第31章『「蓮の花」の紋章』
東海の蒼海を切り裂き、おびただしい数の船団が北上していた。
波を蹴立てて進む船々の帆が、春の眩い陽光を受けて白く膨らんでいる。その数、百余隻。商船を改造した大型の安宅船から、快速を誇る小型の軍船まで様々だが、いずれも凄まじい威圧感を放っていた。
船団の後方、ほぼ中央をゆく一際巨大な黒塗りの大型軍船。そのメインマストには、漆黒の生地に銀糸で繊細かつ力強く刺繍された「蓮の花」の紋章――アルヴェリア軍の軍旗が、潮風を受けて誇らしくたなびいていた。
アルヴェリア水軍旗艦「水龍」。
その船首付近、砕ける白波を眼下に見下ろす位置に、一人の女性が立っていた。 革製の胸当てに身を包み、腰には曲刀を吊るした、まさに女海賊そのものの凄艶ないでたち。しかし、その肌は雪のように白く、風に舞う髪は艶やかであった。彼女の名はセシリア。アルヴェリア親王イリアードの側室である。
セシリアはニッと胸のすくような笑みを浮かべると、しなやかな片足を船首の縁に引っ掛け、腰に手を当てて振り向いた。
「姉様! 一度、女海賊の真似、やって見たかったんですよね! かっこいいでしょ?」
その視線の先にいたのは、軍船という血と汗の匂う場にはおよそ不似合いな、うら若き極上の貴婦人であった。
華麗な刺繍が施されたドレスの裾を潮風になびかせ、日傘を優雅に挿しているのは、アルヴェリア親王イリアードの正妻――アルヴェリア親王妃リゼリアである。
「素敵よ、セシリア。殿下に見せてあげたいわね」
塩くささが充満する甲板の上でありながら、リゼリアの口調はまるで帝都の夜会で紅茶を嗜んでいるかのように優雅であった。だが、その美しい瞳には、並の男をもしのぐ強い胆力が宿っている。
セシリアは「ふふん」と鼻を鳴らし、手に持った望遠鏡を掲げてみせた。
「殿下は今頃、ヘクスハイムの砦でアラリック陛下とお戯れ……じゃなくて、陸からの反撃の準備に大忙しのはずですわ。ここで私たちがドカンと一発、燕国の真裏をぶん殴って差し上げたら、殿下はどんな顔をなさるかしら!」
「ええ。きっと目を丸くして、呆れながらも褒めてくださるわ」
リゼリアは優美に微笑んだ。
二人の貴婦人が率いるこの破天荒な大艦隊。その正体は、軍律に縛られた正規の帝国水軍などではなかった。東海の海域を荒らし回り、各国の商船を震え上がらせていた「海賊船団」そのものであった。
乗組みの兵数、およそ一万。
かつては不毛の地と呼ばれたアルヴェリアが、イリアード親王の統治によって莫大な塩の富を生み出す巨大拠点『ソルトラグーン』へと変貌した際、海賊たちは当初、塩の輸送船を狙っていた。だが、イリアードの巧みな飴と鞭――圧倒的な水軍力での弾圧と、圧倒的な財力による従属の提案――によって、彼らは今やアルヴェリアの経済圏に組み込まれ、陰でその海を護る手先となっていた。
時には海運業者、時には護衛船団。そして時には密輸業者を取り締まる沿岸警察隊。
幸運にも遊泳中のクジラを見つけたならば、すぐさま捕鯨業者に成り代わる。
こうして彼らの経済と秩序はアルヴェリアの影響下で大きく変わり、そして花開いて行ったのである。
今回、燕国で政変が起き、逆賊・崔厳が主君を弑逆して『新』を名乗り、陸上で皇帝アラリックの親征軍を破ったという報が届いた時、動いたのはイリアードだけではなかった。
『海賊の荒くれどもを集めなさい。「国を一つ落としに行くぞ。奪った宝は好きに分取れ」と誘えば、喜んでついてきますわ』
