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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『アクアパレスの人々』帝国歴302年
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『琥珀と葡萄の謀略』


夜の深みと朝の浅瀬が交わる刻、アルヴェリアの中心都市、アクアパレスの親王府。統治者たる親王の居館の東棟は、冷え切った石造りの静寂に包まれていた。

セシリアが目を覚ましたのは、部屋の角に置かれた大きな振り子時計が重々しく五つの音を刻む前だった。羽根布団のなかでそっと息を吐くと、白く小さな霧が立ち上る。十月の澄んだ秋気が、窓の重い天鵞絨(ビロード)の隙間から滑り込み、部屋の絨毯を凍てつかせていた。

「……お目覚めですか、セシリア様」

帳(とばり)の向こうから、低く抑えた声が聞こえる。侍女のロゼッタだ。彼女はセシリアと同じリヴィエールの一族の娘で15歳と成長したので仕える事になった。黒髪の美しい少女である。

「おはよう。ロゼッタ。エミーナは?」

セシリアが尋ねると、ロゼッタは静かに天蓋のカーテンを左右に引き開けた。

「エミーナは夜明けすぐに王妃様方の応援に。もうすぐ十月の大収穫祭(グランド・ハーベスト)でございますから、準備で、王妃殿下も息をつく暇もないご様子です」

セシリアは頷き、ベッドの上に身体を起こした。

今年19歳になるセシリアがこのアクアパレスの親王府へ入ったのは、4年前のことだ。二歳年上の若き親王殿下——今年21歳になるアルヴェリア親王イリアードの側室となった。イリアードと王妃リゼリア、そして側室のセシリアは互いに従兄妹、従姉妹の関係にある。幼少期から帝都の後宮にて実の姉妹以上に身を寄せ合って育った、かけがえのない「親友」同士とも言える。セシリアは身支度が始めた。

十月の朝はひんやりとした冷気を感じる。ラベンダーの湯気を立てる洗面器で肌を清め、ローズウォーターで湿らせた布で背中を拭う。

次いで、取り出されたコルセットを見ると、手を払った。

腰の細さは女性の品位であり、美しさの証だが、

元々細身の彼女はあまり必要としない。

時として女性達が集まる場では、鎧の代わりに身につけるが、その日のスケジュールは『女性の軍装』なるものは必要無いようである。

「本日の朝食会。身につけるドレスは、こちらの黄金色に輝く琥珀色の天鵞絨になさいますか?」

ロゼッタが提示したドレスを見て、セシリアはかすかに微笑んだ。

「ええ、それにしましょう。リゼリア……王妃様とお揃いの秋の色だわ。まもなく行われる収穫祭に向けて、王家の豊穣と団結をアピールするお約束をしていたの」

「……かしこまりました。王妃様とのご懇意ぶりを示しつつ、旧貴族たちの嫉妬を買いすぎぬよう、飾りの真珠は控えめにしておきましょうね」

収穫祭は、単なる祭典ではない。国内外から数万の民と使節が集まる、21歳の若き親王殿下の権威と帝国の中の重鎮としての資質を示す最大の政治舞台だった。王妃と側室が密に手を組んでいるという事実は、表に現れていない敵対勢力にとって最大の脅威となる。二人で仕掛けるこの絶妙な政治的演技こそが、セシリアとリゼリアの生き残る道だった。

化粧が施される。白粉で肌を白く塗りつぶし、秋らしい紅を頬と唇に差す。鏡の中に浮かび上がったのは、セシリアという名の少女ではなく、「親王の愛妾」にして「王妃の最大の同盟者」の姿だった。

2. 葡萄と毒薬の朝食会

午前八時。セシリアはニ人の侍女を従え、王妃の居室へと続く回廊を歩いていた。

窓の外に広がる城下町では、すでに十月の収穫祭に向けた飾付けが始まっていた。麦の穂で作られた大きな輪や、赤や金に染まった旗が街を彩っている。

「王妃殿下がお待機です」

重厚なオーク材の扉が開かれると、熟した葡萄の甘い香りと、立ち上る肉の薫製、そして暖気がセシリアを包んだ。

朝食の広間には、すでに十数人の高貴な貴婦人たちが集まっていた。部屋の奥のテーブルに腰掛けているのが、王妃リゼリアであった。セシリアより二歳年上の21歳。若くも気品に満ち、その美しい瞳には鋭い知性が宿っている。

