『未来を導く音色』
風薫る初夏の帝都オクタヴィア。その中心に君臨する巨大なオーレリア皇宮の一角、深緑の木々に包まれた翡翠宮は、今日も静寂と穏やかな気品に満ちていた。
婕妤フレデリカは、かつて「御前琴師」として皇帝ヴィンセントの心をとらえた稀代の奏者である。しかし、権力闘争が渦巻く後宮において、彼女は過剰な寵愛を避け、第5皇子イリアードとともに静かに暮らすことを選んでいた。そんな彼女の元に、故郷アルヴェリアから二人の幼い少女が引き取られてきたのは、ごく最近のことである。
十歳のリゼリアと、九歳のセシリア。
表向き、二人がこの厳重極まる後宮へ入ることを許されたのは、「元御前琴師であるフレデリカが、自身の琴術を継承させる弟子を育てるため、同族の才ある幼子を呼び寄せた」という大義名分があったからである。皇帝ヴィンセントへの奏上もそのように行われ、文官たちの納得を得て許可が下りたのであった。
「……ふふ、可愛らしい弟子ですね」
翡翠宮の明るい庭園に面した広間で、フレデリカは優しく微笑みながら二人の少女を見つめた。向かい側に座るリゼリアは背筋をぴんと伸ばしてつつましく手を重ね、隣のセシリアは好奇心いっぱいに目を輝かせている。
「名目としては完璧でしたけれど、私は本当に、あなたたちに音楽の歓びを教えてあげたいと思っているのよ。この翡翠宮で過ごす時間が、あなたたちにとって心安らぐものになるように」
「はい、伯母様……いえ、フレデリカ様。私共のような者を温かく迎えてくださり、感謝に耐えません」
リゼリアが礼儀正しくお辞儀をすると、フレデリカは「二人の時は伯母様と呼びなさいな」と柔らかく頬を緩めた。
「さて、約束通り、あなたたちに与える特別な楽器を用意させました。……これらはすべて、陛下からかつて下賜された極上の品々なのです」
フレデリカが侍女に目配せをすると、紫檀の漆塗りの箱に納められた二つの絢爛な弦楽器が運び込まれてきた。
◇
箱の蓋が開けられた瞬間、室内に重厚で芳しい木香と、えも言われぬ威厳が漂った。
一つは、幾重にも美しく漆が塗り重ねられ、金泥で繊細な鳳凰が描かれた伝統的な七弦の「古琴」。そしてもう一つは、古琴よりも大きく、胴の見事な木目が陽光を受けて輝く、二十五弦の麗しい「箏」であった。
「まあ……! なんてきれいな楽器……!」
セシリアが思わず声を漏らし、瞳を輝かせる。リゼリアもまた、その息をのむほど美しい装飾と佇まいに目を見張った。
皇帝ヴィンセントはかつて、フレデリカの奏者としての才能を深く愛で、幾度となく国中から集められた名器や最高級の楽器を彼女に与えていた。しかし、フレデリカ自身は、幼き日に亡き父から与えられた愛器『水鏡』しか奏でることはなかった。故に、帝国の至宝とも呼べるこれらの名器は、翡翠宮の宝物庫で静かに眠り続けていたのである。
「これほど見事な銘木と弦で作られた楽器は、帝国でも他にございません。長らく眠らせておくのは惜しいと思っていました。……セシリア、あなたにはこの古琴を」
フレデリカは、静かな光沢を放つ古琴をセシリアの前へと差し出した。
「わあ! わたしに古琴!? 伯母様、ありがとう!」
セシリアは無邪気に喜び、小さな手でそっと古琴の弦に触れた。かすかに響いた澄んだ音色に、彼女は満足そうに笑みを浮かべた。
「そして、リゼリア。あなたにはこの箏を託します」
フレデリカの視線がリゼリアに向けられ、優美な二十五弦の箏がその前に置かれた。
しかし、その瞬間、リゼリアの胸の奥で、小さな、だが確かな寂しさが陰を落とした。
◇
(……わたしは、古琴ではないのね……)
リゼリアは指先を微かに震わせながら、目の前の立派な箏を見つめた。頭を下げて「ありがとうございます」とお礼を言ったものの、その声にはどうしても影が混じってしまっていた。
フレデリカは、かつて帝国の至高と称えられた古琴の奏者=御前琴師である。そして、今回後宮に入るための名目も「フレデリカの琴術の弟子」ということであった。自由で尊敬する伯母と同じ古琴を習えると思っていたリゼリアにとって、この違いは小さくないショックだったのだ。
(セシリアが伯母様と同じ古琴を習い……わたしは違う楽器……。伯母様は、わたしには古琴の才能がないとお思いなのかしら。それとも、わたしは伯母様の正統な後継としては認められていないの……?)
