『至高の讃辞』
初夏の爽快な風が、オーレリア皇宮の東に佇む翡翠宮の庭園を通り抜けていた。清々しい新緑の香りが満ちる広間で、婕妤フレデリカは手元のお茶をゆっくりと一口すすり、優美な微笑を浮かべた。
「さて……今日の特別なお客様は、もうじきお見えになるかしら」
広間の上座には、フレデリカの愛器『水鏡』が静かに横たわっている。その傍らには、二十五弦の見事な箏を前に背筋を伸ばす十歳のリゼリアと、七弦の古琴を抱えて嬉しそうに弦を鳴らす九歳のセシリアの姿があった。
「伯母様、今日いらっしゃるお方というのは……」
リゼリアが丁寧な口調で尋ねると、フレデリカは柔らかく目を細めた。
「私の古い親友で、教坊の最高責任者である教坊掌楽使——アナ・カルラよ。彼女はね、西方の秘術を帯びた『胡琵琶』の第一人者なの。もし私という奏者が宮廷にいなかったならば、名実ともにこの帝国で最も華やかで、至高の楽師として称えられていたに違いない、真の天才奏者なのですよ」
フレデリカの言葉に、セシリアが「わあ!」と目を丸くした。
「教坊で一番えらい音楽家の人!? そんなすごい人がここに来るの!?」
「ええ。先日、あなたたちという『自慢の弟子』ができたとお手紙を書いたら、どうしてもその演奏を聴いてみたいと、わざわざお仕事を調整して駆けつけてくれたのよ」
フレデリカがそう言った直後、廊下から軽快で華やかな衣ずれの音と、涼やかな笑い声が響いてきた。
「ふふ、噂をすれば何とやら、ね。……入っておいで、アナ」
◇
重厚な扉が開かれ、一人の女性が姿を現した。朱色と金糸の見事な刺繍が施された教坊の正装を身にまとい、その手には異国情緒溢れる見事な螺鈿細工の胡琵琶を抱えている。
華やかな容姿と自信に満ちた瞳、そして立ち姿だけで周囲を魅了する天性のオーラ——教坊掌楽使アナ・カルラその人であった。
「久しぶりね、フレデリカ! 相変わらずこの宮は静かで素晴らしい空気だわ。……そして、この可愛らしい二人が、手紙で自慢していた弟子ちゃんたちね?」
アナは胡琵琶を大事そうに携えたまま、屈み込んでリゼリアとセシリアの顔を覗き込んだ。
「初めまして、小さな演奏者さんたち。私がアナ・カルラよ。フレデリカが手紙で『素晴らしい才能を持った自慢の弟子が二人もできたの』なんてノロケてくるから、気になって仕事も手につかなかったんだから!」
「初めまして、アナ様。リゼリアと申します」
「わたしはセシリア! よろしくお願いします!」
リゼリアが淑やかに、セシリアが無邪気にお辞儀をすると、アナは「素晴らしいわ! 立ち振る舞いだけで、どれほど大切に育てられているか分かるわね」と満足そうに頷いた。
「それで、フレデリカ。今日はただ聴くだけなんて言わせないわよ? 私も自慢の胡琵琶を持って来たんだから。あなたの古琴と、二人の演奏……四人で合わせたら、どんな素晴らしい音になるか、想像しただけでゾクゾクしていたのよ」
「ええ、もちろんそのつもりよ、アナ。今日この翡翠宮で、私たちだけの特別な音楽の集いを開きましょう」
フレデリカの提案に、幼い二人も興奮で頬を紅潮させた。帝国最高峰の奏者二人と、幼い二人の共演という、贅沢極まる演奏会が始まろうとしていた。
◇
広間の中央に、四つの楽器が並べられた。
フレデリカの古琴『水鏡』、アナの異国情調溢れる『胡琵琶』、リゼリアの二十五弦の『箏』、そしてセシリアの『古琴』。
「それじゃあ、まずはセシリアの伸びやかな音から始めましょうか。次にリゼリアの流麗な箏が入り、私が胡琵琶で華を添え、フレデリカが全体を包み込む……どうかしら?」
アナの提案に皆が深く頷いた。
呼吸を合わせ、セシリアが静かに爪を奏でる。幼いながらもまっすぐで透き通った古琴の音色が、広間の静寂を心地よく切り開いた。