「遅かったですね、セシリア」

王妃の声が響くと、広間の雑音が一瞬で消え去った。

セシリアは深く膝を折り、最敬礼をした。

「お許しください、王妃殿下。親王殿下の使いが大倉庫の急を依頼して来た為、身支度に時間を要してしまいました」

王妃リゼリアの唇に、優雅で、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「そう。殿下が初めて主導される大規模な収穫祭ゆえ、力が入るのも無理はありません。ですが、あまり消耗させぬよう気を配るのも、傍にいる私たちの務めですよ」

「身に余るお言葉、胸に刻みます」

「さあ、私の隣にお掛けなさい。採れたての葡萄と温かいスープを」

いつもと同じ側室ではありえない「王妃の隣」という特等席にセシリアが座ると、周囲の貴婦人たちから刺すような視線が注がれた。

テーブルには、出来立ての白い小麦パン、旬の鹿肉の煮込み、そして秋の恵みである紫と緑の完熟葡萄が並べられていた。二人は仲睦まじく会話を交わしながら、巧妙に周囲の貴族たちの探りを潜り抜けていく。

「セシリア様」向かいに座る老侯爵夫人が、ねっとりとした声で話しかけてきた。「収穫祭では、諸外国から大勢の貴賓がお見えになります。側室様があまりお出しゃばりになると、親王国の威信に関わると懸念する声もございますのよ?」

セシリアは穏やかに微笑み、葡萄を一粒、優雅に口へ運んだ。

「侯爵夫人。各国の使節をお迎えするのは、当然ながら王妃殿下の高貴なるお役目ですわ。私はただ、影となりて殿下の裾を支え、祭りの裏方として尽力するのみでございます。……ねえ、リゼリア姉様?」

意図的に漏らした「姉様」という呼び名に、広間が息をのむ。

「ええ、セシリアの言う通りよ」王妃リゼリアが冷ややかな声で引き継ぐ。「この収穫祭は、若き親王殿下と我が親王国の栄光を示す場。古いしきたりばかりにとらわれて、内輪の揉め事を国外に見せるような愚は犯しませんわ。私とセシリアは完璧な手筈を整えておりますから、皆様は安心してお祭りをお楽しみなさるといいでしょう」

侯爵夫人は顔を青くして黙り込んだ。

食事を終え、貴婦人たちが退室すると、二人は一瞬だけ素の顔に戻り、手を取り合って小さく笑い合った。



◇

午後三時。セシリアは親王の居室へと呼び出された。

図書室は、巨大な暖炉に太い薪がくべられ、パチパチと心地よい音を立てていた。暖炉の前のテーブルで、一人チェス盤に向かっていたのは親王殿下だった。

二十一歳の彼は、若々しい凛々しさを残しながらも、収穫祭を間近に控えた緊張感と情熱を全身から漂わせていた。

「来たか、セシリア」

「お呼びでございます、親王殿下」

セシリアが近づくと、親王殿下はすぐに彼女の手を取り、向かいの椅子へと引き寄せた。「向かいに座れ」

二人の前に、茶器が並んでいた。

イリアードが器に茶を注いで差し出した。

「朝食会はどうだった? 誰かと喧嘩でもしなかったか?」

「まさか。収穫祭の席順についての打ち合わせを完璧に済ませましたわ。殿下が今朝、どちらの寝床から起きたのかと、その話でもちきりでしたけど」

「ははっ! 相変わらずくだらない探りを繰り返しているのだな」

親王は笑いながら、茶を口に含んだ。

「セシリア。十月の収穫祭だが、俺は中央の大広場で民に無料で里芋酒と肉を振る舞いたいのだ」

セシリアは黒のビショップを静かに動かした。

「殿下。お気持ちは分かりますが、無制限の振る舞いは暴動の引き金になりますわ。十月の寒さで酒が入れば、群衆は容易に暴徒と化します。振る舞い酒は正午から夕刻までの三時間に限定し、引き換えに『親王家の紋章入りの焼餅』を配るのです。民は持ち帰って家族と分かち合い、永く殿下の仁徳に感謝するでしょう」

