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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『アクアパレスの人々』帝国歴302年
45/287

『副代官マグナスと十月の実り』

朝靄が、秋深まるアルヴェリア親王領の中心都市アクアパレスを包み込んでいた。

十月。北からの風には明らかな冷気が混じり、街道沿いのナラやブナの木々は鮮やかな金と琥珀色に染まっている。広大な農村地帯からは刈り取られたばかりの麦と米の芳しい香りが漂い、遠くの醸造所からは里芋の新酒を仕込む甘い香気が立ち上っていた。

政庁の一角にある「副代官の執務室」の窓から、蝋燭の光がひとつ、ぽつりと漏れている。

マグナス・クレインは、羊皮紙の上に羽ペンを滑らせていた。上質なインクの匂いが、早朝の冷ややかで澄んだ空気と混ざり合う。五十代半ばの彼の髪には、すでに幾本かの白いものが混じっていた。かつては帝都オクタヴィアの財務院で記録官を務め、皇帝陛下の膝元で国の財政を記録する誉れ高い職にあった。第5皇子イリアードが親王の位を得て拝領を受けた際に、皇帝自ら彼を若い親王の補佐にと送ったのである。中央から東南の湿地帯。アルヴェリア親王領の「副代官」となってから、すでに四年が過ぎている。

「副代官様、そろそろ早課の鐘が鳴る刻限でございます。今朝は一段と冷え込みますな」

老僕のピエールが、湯気を立てる真鍮の水鉢を運んできた。マグナスは手を止め、短く息を吐いて羽ペンを置く。白い息が薄く立ち上った。

「親王殿下は、すでにお目覚めか?」 「はい。いよいよ来週に迫りました『大収穫祭』の準備で、昨夜は吟遊詩人や騎士たちと遅くまで宴を催されておりましたが、すでにお召しかえでございます」

マグナスは頷き、顔を洗うと、上質な羊毛で仕立てられた濃緑色のチュニックを身に纏い、腰には領主代行の証である太い革ベルトと印章リングを提げた。

「副代官」——親王の権限を補佐し、実務を代行する者。 領主である親王が狩猟や裁判、領内の巡察に臨む際、常に傍らに控え、陰で実務を取り仕切る代行官だ。領内のあらゆる実務と不始末を一手に引き受ける「実務の首脳」である。

「今月は年間で最も多忙な時期だ。感謝祭の準備と、領民からの年貢(十分の一税や年貢米・麦)の徴収を同時に滞りなく進めねばならん」

マグナスは小さく呟き、執務室の重い木枠の扉を開けた。

早課の鐘が城の塔から響き渡り、宮殿の大門が開かれた。衛兵や奉公人たちが慌ただしく行き交い始める。

マグナスの仕事は、まず領主であるアルヴェリア親王への「朝見」から始まる。領主は、皇室の血を引く気品あるイリアード親王であった。騎士道物語を愛し、鷹狩りや宴を何より好むが、領地の複雑な収支計算や行政の実務にはからきし疎い。

表向きはそのようにしていて、「副代官」マグナスの存在感と権威を一定の所で維持しているのである。

それは片腕であり、親子以上に歳の離れたマグナスへの敬意と信頼を意味していた。

豪華なタペストリーが飾られた大広間へ向かうと、親王はすでに里芋酒の杯を手に、機嫌よく暖炉の前に腰掛けていた。

「おお、マグナス! 待っていたぞ。いよいよ十月、我が領が誇る大収穫祭の月だ! 今年の感謝祭は例年以上に盛大にやりたい。隣領から招いた楽隊の宿所と、大聖堂に捧げる新麦や特産の里芋酒の準備は万全か?」

マグナスは丁寧にお辞儀をし、用意してきた羊皮紙の目録を差し出した。

「親王殿下、今朝の報告でございます。大収穫祭のための広場設営、および各村から集まる年貢の受け入れ計画をまとめております。ただし……」 「ただし、何だ?」

「十月は農民たちの秋の収穫を確定させ、年貢や領主税を徴収する最重要な時期でもございます。祭りの準備に浮かれ、各村での収穫量の査定や検分が遅れれば、冬を越すための領内の備蓄や、帝都への税の納付に差し支えます」

親王はすぐに笑い飛ばした。

「ハハハ、相変わらず堅苦しいな! 税の徴収も、祭りの警備も、すべてお前がうまく仕切ってくれれば問題あるまい。王妃もセシリアも動いている。計画書と報告書が届いたから、目を通しておいて欲しい」

「……承知いたしました。後ほど拝見いたします」

マグナスは深く頭を下げ、大広間を辞した。数千の農民が持ち寄る穀物を正確に計量し、祭礼を安全に運営する責任のすべてが、副代官である彼の肩にかかっていた。

執務室に戻ったマグナスは、怒濤のような書類処理に取りかかった。

彼の前に積み上げられたのは、領内のソルト・ラグーン。西アルヴェリア。南のフルヴィアルト。サン・マルタン村、ボア・ルージュ村、リヴィエール村などから届いた収穫報告と、収穫祭への出し物や供え物の申請書である。