続いて、リゼリアが瞳を閉じ、自らの「念心」と「未来予知」の知覚を解放した。アナの鳴らすであろう情熱的な音の軌跡、フレデリカの深遠な響きの行き先が、リゼリアの脳裏に鮮やかな光の筋となって浮かび上がる。リゼリアの指先が二十五の弦の上を滑らかに舞うと、清流のように煌びやかで流麗な転調が重ねられていった。
「まあ……なんて見事な旋律……! 予知と心が音に化けているのね!」
アナは感嘆の声を漏らすと、自らの胡琵琶の弦を激しく、そして優美にしごいた。じゃん、と鳴り響いた異国の音色は、春の嵐のように華やかで、旋律に圧倒的な彩りと情熱をもたらした。
最後に、フレデリカの『水鏡』が静かに響き渡る。深海のように深く、すべてを包み込む絶対的な基調音が加わった瞬間、四つの音はひとつに溶け合い、奇跡のような和音を生み出した。
清廉なるセシリアの古琴、流麗なるリゼリアの箏、情熱なるアナの胡琵琶、至高なるフレデリカの琴術。
重なり合うその響きは、もはや一国の宮廷音楽の枠組みを遥かに超えていた。翡翠宮の空間全体が光と音の粒子で満たされ、庭園の花々すらその響きに歓喜して揺れているかのような、まさに「地上で最も華やかな音楽の祭典」であった。
◇
その頃、日課の政務を終え、気晴らしに皇宮の庭園を散策していたオーレリア帝国皇帝ヴィンセントは、ふと足を止めた。
「……む?」
風に乗って聞こえてきたのは、これまで聞いたこともないような、圧倒的な華やかさと深みを持った弦の響きであった。
「この音は……翡翠宮からか? フレデリカの琴の音に似ているが……いや、それだけではない。何という賑やかで、心躍る旋律だ」
「陛下、お供を……」
「構うな、一人で行く。あの音の正体を見届けてみたい」
皇帝ヴィンセントは護衛を下がらせ、吸い寄せられるように翡翠宮へと歩を進めた。
翡翠宮の広間では、四人の演奏がまさにクライマックスを迎えていた。リゼリアの予知が導く完璧な展開に乗り、アナの胡琵琶が舞うように鳴り響き、セシリアが楽しそうに笑いながら弦を弾く。フレデリカは慈愛に満ちた表情でそのすべてを調和させていた。
「素晴らしい……! 本当に地上最高の合奏ね、フレデリカ!」
「ふふ、あなたたちの情熱が、この場所を最高の音楽堂に変えてくれたのよ」
最後の高らかな一音が響き渡り、余韻が広間に静かに溶けていく。
その瞬間、パチパチパチ、と力強い拍手の音が入り口から聞こえてきた。
「見事だ! まさに圧巻の演奏であったぞ!」
◇
「「「「陛下……!?」」」」
驚いて振り返った四人は、そこに立つ皇帝ヴィンセントの姿に息を呑んだ。アナとリゼリア、セシリアは慌てて膝を突こうとしたが、ヴィンセントは朗らかに手を振ってそれを制した。
「よい、礼は無用だ! 今の奇跡のような演奏を途切れさせたくはないからの。……フレデリカ、教坊掌楽使を呼んでこのような隠れ宴を開いていたとはな。予に知らせぬとは意地が悪いぞ」
「陛下……お恥ずかしいところをお見せいたしました。ですが、偶然とはいえお聴きいただけて光栄に存じます」
フレデリカが優雅にお辞儀をすると、ヴィンセントは満面の笑みを浮かべて広間へと歩み寄った。
「いや、実に素晴らしいものを選んだ! アナの情熱的な胡琵琶はもちろんのこと……何より、その幼い二人だ。フレデリカの愛器に引け取らぬ見事な音色。特に、あの二十五弦の箏の流麗さには息を呑んだぞ」
ヴィンセントの視線がリゼリアに向けられた。リゼリアは緊張しながらも、背筋を伸ばしてヴィンセントの言葉を受け止めた。
「お前がリゼリアか。予がフレデリカに贈ったあの名器の箏を、これほどまでに乗りこなし、己の『心』と『予知』を旋律に変えてみせるとはな。……フレデリカが『弟子を育てる』と奏上してきた時、半信半疑であったが、なるほど、これほどの天才ならば後宮に連れてくる価値がある」
皇帝の絶賛に、リゼリアの胸は熱い感動で満たされた。チラリとフレデリカを見ると、伯母もまた誇らしげに自分に頷いてくれている。