親王は驚いたように目を細め、じっとセシリアの顔を見つめた。

「……お前は本当に凄いな。リゼリアも全く同じ提案をしてきたのだ。『無制限の酒は治安を乱すから、焼餅と引き換えにしなさい』とな」

親王は身を乗り出し、セシリアの手を力強く握りしめた。その手はあたたかく、若い熱に満ちていた。

「お前とリゼリアがいてくれてよかった。二人がいれば、俺はこの収穫祭を帝国史上、最も偉大な祭典にできる」

「……殿下のお力になれるなら、これ以上の喜びはございません」

セシリアは微笑んだ。彼の若き情熱は眩しかったが、同時に危うさも孕んでいる。若さは最大の武器であり、同時に最大の隙でもあったからだ。



◇

親王が去った後、人払いを済ませた王妃リゼリアを図書室に迎え入れた。

窓の外を見ると、十月の早い夕日が西の山並みに沈みかけ、空が血のような赤紫に染まっていた。二人は出窓の前に並んで立ち、冷たいガラスに寄り添うように身を寄せた。

「殿下は何と?」リゼリアが尋ねる。

「振る舞い酒の件、姉様の言った通り、限定的なパンの配布に納得してくれましたわ。殿下の情熱を抑え込むのは一苦労ね」

「ふふ、手柄を焦る少年みたいだものね」

リゼリアは柔らかく笑ったが、すぐにその表情を引き締めた。

「……セシリア。この収穫祭の混乱に乗じてあなたを陥れようとしているわ。広場で配る小麦に毒が混入していたと見せかけ、その責任を穀物管理に関わるあなたに罪を着せようという噂よ」

「知っていますわ。ロゼッタから報告を受けました」

セシリアはリゼリアの手を強く握り返した。

「ですが、すでに手を打ちました。穀物庫の警護は私の息がかかった衛兵に差し替え、検品記録も二重に作成させています。収穫祭は、敵を炙り出す絶好の罠になりますわ」

「頼もしいわ、セシリア」

リゼリアは夕闇を見つめながら言った。

「この十月の収穫祭を成功させれば、親王殿下とアルヴェリアの威光は揺るぎないものになる。そして私達を追放して乗っ取ろうとする古い狐たちの息根を止めることができるわ」

「ええ。私たちは二人で一つ。王妃と側室として、親王殿下の左右の翼になりましょう」

かつて後宮の翡翠宮の庭で秋の落ち葉を集めて遊んだ少女たち。いまや二人は、一人の若き親王を共有し、広大なアルヴェリア全域を巻き込む大規模な収穫祭を裏から動かす、最も美しく冷徹な同盟者となっていた。



◇

午後八時。大広間では収穫祭の前哨戦となる前夜祭の宴が催されていた。

数十本の燭台が照らし出す眩い光の中で、収穫を祝う賑やかな音楽が鳴り響き、完熟した里芋で作られた新酒の里芋酒が川のように流れていた。

壇上の上座には、二十一歳の若き親王殿下が座り、その右隣には王妃リゼリア、左隣にはサファイアと秋の琥珀に身を包んだ側室セシリアが座っていた。

「見ろ、リゼリア、セシリア」

里芋酒杯を掲げ、親王殿下が誇らしげに囁く。

「城下に集まった民の熱気を。もうすぐ行われるこの収穫祭で、俺たちは新しい時代の幕開けを宣言するのだ」

「ええ、殿下。ですが今夜はまず、その若き勝利をお祝いいたしましょう」

セシリアとリゼリアは同時にグラスを掲げ、親王殿下と杯を重ねた。カチャンと高い金属音が響く。

広間の貴族たちは、親王の左右を固める二人の美しい女性の完璧な連携に、圧倒されていた。収穫祭に乗じたどのような企みも、二人の鉄壁の絆の前には付け入る隙がなかった。

音楽が高らかに響き渡る。

親王殿下はまず王妃リゼリアの手を取り、次にセシリアの手を取って、舞踏の輪へと踊り出た。若い親王を中心に、秋の装いに身を包んだ二人の女性のドレスが重なり合い、豪華絢爛に開花する。

(回れ、回れ)

セシリアは心の中で呟いた。

これは命がけのダンスだ。もうすぐ訪れる大規模な収穫祭を成功させ、若き親王の権力を確固たるものにし、愛する姉妹と共に宮廷の頂点に立ち続けるための戦い。

深夜二時。宴が終わり、再び静寂が親王府を支配する。

セシリアは親王の寝室の豪奢なベッドのなかで、隣で安らかな寝息を立てる二十一歳の彼の髪を優しく撫でていた。

明日もまた、五時に目が覚める。

冷たい秋の空気の中で顔を洗い、骨を締め上げるコルセットを着用し、リゼリアと共に朝食を食べ、間近に迫る収穫祭の仕掛けを点検する。

セシリアはそっと部屋を後にし、長い1日を深い眠りによって、過ぎ去ろうとしていた。最愛の親友との誓いと、身近な愛する人達の笑顔を胸に抱きながら、それこそが、若き親王の側室であり、王妃の最強の同盟者としての、誇り高くも苛烈な「日常」であった。


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