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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴302年
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第34章『後宮こそ戦場』

帝国北東部の新国との熾烈な国境戦争は、帝国軍の圧勝で幕を閉じた。帝都オクタヴィアの市街が祝勝パレードで連日湧き立つ一方、帝国宮廷の「後宮」は張り詰めた冷気に満ちていた。


後宮の最奥で開催されたお茶会。主宰は帝国宮廷の重鎮である太皇太后アデレード。参加する大貴族の夫人たちの中に、戦勝の最大立役者・アルヴェリア親王イリアードの正妻リゼリアの姿があった。


深緑の瑠璃色ドレスを纏い、窓辺の席で優雅に腰を下ろすリゼリア。その背後には、紺色の侍女服を着て深く帽子を被った少女が控えていた。彼女こそ、アルヴェリア親王府の政務を陰で支えるイリアードの側室・セシリアだった。


ふたりは固く口を閉ざしたまま、誰にも聞こえない「念話」で語り合い始めた。


(……リゼリア様、肩の力を抜いてくださいませ。カップを持つ手が強張っておられますよ)


セシリアの手元から流れるような念話が届き、リゼリアは微かに唇の端を緩めた。


(……セシリア、貴女が側にいるのは心強いけれど、ヒヤヒヤするわ。もし親王の側室だとバレたら、ここがどんな蜂の巣になるか……)


(ご安心を。この高度な変装、帝都の狸どもには見抜けませんわ。それに、姉様をひとりでこんな泥沼の後宮に送り込むなんて、殿下も許されません。「影」としてお護りいたします)


その時、甲高い声が響いた。現皇后ロザリアと皇太后ジュリエットが近づいてくる。


「――おや、アルヴェリア親王妃殿下。目覚ましいご活躍ですこと。ですが、過剰な功績は時に誤解を招くもの。過度な野望を抱かれねば良いのですが……」


明らかな牽制と侮辱。 (『まあ、失礼な。イリアード様がどれほど平和を望んでいるかも知らずに』) セシリアの念話に怒りの色が混じる。


(『セシリア、落ち着いて』) リゼリアは静かに微笑み、口を開いた。


「滅相もございません。夫イリアードはただ、陛下への忠誠と帝国の平穏のみを願い、辺境で汗を流しているに過ぎません。今回の勝利も皇帝陛下の御威光あってのものです」


完璧な答弁だったが、ロザリアは意地悪い笑みを浮かべたまま、手にしたワイングラスを傾けた。


「口ではなんとでも言えますわね。辺境の貧しい泥地で育った者たちは、礼儀も分からぬと聞きますし――きゃっ!?」


次の瞬間、ロザリアが悲鳴を上げた。 彼女が手にしていた高級なガラスのワイングラスが、何の前触れもなくぬるりと横に滑り、彼女の真っ白な高級ドレスの胸元へ向かって引っくり返ったのだ。


真っ赤なワインが、見事なまでにロザリアの胸元とスカートを鮮やかに染め上げた。


「あ、あら嫌だわ! 手が滑って……っ! なにこれ、落ちないわ!?」


「まあ、ロザリア! 大丈夫ですか!?」


狼狽する皇后と皇太后。 侍女の姿をしたセシリアは、知らん顔で素早くナプキンを取り出し、「大変でございます!」と恭しく差し出していた。


(『……セシリア、いま貴女がやったわね?』)


(『はい。微細な【念動】でグラスの底を斜めに押し上げ、ついでにワインが服の繊維の奥まで染み込むよう、物理的に圧力をかけておきましたわ』)


(『ちょっと、やりすぎよ!』)


脳内が大騒ぎになる中、重厚な圧迫感が広場を支配した。


「――何を騒々しくしているのですか」


現れたのは、漆黒と紫の衣装を纏った老婦人――後宮の最高権力者である太皇太后アデレードが重々しく現れた。貴婦人たちが一斉に道を譲る。

皇后の不祥事を一瞥で一蹴すると、アデレードは鋭い眼光をリゼリアに向けた。


「アルヴェリア親王妃。親王は先帝からの賜り物である『湿地帯』を誇らしく耕しているそうですね。水門を作り、塩を採り、煌びやかな館を建てたとか。……ですが、泥水の上にどれほど美しい城を建てようとも、泥は泥。根無し草の繁栄など一瞬の夢ですよ」


直球の侮辱。周りの貴婦人たちから忍び笑いが漏れる。


(『イリアード様、侮辱されていますよ。あのおばあ様のカツラ、念動で飛ばしましょうか?』) (『やめなさいセシリア! それはさすがに国家規模の大問題になるわ!』) (『ハハハ! カツラはまずいけれど、少し懲らしめてやってもいいんじゃないかな?』)


