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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『アクアパレスの人々』帝国歴302年
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『月光とパンの香る廊下で」

薄暗い石造りの厨房で、石炭の煙と焼き立てのパンの香りが混ざり合っていた。

「エミーナ、ほら、また手が止まってる」

黒髪を端正にまとめたロゼッタが、冷静な声で諭しながら、エミーナの腕を軽く小突いた。その真面目な眼差しに、ふんわりとした金髪を揺らしたエミーナはハッとして慌てた。

「ふぇっ!? ご、ごめんなさいロゼッタぁ……!」

天然で行き届かないところのあるエミーナは涙目で慌てて木製の盆を押し戴き、白銀の小瓶からジャムを銀の小皿へ掬い取った。あまりの慌てぶりにジャムが少しお皿の端に跳ね、ロゼッタが小さくため息をつく。

ふたりは、アルヴェリア親王国の君主である21歳の親王イリアードの側室、19歳のセシリアに仕える侍女だった。同じ年に同じ田舎町からこの親王府へ奉公に出てきてから、ちょうど3年が経つ。今年でともに15歳になる二人の主な仕事は、早朝の火おこしから夜の衣類の整理、そしてセシリアの朝食の給仕を行うことだった。

アルヴェリア周辺に深く根を張る土豪「リヴィエール一族」。遥か昔にこの地へ流れ着いた異国の漂流民の血を引くとされ、一族には浮世離れした美貌の持ち主が多く生まれる。20歳の王妃リゼリアも、19歳の側室セシリアも、そして最下層の侍女である金髪のエミーナと黒髪のロゼッタまでもが、実は同じリヴィエールの一族の娘であった。しかし、一族の根幹に関わる「実は全員、一族特有の深刻な方向音痴である」という「もう一つの秘密」について語ることは、血を分けた彼女たちの間でも固く禁じられた暗黙のタブーとなっていた。城の中で迷子になり、美しい顔で澄ましながら庭を何周も彷徨うのは、彼女たち共通の隠れた苦労だった。

暦は10月。アルヴェリア親王国ではもうすぐ、国中が沸き立つ一年で最大の大行事「大収穫祭」が開催されようとしていた。

「ねえ、ロゼッタ。今日のセシリア様、ご機嫌どうかなぁ? 収穫祭の準備で街中が大騒ぎなのに、最近なんかピリピリしてない?」

「愚痴をこぼさないの」

ロゼッタはいつも通り淡々と、けれど手際よく給仕の準備を進める。

「昨日の夜、主厨房のジャンから聞いたでしょう。大収穫祭の準備で、お城の全員が寝不足なの。もし私たちの仕事に手落ちがあったら、居残りでお説教だよ」

「うぅ、居残りは嫌だよぉ……」

エミーナはすぐに涙目になって背筋を寒くし、身震いした。同じ血を引く一族とはいえ、身分の差は絶対的であり、最下層である15歳の侍女に与えられる自由時間は羽毛よりも軽い。

ふたりは磨き上げられた銀の給仕盆を持ち、薄暗い廊下を音も立てずに歩いた。磨き抜かれた大理石の床は冷たく、革の薄い履物を通して足裏から体温を奪っていく。収穫祭を前に、廊下には色鮮やかな秋の果実や小麦の穂で編まれた飾りが施されていたが、その華やかさの影にも、迷子になった別の一族の者がウロウロしていると言われていた。

重厚なオーク材の扉の前で一礼し、給仕長の老女に目配せをしてから、ふたりはセシリアの寝所へと足を踏み入れた。

天蓋付きのベッドの中では、まだ19歳という若さの美しいセシリアが、深紅の絹 of シーツに埋もれるようにして横たわっていた。21歳の親王イリアードと正妻である20歳の王妃リゼリア、そして19歳のセシリアは幼少期からの従兄妹・従姉妹同士だった。親王国全体がお祝いムードに包まれている中で、セシリアはその準備書類の山に疲労困憊しているのであった。

「セシリア様、朝食をお持ちいたしました」

ロゼッタが凛とした透き通るような声で呼びかけ、深く膝を折る。エミーナもそれに続いて、今度は失敗しないようにと少し緊張した面持ちで、素早く給仕台を整えた。

山羊の乳のチーズ、薔薇の水で香りをつけた温かいパン、そして蜂蜜をふんだんに使った10月の旬である無花果のコンポート。朝食の香りが室内に広がるが、セシリアは重い足取りでベッドから起き上がると、小さなため息をついた。