そう言って笑った正妻リゼリアと、自ら海賊の装束に身を包んで旗艦に乗り込んだ側室セシリア。二人の女性の手によって立ち上げられたこの電撃の大襲撃作戦こそが、いま北上を続ける「水龍」艦隊の全貌であった。
目指すは新国(旧燕国)の王都『鳳山』。
鳳山は内陸の都市と思われがちだが、東海へ注ぐ大河『燕江』の河口からわずか数千の距離に位置する水運都市でもあった。陸からの侵攻には山脈という天然の要害が立ちはだかるが、海から大河をさかのぼれば、王都の喉元まで一気に肉薄できるのだ。
「野郎どもーっ! 聞こえてるかい!?」
セシリアが船首から甲板へ向かって振り返り、腰の曲刀を突き上げた。
「あたしたちを雇ってくれた親王殿下と、美しく気品あふれるリゼリア様に良い格好を見せたいなら、出し惜しみするんじゃないよ! 燕国……いや、新国の偽り王の首を引っぺがして、金銀財宝を山分けにするんだ!」
甲板を埋め尽くす荒くれ海賊たちが、野獣のような歓声を爆発させた。
「「「オオーーーーーッ!!!」」」 「任せときな、セシリアの姐さん!」 「新国の野郎どものタマをぶっこ抜いて、蔵の宝を根こそぎ奪ってやるぜーっ!」
入れ墨を刻んだ巨漢たちが錨を叩き、斧を掲げて咆哮する。その荒々しい熱気は、春の冷たい潮風すらも吹き飛ばすほどであった。
リゼリアは小さく扇子を広げ、口元を隠しながらセシリアに歩み寄った。
「ふふ、すっかり『姐さん』の貫禄ね、セシリア」
「もう、姉様までからかわないでください! でも、こういう荒仕事は私に任せてください。姉様は後方で安全になさっていてくださればいいのですから」
「いいえ、私も親王妃として、この目に焼き付けますわ。殿下が帝国の未来を背負って戦っていらっしゃるのですもの。妻である私たちが、その背中を護り、後顧の憂いを絶つのです」
リゼリアの瞳に宿る気高き光に、セシリアは思わず見とれ、それから嬉しそうに頷いた。
「はい、姉様! ……物見! 燕江の河口は見えたか!?」
マストの上の見張り台から、甲高いう叫び声が返ってきた。
「見えたぞーっ! 前方に燕江の河口! 新国水軍の警戒砦が見えます!」
「よし!」セシリアは曲刀を鞘から抜き放ち、前方の陸地を指し示した。
「全艦、突撃準備! 警備船なんぞ踏みつぶせ! 大河を遡上し、一気に王都・鳳山へ乗り込むよ!」
その頃、新国の王都『鳳山』の王宮では、宴が催されていた。
燕王を弑逆し、自ら王位に就いて『新』を騙る崔厳は、黄金の杯を掲げて高笑いを上げていた。
「ハハハ! 見たか! 帝国の若造皇帝アラリックめ! 直属の精鋭を率いて息巻いておったが、我が将・張魁の策にかかり、血涙峡にて無残に散ったわ!」
「王様、誠にお見事におございます!」
「皇帝親征を退けたとなれば、もはや我が『新国』の威光を遮るものはございません!」
群臣たちが揉み手をしながら胡麻をすり、酒を煽る。
崔厳は有頂天であった。帝国軍はヘクスハイムの砦まで敗走し、三千の残党を残すのみ。帝都オクタヴィアでは敗戦の衝撃で内乱の兆しが見え始めているという情報も届いていた。
「陸の山道を抑えている限り、帝国軍は二度と立ち上がれん。よしんば南方のアルヴェリア親王イリアードと合流したとて、ヘクスハイムで足止めだ。……この新国の繁栄は約束されたのだ!」
崔厳が杯を飲み干そうとした、まさにその時であった。
ドォォォォン……!