「セシリアの古琴も、若々しく清らかで実によい響きであった。……アナ、教坊の長として、この二人をどう見る?」
ヴィンセントに振られたアナは、口元に不敵で美しい笑みを浮かべた。
「文句のつけようもございません、陛下。この子たちは将来、帝国のみならず、歴史に名を残す大演奏家になりますわ。……正直、私の教坊に引き抜きたいくらいですもの」
「ははは! それはフレデリカが許さんだろう!」
皇帝の豪快な笑い声が広間に響き渡り、誰もが笑顔になった。
ヴィンセントは楽しそうに四人を見渡し、満足そうに頷いた。
「今日のこの演奏は、予がこれまで聴いたどんな宴の音楽よりも美しく、華やかであった。翡翠宮にこれほどの至福の音が満ちていること、予も嬉しく思うぞ。……また折を見て、予のためにその合奏を聞かせてくれ」
「謹んで、お受けいたします」
フレデリカと二人の弟子、そしてアナが深々と礼を捧げた。
皇帝が去った後も、翡翠宮には温かな余韻と歓喜の空気が満ち続けていた。自慢の弟子たちの輝く姿を見つめながら、フレデリカは感謝を込めて愛器『水鏡』にそっと手を置いた。
四つの弦が織りなした地上最高の祭典は、これから始まる少女たちの輝かしい未来を祝すかのように、初夏の風に乗ってどこまでも高く響き渡っていくのであった。
主要な登場人物(翡翠宮・リヴィエール家の人々)
フレデリカ・リヴィエール
オーレリア帝国の皇帝ヴィンセントの側室(婕妤の位)。
かつては「御前琴師」として皇帝の寵愛を受けた古琴の名手。
リヴィエール家の一族として「未来予知」と「念話」の超常能力を秘めている。
姪であるリゼリアとセシリアを弟子名目で後宮に呼び寄せ、温かく見守る。
リゼリア・リヴィエール
フレデリカの姪で、十歳の少女。
一族の中でも群を抜いた「精神干渉」の天才であり、念話、予知、透視能力を操る。
伯母から託された二十五弦の「箏」を、自身の能力と心を込めて見事に弾きこなす。
第五皇子イリアードに対し、密かに甘く切ない感情を抱き始めている。
セシリア・リヴィエール
リゼリアの従妹で、九歳の少女。
天真爛漫な性格で、物体の念動、瞬間移動、熱と炎を生み出す「パイロキネシス(発火能力)」といった物理的破壊力の特化型能力を持つ。
フレデリカから七弦の「古琴」を授かり、その才能を開花させる。
イリアード
皇帝ヴィンセントとフレデリカの間に生まれた第五皇子(十一歳)。
黒髪と深緑の瞳を持ち、品格と鋭い洞察力を備えている。
翡翠宮でリゼリアやセシリアと過ごすうちに警戒心を緩め、二人を皇子として守る強い自覚を持つようになる。
シエラ
フレデリカの唯一の妹で、大運河の街アルヴェリアで暮らす。
物語の冒頭で娘を出産する。
サラ
翡翠宮でフレデリカに仕える侍女。
その他の登場人物(宮廷・後宮の人々)
ヴィンセント
オーレリア帝国の現皇帝。
フレデリカやリゼリアたちの合奏を偶然耳にし、その素晴らしい演奏を絶賛する。
アナ・カルラ
フレデリカの古い親友であり、後宮の教坊の最高責任者(教坊掌楽使)。
西方の秘術を帯びた「胡琵琶」の第一人者であり、天才奏者。
カタリナ
第一皇子ヴァルハルトの母である側室。
フレデリカとイリアードの勢力を削ぐため、清秋宴でフレデリカの琴に罠を仕掛けたが、リゼリアたちの能力によって陰謀が暴かれ、冷宮に幽閉される。
アデレード
帝国の皇太后。秋に彼女の生誕を祝う「清秋宴」が催された。
ジュリエット
皇太后アデレードの姪であり、現皇后。第二皇子アラリックを擁する。
ビアンカ
第三皇子イザークの母である側室。
ヘレナ
第四皇子ロデリックの母である側室。
ヴァルハルト / アラリック / イザーク / ロデリック
それぞれ後宮の権力闘争に絡む、第一から第四までの皇子たち。