一度芽生えた不安は、リゼリアの繊細な心をじわじわと苛んだ。彼女が得意とする「未来予知」や「念心(精神干渉)」の能力が、皮肉にも己の動揺を増幅させてしまう。他人の感情に敏感すぎるが故に、「伯母様に失望されたのではないか」という恐れが頭から離れなくなってしまったのだ。
その日の午後から、二人への指導が始まった。
セシリアは古琴の前に座り、フレデリカから爪の使い方や基本の指使いを教わっていた。セシリアの直感的で伸びやかな感性は、古琴のシンプルで深みのある音色と相性が良く、音を鳴らすたびに部屋中に爽やかな風が吹くようであった。
一方、リゼリアは箏の前に座り、静かに弦を弾いた。音色は正確で美しく、狂いもなかった。しかし、その音にはどこか迷いと硬さが滲み出ていた。
(もっと完璧に弾かなければ。伯母様のお眼鏡に叶うように……)
気負えば気負うほど、弦を弾く指先はこわばり、箏の豊かな響きが死んでしまう。フレデリカはその様子を優しく、だがすべてを見通すような静かな瞳で見つめていた。
◇
夕刻、稽古が終わり、セシリアが楽しそうにイリアード殿下の元へ報告に向かった後、広間にはフレデリカとリゼリアの二人だけが残された。
西日に照らされた部屋で、リゼリアは静かに箏の弦を拭いていた。その背中はどこか小さく、痛々しいほど張り詰めている。
「……リゼリア」
フレデリカがそっと歩み寄り、リゼリアの隣に腰を下ろした。柔らかな手首が伸び、リゼリアの小さくこわばった手を優しく包み込む。
「伯母様……」
「ごめんなさいね。私がもっと早く、あなたの気持ちに気づいてあげるべきでした。……古琴ではなく、箏を与えられたことが悲しかったのでしょう?」
ズバリと言い当てられ、リゼリアは息を呑んだ。胸の奥に溜め込んでいた感情が溢れそうになり、急いで視線を落とす。
「いいえ……そのような滅相もないことです。陛下から賜ったこのような素晴らしい箏をいただき、感謝しております。ただ……私の技術が未熟で、伯母様のご期待に添えていないのではないかと……」
「いいえ、リゼリア。あなたは勘違いをしていますよ」
フレデリカの声は、どこまでも温かく、そして深く澄んでいた。
「私があなたに箏を与えたのは、あなたが古琴に劣っているからでも、私の後継として認められていないからでもありません。……むしろ、逆なのです」
「え……?」
リゼリアが驚いて顔を上げると、フレデリカは穏やかな笑みを浮かべて彼女の瞳をじっと見つめ返した。
「古琴は七つの弦を持ち、静寂と内省の音を奏でる楽器です。セシリアの天真爛漫で直線的な強さには、古琴の静かな軸がよく似合う。ですが……リゼリア、あなたの持つ天与の才能は、もっと豊かで、広く、多様な響きを必要としているのです」
フレデリカはそっと手を伸ばし、二十五の弦が美しく並ぶ箏の胴を撫でた。
「あなたには、人々の心を感じ取り、寄り添う『念心』の力がある。そして、これから起こる出来事の兆しを感じ取る『未来予知』の鋭敏な知覚がある。それは、他者の痛みや世界の揺らぎを、誰よりも繊細に感じ取ってしまうということでもあるわ」
フレデリカの言葉が、リゼリアの心に染み込んでいく。
