『秋風吹く離宮にて』
十月の冷涼な風が離宮の庭園を吹き抜け、赤く染まった樹々から枯れ葉が石畳を舞う刻限、遠く本城からかすかに黎明の鐘が響いてきた。
王太后フレデリカは、離宮の落ち着いた寝所で静かに瞼を開けた。羊毛の厚い帳を自らの手で開けると、長年彼女に仕える筆頭侍女のアグネスが忍び足で近づき、銀の洗面器と温かい手拭いを捧げ持った。
今年二十一歳を迎えた息子イリアードが完全に親政を執るようになって以降、フレデリカはアクアパレスの政庁の喧騒を離れ、郊外の離宮へと居を移していた。しかし、権力の中心から退いたとはいえ、彼女の一日が静寂だけに包まれるわけではない。まもなく全土から領主が集う「大収穫祭」の準備が最高潮を迎えており、親王府を預かる若い二人の妃から相談を受けることになっていたからだ。
「王太后殿下、本日のお召し物でございます。本日は親王府より王妃リゼリア様と側室セシリア様がお見えになります。深緑のシルクに漆黒のベルベットを重ねた、落ち着きと威厳ある装いをご用意いたしました」
アグネスの手伝いで着替えをしながら、フレデリカは自然と背筋を正した。
親王府を率いる王妃リゼリアと、それを支える側室セシリア。二人はフレデリカにとって大切な姪であり、親王イリアードにとっては血の分けた従兄妹同士でもある。そしてリゼリアとセシリア自身もまた互いに従姉妹という、複雑でありながら強い血の絆で結ばれていた。先帝の側室であったフレデリカは2人の姪を後宮に呼んで、皇子と共に育てた。そして息子イリアードが成人した後に、ここアルヴェリアを親王領として拝領して、姪の二人を親王の妃としたのだ。
若い二人にとって、かつて帝都の後宮で血の滲むような暗闘を勝ち抜いてきた叔母のフレデリカは、何よりも頼もしい指導者であった。
朝の光がテラスに差し込む頃、離宮に豪華な馬車が到着した。
応接室に通されたのは、華やかなドレスに身を包んだ王妃リゼリアと、少し控えめながら聡明な瞳をした側室セシリアだった。
「王太后殿下。朝早くからお時間をいただき、感謝いたします」
気品ある一礼をするリゼリアの隣で、セシリアも静かに深々と頭を下げた。だが、二人の表情にはどこか疲労と戸惑いの色が滲んでいる。
「二人とも、離宮では『義母様』で構いませんよ。旅の疲れはありませんか? さあ、座りなさい」
フレデリカが柔らかく微笑むと、緊張がほぐれたのか、リゼリアが息を吐きながら口を開いた。
「義母様、実は大収穫祭での取り仕切りについて、老練な貴族の夫人方から様々なお小言や圧力を受けておりまして……。殿下はお忙しく、私どもの些細な悩みで煩わせるわけにはまいりません。どうか知恵をお貸しいただきたいのです」
「東部領のマルロ夫人を中心に、伝統的な儀礼の形式を盾に取られておりますの」とセシリアが補足する。「姉様のご威光を削ぎ、自身の派閥の存在感をアピールしようという思惑が透けて見えます」
若き従兄妹同士で助け合いながら領国を守ろうとする姪たちの姿に、フレデリカはかつての自分を重ね合わせた。
「焦ることはありませんよ、リゼリア、セシリア。相手はあなたがたの若さと経験の浅さを突いているだけです。伝統を盾にされたなら、あえてそれを逆手に取るのです」
フレデリカは静かに温かいお茶を口に含み、二人を見つめた。
「夫人が主張する古い形式をそのまま採用してあげなさい。ただし、『大変な労力を伴う伝統の差配は、言い出しっぺである夫人ご自身に全責任を持ってお任せする』と親王府全員の前で言い渡すのです。成功すれば王妃の度量、失敗すれば夫人の手落ち。さあ、相手はどうでるかしら?」
リゼリアとセシリアは一瞬顔を見合わせ、やがてハッとしたように表情を輝かせた。
「敵の要求を拒絶して対立するのではなく、過大な責任ごと押し返して足をすくうのですね……!」
「そうです。政治も後宮の仕切りも、刀を抜かずに盤上の敵を詰ませる戯れ。あなた方は二人で協力し合える強みがあります。イリアードを支えるためにも、堂々と構えていなさい」
「はい、義母様!」
自信を取り戻した姪二人は晴れやかな顔で深く一礼し、大収穫祭の準備が待つ本城へと戻っていった。
夕刻、十月の冷たい風が吹き抜ける離宮のテラスで、フレデリカは静かに夕焼けを眺めていた。遠くアクアパレスからは、大収穫祭の装飾を飾る民たちの賑やかな声が風に乗ってかすかに届いてくる。
夜、「夫人が青ざめて撤回を申し出た」というリゼリアからの感謝の念話が届いた。
「殿下、リゼリア様もセシリア様も見事になされましたね。イリアード陛下もお喜びでしょう」
控えていたアグネスの言葉に、フレデリカは遠くの秋空を見上げながら微笑んだ。
「ええ……あの二人なら、イリアードの良き伴侶として、そして親王府の主として立派にやっていけるわ。私の教えをしっかり受け継いでくれているもの」
入宮して十八歳で先帝の側室となり、二十代で母となり、三十代で夫を失った。青春のすべてを過酷な権力闘争に捧げてきたが、その苦難の年月は今、離宮の穏やかな庭園と、たくましく育った息子、そして頼もしい姪たちの姿という確かな実りを結んでいる。
「大収穫祭が無事に終わったら、あの子たちも誘って、離宮でゆっくりお茶会でも開きましょうか」
「ええ、殿下。きっと喜ばれることでしょう」
重い宝飾品を外し、王太后の仮面を脱いだフレデリカは、ただの「四十一歳の女性」に戻り、静かな離宮のベッドへと潜り込んだ。
十月の冷気の中、遠く本城の塔から夜半の鐘が鳴り響く。明日もまた、離宮から愛する家族を見守る一日が始まる。その胸には確かな誇りと、深く穏やかな安らぎが満ちていた。