「副代官様、サン・マルタン村の村長より報告です。収穫祭のメイン会場となる大聖堂前の広場にて、仮設の観覧台と野外祭壇を組んでおりますが、建材用の木材が不足しております」

属官の青年が駆け込んできた。マグナスは差し出された書状を開く。

「木材が不足だと? 先月、親王領の森からの伐採許可を出したはずだ」 「それが……大収穫祭に合わせて川を下ってくる大口の商人たちが、河港の倉庫を買い占めてしまい、運搬用の荷馬車と船が足りておらんのです」

マグナスの目が険しくなった。

「商人どもめ、祭りの混雑に乗じて運賃を吊り上げる気か。警備隊長を呼べ。親王の公用馬車と船を出し、森から直接木材を運ばせろ。また、市場監督官に通達し、河港の倉庫を不当に占有している商人には課徴金を科すと伝えろ」

「は、はいっ!」

すかさず次の案件が持ち込まれる。

「副代官様、ボア・ルージュ村より年貢の新麦一千ブッシェルを積んだ馬車隊が到着いたしました! しかし、祭りの出店を設営する職人と、麦を下ろす農民たちが交錯し、大門前が大混乱に陥っております」

「奉公人の頭(かしら)に命じて、広場を二つに分けさせよ。東側は年貢米・麦の下ろし専用、西側を祭りの準備専用とする。引き当てた労役の者どもには、今夜、新麦のパンと里芋酒をふるまう手配をしろ。腹が減っていては事故が起きる」

「副代官様、富裕な地主から『大収穫祭に奉納する巨大な牡牛と上等な熟成チーズ』が届きましたが、保管場所の気温が高く、痛むおそれがあります!」

「宮殿の地下大穴(カヴ)を開けさせろ。祭りの本番まで厳重に管理せよ」

裁定を下し、指示を与え、羊皮紙に署名する。インクの匂いと小麦粉の香ばしい匂いが執務室に満ちる。

十月は、中世の地方官吏にとって一年で最も苛烈な季節だ。一年間の農民の汗と血の結晶である「収穫」を過不足なく集め、同時に神々に感謝し領民を労う「大収穫祭」を無事に成功させなければならない。失敗すれば、冬の飢餓や農民の反乱、あるいは王室からの厳しい追及が待っている。

正午の鐘が鳴ると、マグナスは簡単な昼食——硬い黒パンと塩漬け肉、薄いエールだけの質素な食事——を数分で平らげ、すぐに馬を手配させた。

午後は、収穫祭の準備が進む現場の巡察である。

町に出ると、十月独特の熱気が充満していた。街道沿いには、刈り取ったばかりの麦藁で作られた巨大な十字架や飾りが掲げられ、市場の店頭にはりんご、干しぶどう、ナッツ、そして収穫されたばかりの南京桃(モモ)や南方の柑橘が山のように積まれていた。遠方の旅芸人や異国の商人たちも、収穫祭で沸く領地の富を求めて押し寄せている。

「まず、大聖堂前の広場へ向かう。その後、領主の穀物倉を検分する」

広場に到着すると、数十人の大工や石工たちが、神に捧げる巨大な野外祭壇を組み上げていた。しかし、マグナスの目は祭壇の足回りに注がれた。

「待て。作業を止めろ」

マグナスは馬から降り、足元の泥と木組みに歩み寄った。

「この支柱の打ち込みが浅い。十月のこの地域は、夕刻になると山からの強烈な下ろし風が吹く。祭りの当日に何千人もの領民がこの周囲に群がるのだぞ。強風でこの構造物が倒れたらどうするつもりだ?」

現場の大工棟梁が汗をかいて恐縮した。

「申し訳ございません! 親王殿下から『とにかく見栄えを豪華に、急いで作れ』とお言われしたもので……」

「見栄えよりも安全が先だ。今すぐ補強の斜め木を三本追加しろ。拒むなら、私が今すぐこの工事の許可を取り消す」

マグナスの妥協のない声に、職人たちは慌てて補強作業に取りかかった。

続いて向かった大穀物倉では、各村から運ばれてきた新麦の検定が行われていた。

役人たちが木製の枡で麦を測り、大袋に収めていく。マグナスは抜き打ちで一つの袋に近づき、麦の中に手を突っ込んだ。そして手の中の粒をじっと見つめ、一つを噛みつぶした。

「……湿っているな。この麦は乾燥が足りん」

担当の役人が青ざめた。

「ふ、副代官様、これは……リヴィエール村から納められたもので……」 「乾燥が甘い穀物をそのまま大倉に納めれば、冬の間にカビが生えて全滅する。そうなれば、来年春の飢饉の際、領民に配る救済用の穀物がなくなるのだぞ! 今すぐ広場に布を敷き、太陽が出ているうちに干し直させろ。リヴィエール村の検見官には叱責と過料を科す」