「二十五の弦を持つこの箏は、音域が広く、複雑で流麗な転調を自在に描くことができます。一音一音の組み合わせによって、千変万化の感情や情景を表現できる……。いいですか、リゼリア。あなたのその豊かな心と類まれな異能があってこそ、この複雑な箏の弦は、世界で唯一無二の旋律を奏でることができるのです」
◇
「私の……能力があるからこそ……?」
リゼリアの声が震えた。フレデリカは力強く頷いた。
「ええ。古琴の真似事をする必要などどこにもありません。私と同じ音を目指す必要もないのです。あなたの念心は人の心に静かに波紋を広げ、あなたの予知は旋律の『次なる行き先』を完璧に導き出す。……リゼリア、あなたにしか奏でられない流麗な音楽が、必ずあるはずです。私はそれが見たくて、この箏をあなたに託したのですよ」
その瞬間、リゼリアの胸を塞いでいた暗い雲が、一筋の温かな光によって一気に吹き散らされた。
伯母は自分を遠ざけたのではなかった。自分の持つ特殊な力、そして繊細な心を誰よりも理解し、評価してくれたからこそ、最も適した「最高の武器」としてこの箏を与えてくれたのだ。
熱い涙が、リゼリアの頬を伝って一筋こぼれ落ちた。
「伯母様……! 申し訳ありません、私……私、自分のことばかり考えて……!」
「いいのです、リゼリア。さあ、もう一度弦に触れてごらんなさい。今度は、あなたの『心』のままに」
リゼリアは溢れる涙を濡れた袖で拭うと、まっすぐに箏に向き直った。
そっと爪を掛け、第一音を弾く。
——ポン……。
先ほどまでの硬さは嘘のように消え去っていた。リゼリアはそっと瞳を閉じ、自らの「念心」の力を解放した。部屋を満たすフレデリカの温かな愛情、庭から聞こえる葉擦れの音、そして遠くでセシリアとイリアードが笑い合う気配。それらすべての感情と波動が、リゼリアの精神を通じて旋律へと変換されていく。
さらに、「予知」の直感が働く。次の瞬間、どの弦をどの強さで弾けば、最も美しい響きが生まれ、聴く者の心を打つか——未来の音の連なりが、一閃の光となって彼女の脳裏に描き出された。
指先が、まるで生き物のように二十五の弦の上を舞い滑る。
滑らかで、溢れ出る清流のような旋律。時には風のように優しく、時には大河のように豊かな音の波が、翡翠宮の広場全体を満たしていった。それはまさに、フレデリカの古琴とは異なる、まったく新しい「至高の音楽」の誕生であった。
「……素晴らしい……」
フレデリカは感嘆の息を漏らし、胸の前で手を組んだ。その目には、愛おしい姪の成長を讃える光が浮かんでいた。
いつの間にか、部屋の入り口にはセシリアとイリアードも戻ってきており、息をのんでリゼリアの演奏に見入っていた。
「すごーい! リゼ姉様の音、なんかキラキラしてて、お空を飛んでるみたい!」
セシリアが興奮気味に声を上げ、イリアードも深く頷いた。
「ああ……本当に見事だ。心が洗われるような、流麗な響きだな」
演奏を終え、静かに弦を押さえたリゼリアは、皆の賞賛に照れくさそうに微笑んだ。その瞳には、もはや一切の迷いや陰りはなかった。
皇帝から下賜された至高の箏。そして、伯母から託された深い信頼と愛。
リゼリアは自らの膝の上にある立派な箏を慈しむように撫で、心の中で誓った。この弦とともに、自らの秘められた力を正しく使い、大切な家族とこの翡翠宮を守り抜いていくのだと。
夕闇が迫るオクタヴィアの空に、二つの異なる弦が奏でる美しい音色が、優しく響き続けていた。




