、私の計算の補正に役立っています。……リヴィエール家の娘たちも、使いようによっては悪くない統計資源ですね」

彼女は誰に言うでもなくそう呟くと、明日の午前五時三十分から始まる「通常業務」のタイムスケジュールを手帳に書き込んだ。

全ては理論通りに。全ては完璧に。

「無慈悲のナデット」の、そしてリヴィエール家の風変わりで優秀すぎる侍女たちの、最高に騒がしくて完璧な一日が、こうして静かに幕を閉じた。


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