「……今日は何も食べたくないわ。ロゼッタ、髪を解きなさい。エミーナ、香水を用意して。大収穫祭に向けて、一番強いオリエントの香りを」

「かしこまりました」

ふたりは手際よく動き始めた。冷静なロゼッタはセシリアの金糸のような髪に丁寧に銀の櫛を通し、エミーナは少しおっとりとした動作で、羊皮紙に包まれた貴重な香料を銀の香炉で焚く。

鏡越しに見るセシリアの瞳は、どこか遠くを見つめていた。リヴィエール特有の浮世離れした美貌を持つ彼女だが、寵愛を失えばこの豪華な部屋も、美しいドレスも、そして侍女たちの居場所さえも一瞬で奪われる。15歳のふたりにも、その厳しさは嫌というほど理解できていた。

「ロゼッタ」

19歳の公妃がふと呟いた。

「私は今日、美しく見えるかしら。リゼリアお姉様のように……大収穫祭を前に、殿下の寵愛を私が失っていると思っているのよね?」

リヴィエールの血の力で、他人の心がなんとなくわかるのである。

最も得意とするのが王妃リゼリアで、セシリアはどちらかと言えば、念写、念動、瞬間移動、さらにはパイロキネシスを得意とする、少し風変わりな能力の持ち主だった。親王府の隣の大倉庫から、無尽蔵に物資を供給しているのは、実はセシリアが瞬間移動の力で「こっそり裏から運んできている」からである。アルヴェリアの繁栄は、セシリアの隠れた超能力的な力による尽力と言っても過言ではなかった。

給仕長やベテランの侍女であれば、洗練された世辞で答えるところだった。しかし真面目なロゼッタは一瞬だけ手を止め、真摯な瞳で鏡の中のセシリアを見つめ返した。

「セシリア様は、城内で最も美しいお方です。この髪の輝きも、どんな宝飾品もかないません。大収穫祭で親王様がご覧になれば、必ずや目を奪われるはずでございます」

その言葉には、へつらいではない純粋な響きがあった。セシリアは少しだけ表情を和らげ、小さく頷いた。

「……そうね。ありがとう、ロゼッタ。エミーナ、コルセットを持ってきなさい。今日はあのアラバスターのドレスを着るわ」

「はい、ただいまです!」

エミーナは心の中で「あの着せるのに一苦労する重たいドレスだぁ……がんばらなきゃ」と緊張しつつも、迅速に衣装室へ走った。

昼下がり、セシリアが他の貴婦人たちとの茶会へ向かった束の間、15歳のふたりには束の間の休息が訪れた。といっても、大収穫祭のために用意された膨大な衣類の洗濯と補修という仕事が待っている。

10月の秋空が広がる裏庭の井戸端で、ふたりは大きな木桶を挟んで座り込み、レースの襟元を石鹸で洗っていた。

「ふう……冷たいっ! 10月になると水がすごく冷たくなるね」

エミーナが金髪を少し濡らしながら井戸水に手を浸して文句を言うと、ロゼッタはあきれたように笑った。

「文句を言わないの。でも、エミーナ。さっきセシリア様の前でドレスの名前を言われた時、ちゃんとすぐに動けたのは偉かったわよ」

「えへへ、ロゼッタに褒められちゃった。でも、私だったらセシリア様の前だと緊張して、すぐ涙目になっちゃうよ。ロゼッタはいつも落ち着いていてすごいなぁ」

「私は真面目に仕事をこなしているだけよ」

ロゼッタは黒髪をかき上げ、淡々と手元を動かす。

「19歳のセシリア様、お綺麗だけど、なんだかいつも忙しそうで悲しそうに見えるでしょう? 私たちと同じリヴィエールの血を引いていても、21歳の親王様も20歳のリゼリア様も従兄妹同士だからこそ、親戚の付き合い特有の逃げ場がないのよ。一族のあの『方向音痴のタブー』だって、誰も口にできないしね……」

ふたりはハッとして口をつぐみ、顔を見合わせた。一族の真の謎である「実は全員重度の方向音痴」――決して触れてはならない暗黙のタブーの影が、秋の冷気とともにふたりの間を吹き抜ける。故郷の村の風景や、庭で迷子になってポロポロ泣いていた幼い頃の自分、そして一緒に迷子になっていた家族の顔を思うと、胸がキュッと締め付けられた。

「ねえ、ロゼッタ。もし私たちが親王様のお気に入りじゃなくなったら、どうなるのかな……」

エミーナの大きな瞳に、また少し涙が浮かびかける。

「馬鹿なことを言わないで、泣き虫さん」

ロゼッタは冷静に、けれど優しくエミーナの頭を軽く小突いた。

「私たちはただの15歳の侍女なんだから、お気に入りも何もないわ。しっかり働いて、定年まで生き延びて、いつか街で小さなお店でも開くの。それが私たちの目標でしょう?」