大地を揺るがすような重伏した不気味な轟音が、王宮の柱を揺らした。
宴の場が一瞬にして静まり返る。
「な、なんだ……? 今の音は……雷か?」
崔厳が首を傾げた直後、殿舎の扉が激しく開かれ、血まみれの伝令兵が転がり込んできた。
「た、大変です! 崔厳様! 大変なことが起きましたーっ!」
「無礼者! 宴の最中になんだ! 落ち着け!」
「う、海から……! 燕江の河口から、おびただしい数の大艦隊が遡上してまいります!」
「何だと……!?」崔厳の顔から酒気が吹き飛んだ。「水軍だと!? 帝国の水軍は南方のアシェロン川に固まっているはずだ! どこからそんなものが現れたというのだ!」
「く、黒地に銀の蓮の花の旗! そして見たこともない凶悪な海賊船の群れです! 河口の警備砦は一瞬で接舷攻撃によって壊滅! 敵の手先はすでに燕江を遡り、この鳳山の港へと肉薄しております!」
「な……なにぃぃぃぃっ!?」
崔厳は持っていた黄金の杯を床に落とした。カチャンとむなしい音が響き渡る。
「馬鹿な……! 陸の山岳地帯を完璧に封鎖していたのだぞ!? なぜ……なぜ海から、王都の真裏を突いてくるのだ!?」
「敵の先頭……! 女海賊の姿をした将が、黒地に銀の蓮の旗を掲げて叫んでおります! 『アルヴェリア親王イリアードの命により、逆賊・崔厳の首を貰いに来た』とーっ!」
「アルヴェリア……!? あの南方の不毛の地か!? なぜ……なぜそこまでの戦力が……!」
崔厳の悲鳴が、豪華絢爛な王宮の中に虚しくこだました。
鳳山の港は、すでに地獄絵図と化していた。
「水龍」をはじめとする百余隻の海賊船団が、河港を埋め尽くす新国の船舟を蹴散らし、怒濤の勢いで接舷していく。
「野郎ども、突撃ーっ! 宝は早い者勝ちだぞーっ!」
セシリアが曲刀を振りかざして先陣を切り、船から港の石畳へと跳び移った。それに続いて、野獣のような海賊一万が、凄まじい歓声を上げながら雪崩れ込んでいく。
「ひぃぃっ! 敵だーっ!」
「港を防衛しろ! 迎撃……ぐわぁっ!?」
ろくな防備も敷かれていなかった新国の港湾警備隊は、海賊たちの圧倒的な暴力の前に一たまりもなく崩壊していった。彼らは陸からの襲撃しか想定しておらず、水際での大規模な戦闘など何一つ準備していなかったのだ。
港に降り立ったセシリアは、次々と襲い来る敵兵を軽やかな身のこなしで斬り倒していく。その姿は、まさに戦場に咲く一輪の悪の華であった。
「ふふ、案外もろいわね! 陸で皇帝陛下を相手に知恵を絞りすぎて、裏口の鍵をかけ忘れたのかしら!」
港の安全が確保されると、「水龍」のタラップが下ろされた。
そこから静かに降り立ってきたのは、日傘を挿したアルヴェリア親王妃リゼリアであった。焦土と化す港の石畳を、あたかも自分の庭園を散策するかのように優雅な足取りで歩んでくる。
「見事な鮮やかさですわね、セシリア」
「ええ、姉様! このまま一気に王宮へ雪崩れ込んで、崔厳の首を取って差し上げますわ!」
リゼリアは小さく頷き、扇子で西の空を指した。
「ええ。ヘクスハイムの砦では、殿下とアラリック陛下が反撃の準備を整えていらっしゃるはず。私たちがこの鳳山を落とし、新国の背後を完全に断ち切れば、敵は前後に挟まれ、完全に挟み撃ちとなりますわ」
リゼリアの言葉通りであった。
陸では、イリアードの救援によって復活を遂げた皇帝アラリックとアルヴェリアの精鋭が、ヘクスハイムから怒濤の反撃を開始しようとしている。そして海からは、リゼリアとセシリア率いる一万の海賊船団が、新国の心臓部である鳳山を直接急襲しているのだ。
これこそが、アルヴェリア親王イリアードと、彼を愛する二人の妻が仕掛けた、完璧なる「挟撃の網」であった。
「さあ、行きましょうセシリア。不義をもって国を乱した逆賊に、帝国の……いいえ、アルヴェリアの恐ろしさを教えて差し上げるのです」
「はい、リゼリア様! 全軍、私に続きなさい! 王宮へ突入するよーっ!」
女海賊の姿をした側室セシリアの叫びとともに、一万の海賊たちが王宮を目指してなだれ込んでいく。
その背後で、アルヴェリアの「黒地に銀糸の蓮の花」の軍旗が、鳳山の港の風を受けて力強く、美しくたなびいていた。