言葉の端々に滲む露骨な牽制。リゼリアは即座に立ち上がり、完璧な礼を捧げながら口を開く前に、密かに「未来予知」の力を発動させた。数秒先に起こるロザリアの反応と最適な返しを頭の中で見通す。


「滅相もございません。夫イリアードはただ陛下への忠誠と平穏のみを願い、辺境で汗を流しているに過ぎません」


アデレードは鋭い眼光でリゼリアを射抜いた。


「先帝から賜った泥地を耕し、塩を採り、美しい館を建てたとか。ですが泥の上にどれほど美しい城を建てようとも、泥は泥。根無し草の繁栄など一瞬の夢ですよ」


直球の侮辱。周囲から忍び笑いが漏れる。リゼリアの頬が僅かに強張ったその瞬間、背後から念話が飛んだ。


(リゼリア様、そのまま受けて立ちなさい。『蓮の花』の例えで返して。……仕返しは私がやります)


(セシリア? なにをする気――)


リゼリアが念話で問いかけるより早く、セシリアは「透視」の力を持つリゼリアにしか見えない微細な指の動きを見せた。セシリアの真の能力は、離れた物を自在に動かす「念動」。


リゼリアは深く吸気し、優雅に微笑んだ。


「太皇太后殿下のお言葉、身に沁みます。ですが……泥があるからこそ、美しい蓮の花が咲くのでございます」


「……何?」


アデレードが眉をひそめたその瞬間、セシリアの「念動」が静かに発動した。


アデレードが手にしていた豪奢な扇子の要(かなめ)に、目に見えない強い力が加わる。 ――パチンッ! 絶妙なタイミングで扇子の骨が弾け、アデレードの高級なシルクの衣装の袖口へ、テーブルの上の砂糖壺から角砂糖がコロコロと滑り落ちた。


「きゃっ……!?」


普段は完璧な威厳を保つ太皇太后が、素で小さな悲鳴を上げて手元をワタワタと払う。高圧的だった広場の空気が、一瞬で喜劇的な混乱へと塗り替えられた。貴婦人たちが慌てて取り繕う中、アデレードの顔が赤く染まる。


(ふふ、少し意地悪が過ぎましたかしら)


侍女の顔で恭しく頭を下げながら、セシリアの悪戯っぽい念話がリゼリアにだけ届いた。リゼリアは笑いをこらえるのに必死になりながら、すかさずセシリアへ透視で確認した安全な対応を重ねる。


リゼリアの合図を受け、セシリアが恭しく小さなクリスタル容器を差し出した。


「本日、アルヴェリア親王府より、戦勝の祝いと殿下の御健勝を祈念し、特産品をお持ちしております。」


そこには、ソルトラグーンで精製された極上の塩が輝いている。


「これはアルヴェリアの無数の水門と太陽、そして開拓した民の汗が生み出した純白の結晶。不純物を除いたこの塩は、料理の味を引き立てるばかりか、不老長寿の薬湯にも使われます。帝国が新国に勝利できたのも、太皇太后殿下が守られた強い礎があればこそ。アルヴェリアの民は、どれほど泥に塗れようとも、その礎を支えるために塩を焼き、兵を挙げたのです」


その言葉には強烈なメッセージが込められていた。 ――『私たちが泥の中で生み出した塩と資金、兵力があったからこそ、貴方方はこの安全な帝都で優雅にお茶を飲んでいられるのだ』と。

袖を整え、塩を一口舐めたアデレードは、その深い旨味と、先ほどの「小さな災難」で出鼻をくじかれたこともあり、苦々しくも扇子を収めた。


「……フン。相変わらず大層な教育が行き届いていること。親王によろしくお伝えなさい」


立ち去る太皇太后たち。緊張が一気に解けた。


◇


黄昏時の回廊を、二人は並んで歩いていた。周囲に人がいないことを「透視」で確認したリゼリアが、心からの念話を送る。


(……生きた心地がしなかったわ。セシリア、念動で扇子を壊すなんて、本当に大胆な悪戯をするのね)


(ふふ、リゼリア様が完璧な予知で隙を作ってくださるから、つい手が出ちまいました。でも、胸がすいたでしょう?)


セシリアは侍女の帽子を少し持ち上げ、年相応の賢い少女の顔で微笑んだ。


(ええ、スカッとしたわ。……でも、私たちの能力も、この絆も、誰にも渡さない。アルヴェリアを守るために、もっと強くなりましょう)


(ええ。……あ、そういえばリゼリア様。帰りに帝都の名物菓子を買っていきませんか? イリアード様へのお土産という名目で、私が食べたいだけなのですが)


(ふふ、もう。本当にもう……付き合うわよ、もちろん)


二人の声に出さない笑い声が、夕暮れの後宮に温かく響き渡っていた。

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