「そうだった……! ロゼッタと二人で、美味しいパン屋さんを開くんだよね。大収穫祭にたくさん売れるような、絶対に道に迷わない看板を掲げたパンを焼くんだ!」

エミーナはぱっと笑顔になり、天然ゆえの勢いで、濡れた手からロゼッタの頬に水をはねかけてしまった。

「あ……ごめんなさいっ!」

「あ。やったわね、エミーナ」

いつもは冷静なロゼッタも少しだけ悪戯っぽく微笑み、小さく水をはね返した。ふたりは束の間、15歳の少女らしい声をあげて笑い合った。親王府の張り詰めた空気から解放される、唯一の瞬間だった。

夕刻、離宮に緊張が走った。親王イリアードが、茶会の後に立ち寄られるという報せが入ったからだ。

部屋は一変して戦場のようになった。床には10月のハーブが撒かれ、燭台には高価な蜜蝋のろうそくが何本も立てられる。エミーナとロゼッタは呼吸を合わせ、セシリアの裾を整え、部屋の隅に控えた。エミーナは緊張で少し手を震わせていたが、ロゼッタが隣でそっと佇む姿を見て、必死に涙をこらえて背筋を伸ばした。

重い扉が開き、重厚な足音が響く。漆黒のヴェルヴェットの外套を羽織った親王が入室すると、セシリアは華麗なお辞儀で迎えた。

ふたりは深く頭を下げ、床の石畳だけを見つめて息を潜めた。親王の靴のバックルが、ろうそくの光を反射して怪しく光っている。

「セシリア、息災だったか。もうすぐ大収穫祭だな。リゼリアも、お前のことを気にかけていたぞ」

「はい、イリアード様。お目にかできて光栄にございます。王妃様にもよろしくお伝えくださいませ」

幼い頃のように呼び合うことすら許されない、数分間の短い会話。セシリアの微笑みも、親王の心を完全に引き繋ぎ止めているようには見えなかった。……しかし実は、二人は口では澄ました会話を交わしながら、裏では『(今年の収穫祭のパレードのルート、また迷子になりそうなんだが……)』『(念話で私にルートを聞かないでください、私もわかりません)』という、一族の秘密に関わる必死のやり取りを交わしていたのだった。

親王は一杯のワインを飲み干すと、すぐに大収穫祭の公務があると言って部屋を去っていった(案の定、廊下で少し逆方向に歩きかけていた)。

扉が閉まった瞬間、部屋に重苦しい、どこかシュールな沈黙が降り積もった。

セシリアはそのまま崩れ落ちるようにソファーに座り込み、顔を覆った。親王から指示された仕事(とルート確認)が山積みだったからであった。

ベテランの給仕長が合図を送り、部屋の明かりを落とすよう指示した。侍女たちは静かに退出していく。

夜深く、小さな侍女部屋。

細いベッドに15歳同士の二人で身を寄せ合い、硬い毛布をかぶりながら、エミーナとロゼッタは天井を見つめていた。小窓からは、10月の澄んだ冷たい月光が差し込んでいる。

「……親王様、すぐに帰っちゃったね。もうすぐ大収穫祭なのに」

エミーナが金髪を毛布にうずめ、小さな声で呟いた。

「うん。セシリア様、今夜は眠れないだろうね」

「華やかなドレスを着て、美味しいものを食べて、綺麗な部屋に住んでいても……全然幸せそうじゃないや。私たちと同じリヴィエールの血を引いていても、誰も救われないのかなぁ……うぅ」

不安になってシクシクと泣き出しそうになるエミーナの手を、ロゼッタは毛布の中でキュッと握りしめた。

「大丈夫よ、エミーナ」

ロゼッタの声はいつも通り冷静で、だからこそ、とても頼もしかった。

「私たちは、二人で助け合っていこうね。大収穫祭でどんなに忙しくても、一族の秘密に縛られても……私たちが一緒なら、道に迷ってもお互いを見つけられるから。だから、泣かないの」

「ロゼッタ……うん! 私、ロゼッタがいてくれて本当によかったぁ……」

エミーナは涙を拭い、黒髪の相棒の手を強く握り返した。

アルヴェリア親王国の貴族たちの権謀術数と、リヴィエール一族の少し困ったタブーが渦巻く冷たい石の城の中で、自分たちを守ってくれるものは何もない。けれど、この小さな温もりと、真面目なロゼッタと天然なエミーナの二人が分かち合う未来の夢だけは、誰にも奪うことのできない確かな光だった。

明日もまた、10月の冷え込む日の出前に起きて火を熾さなければならない。エミーナとロゼッタは互いの体温を感じながら、静かにまぶたを閉じた。


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