現場に緊張が走る。

収穫祭の華やかさに誰もが浮き足立つ中、マグナスだけは冷静に、厳しい冬の到来と来年の民の暮らしを見据えていた。

日没を告げる晩課の鐘が鳴る頃。

西の空に赤黒い夕焼けが広がり、城下町には早くも収穫祭を待ちわびる松明や提灯が灯り始めている。

マグナスが宮殿に戻ると、案の定、大食堂からは華やかなリュートやフィドルの音が響いていた。親王イリアードが、収穫祭の前祝いとして地元の有力貴族や騎士、裕福な商人を集め、宴を開いているのだ。

「副代官様、親王殿下がお呼びでございます」

マグナスはため息を呑み込み、上着の埃を払って宴席へ向かった。

大食堂には豪華な料理——丸焼きにされた鹿肉、新麦のパン、秋の果実をふんだんに使ったパイや上等な葡萄酒が並び、銀の杯が交わされていた。

「おお、マグナス! 遅かったな!」

親王は顔を紅潮させて杯を掲げた。

「どうだ、収穫祭の準備は? 民は喜び、天の神々も満足されるような素晴らしい祭りになりそうか?」

マグナスは親王の前に進み出で、静かに頭を下げた。

「親王殿下。広場の祭壇の補強を完了させ、各村から届いた新麦三千ブッシェルの検定と保管も手配いたしました。また、祭り当日の警備として宮殿の弓兵隊と自警団を配置し、乱闘や火災に備えております」

「うむ、うむ! さすがはマグナスだ! これで私も安心して神に杯を捧げられる」

親王は満足そうに頷くと、自慢げに言った。

「そういえばマグナス、朝の詩の続きはどうなった?『黄金の麦穂は実り、西の月に映ゆ……』だ」

宴席の貴族たちが期待の目を向ける。マグナスは一瞬目を閉じ、今日一日見てきた景色を思い浮かべた。

ぬかるみの中で懸命に構造物を補強していた大工たち。汗だくになって麦袋を運んでいた農民たち。そして、黄金色の田畑を守り抜き、秋の収穫を喜ぶ領民たちの顔。

マグナスは静かに口を開き、即興の詩を紡いだ。

「黄金の麦穂は実り 西の月に映ゆ 千の松明が灯り 秋の実りを讃う 誰も言うことなかれ この太平の宴はただ楽しむためのみと 重き馬車は すでに万民の命たる倉を満たして帰りぬ」

(黄金の麦穂は実り、西の空に浮かぶ月に美しく映えている。千の松明が灯り、秋の豊かな実りを讃え合っている。だが、誰もこの平和な宴をただ楽しむためだけのものだと言ってはならない。あの重い副代官の馬車は、すでに万民の命を支える秋の倉をいっぱいに満たして城へと帰ってきたのだから)

一瞬の静寂の後、親王がテーブルを叩いた。

「素晴らしい!『万民の命たる倉を満たして帰りぬ』か! まさに我が領地の豊かさを象徴する名句だ! さあ、マグナスにも里芋酒を注げ!」

宴席から歓声が上がる。マグナスは恭しく杯を受け取り、一口だけ口を含んだ。彼らが讃える「豊かさ」が、どれほど細かい計算と泥臭い現場の指揮によって支えられているかを知る者は、この席には誰もいなかった。だが、胸の奥に灯る確かな自負があった。

夜警が回る刻限(午後十時頃)。

宴を辞したマグナスは、再びしんと静まり返った執務室に戻っていた。

窓の外では、十月の冷たい夜風が城の石壁を舐めている。

老僕のピエールが、温かいハーブティーを運んできた。

「副代官様、今夜は一段と冷えます。どうぞ暖かくなさってください」 「ありがとう、ピエール」

マグナスは机に向かい、明日の大収穫祭直前の最終確認書を開いた。

「明朝は夜明け前より、大聖堂への奉納品の検分。正午からは各村の村長たちへの恩賞の賜与。夕刻からは、川での灯籠飾りの取締り……」

頭は冴え渡っていた。

帝都オクタヴィアで夢見た華やかな政治の道からは外れた。しかし、十月のこの領地で、黄金色の収穫を守り、何千もの領民が安心して秋の感謝祭を祝えるよう裏で舵を取る。この「副代官」という陰の職務に、今やマグナスは深い誇りを感じていた。

「ピエール」 「はい、副代官様」 「明日の朝は、夜明け前に起こしてくれ。会場の火の気の確認と、警備の配置を私自身で見て回りたい」

「かしこまりました」

マグナスは羽ペンにインクを浸し、最後の羊皮紙に力強く自分の印章を押した。

赤い蝋(シーリングワックス)の上に刻まれた紋章が、油ランプの揺れる光の中で鮮やかに浮かび上がる。

遠くで、城の塔から夜警の打つ鐘の音がゴーン、ゴーンと秋の澄んだ夜空に響き渡っていた。

マグナス・クレインは静かに息を吐き、蝋燭の灯りを吹き消した。 大収穫祭を翌週に控え、実りの秋を迎えた領地が深い眠りにつく中、副代官の長い一日は静かに幕を閉じ、また次の多忙な朝へと続いていく。

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