第30章『帝国の未来を懸けた戦い』
北東国境の峻険な山並みは、まるで天を突く巨大な獣の牙のように連なっていた。
数日前、オーレリア帝国軍が凄絶な敗北を喫し、一万以上の同胞の血で染まった深谷『血涙峡』。その陰惨な記憶が立ち込める山岳地帯の入り口、ヘクスハイム砦の門がついに開かれた。
吐き出されるのは、一度は地獄の底を見ながらも、不死鳥のごとく蘇った六千の兵たちである。
先頭を進むのは、漆黒の甲冑に身を包んだ皇帝アラリック。御歳二十四歳。一度は自責と絶望に打ちひしがれ、泥に塗れた宝剣を床に投げ捨てた覇王だが、いまその瞳に宿るのは、燃え盛るような苛烈な戦意と、絶対的な支配者としての威厳であった。
「全軍、一歩も退くな。この戦いは、ただの防衛戦ではない。我が帝国の、そして死していった一万の同胞の誇りを取り戻す聖戦である!」
アラリックの声が、山々に木霊となって響き渡る。その斜め後ろ、白馬に跨がり、水色の外套を風になびかせる青年が静かに微笑んだ。皇帝の異母弟であり、南方の開拓地『アルヴェリア』を統べる親王イリアード(十九歳)である。
彼が率いてきた三千のアルヴェリア精鋭は、磨き抜かれた銀の鎧を纏い、一糸乱れぬ統制のもとで行軍を続けている。敗残の恐怖を払拭し、近衛兵たちの心を再び一つにまとめたのは、この若き親王の清冽な覚悟と、彼らをもたらした豊富な兵糧、そして最高の治療薬であった。
「兄上、敵の斥候が動いています。こちらの再編がこれほど早いとは、張魁も夢にも思っていなかったはず」
イリアードの透き通るような青い瞳が、山筋の向こうを見据える。
アラリックは、引き締まった表情で頷いた。
「フン、新国の崔厳も、そしてあの張魁も、余が失意のまま帝都へ逃げ帰るか、砦に籠って震えていると踏んでいたのだろう。そこが奴らの決定的な甘さだ。イリアード、お前が余の『剣』を拾い上げてくれた。ならば今度は、余がお前の期待に全力で応えるまでだ」
六千の軍勢は、再びあの因縁の地――血涙峡へと向けて、静かに、しかし確固たる足取りで進軍を開始した。
一方、山岳地帯の要衝に強固な陣を敷く新国軍の本陣では、将軍・張魁が届けられた報告の書面に目を剥いていた。
張魁は、熊を思わせる巨躯に無数の傷跡を持つ老練な武将である。前回の戦いでは、完璧な「擬装撤退」によって皇帝アラリックを誘い込み、火攻めと落石で見事に帝国軍を壊滅に追い込んでみせた。
「……何だと? アラリックが再び進軍してきただと!? 馬鹿な、生きて五体満足で逃げ帰った近衛は三千そこらのはず。朝廷はパニックに陥り、内紛が起きている頃合いではないのか!」
副官が冷や汗を流しながら報告を続ける。
「それが……南方からアルヴェリア親王イリアードが、三千の直属軍を率いてヘクスハイム砦に合流した模様です。さらに、失われていたはずの兵糧や塩、物資が湯水のように運び込まれ、帝国軍の士気は信じられないほど跳ね上がっているとのこと……」
張魁は、手元の机を激しく叩いた。
「イリアードだと!? あの『帝国元帥』の位を蹴って湿地帯に引きこもったという、大人しい若造か。チッ……崔厳様が帝都の門閥貴族どもを揺さぶり、ボルゲーゼ太尉らを動かす前に、アラリックの息の根を止めねばならんということか。だが、焦る必要はない。敵は合わせて、たったの六千。我が軍は二万の精鋭が、この絶対的に有利な山岳地帯を完全に掌握しているのだ!」
張魁はギラリと不気味な目を光らせ、全軍に通達した。
「敵は一度負けた恐怖を忘れておらんはずだ。再びあの血涙峡へ誘い込め! 今度こそ、オーレリア帝国の息の根を完全に止め、皇帝と親王、二人の首を崔厳様への手土産にしてくれるわ!」
◇
四月中旬の冷え込む風が、狭隘な谷間を吹き抜ける。
両脇を断崖絶壁に囲まれた深谷『血涙峡』。そこは数日前、帝国兵の悲鳴と炎、そして油の臭いに満ちていた地獄そのものであった。
帝国・アルヴェリア連合軍がその谷口に差し掛かった時、背後の山々から再び、けたたましい銅鑼の音が鳴り渡った。
「まただ! 敵の伏兵だ!」
近衛兵たちの一間に、一瞬だけ動揺が走る。前回のトラウマが脳裏をよぎったのだ。
崖の上から、新国軍の兵たちが姿を現し、巨大な岩や丸太、そして火を放った松明を投げ落とそうと構える。
「慌てるな!!」
だが、その動揺を打ち消したのは、イリアード親王の清冽な号令であった。
「前回の戦い、そして我がアルヴェリアの完璧な補給線を甘く見るな! 兄上がこの地を再び選んだのは、敵が同じ策に溺れると確信していたからだ!」
イリアードが手を掲げると、アルヴェリア軍の最後方に控えていた大盾を持った重装歩兵たちが即座に前進し、亀の甲羅のように頑強な陣形を組み上げた。それだけではない。アルヴェリア軍の弓兵たちが手にするのは、南方の特殊な硬木で作られた大弓であった。
「放て!!」
崖の上からの落石よりも早く、下から上へと、凄まじい密度の矢の雨が放たれた。通常の弓では届かない崖の上の敵兵たちを、アルヴェリアの強弓が次々と射抜いていく。悲鳴を上げて崖下へと転落していくのは、新国軍の側であった。
「馬鹿な!? 奴ら、最初から我が軍の配置を見抜いていたかのように……!」
崖の上の新国軍の指揮官が驚愕する。それもそのはず、イリアードはヘクスハイム砦に到着した瞬間から、現地の狩人や斥候を使い、血涙峡の地形と張魁の伏兵が配置されやすいポイントを完璧に逆算していたのだ。
「今だ、兄上!」
イリアードが叫ぶ。
「おおお! 突撃せよ! 我が近衛の誇りを見せる時が来た!」
アラリックが自ら黒鉄の宝剣を抜き、先陣を切って馬を走らせる。その姿は、かつて数々の戦場を無敗で駆け抜けた若き覇王そのものであった。
皇帝みずからの突撃に、近衛兵たちの士気は限界を超えて跳ね上がる。一度は恐怖に震えた兵たちが、いまや狂戦士の如き咆哮を上げて、谷底に布陣していた張魁の前衛部隊へと襲いかかった。
「怯むな! 敵はたったの六千だ、押し包んで圧殺せよ!」
新国の将校たちも必死に叫び、二万の圧倒的な軍勢が数の暴力を以て帝国軍を押し潰そうとする。
激しい金属音が谷間に響き渡り、肉と肉がぶつかり合う凄絶な乱戦が始まった。
◇
数において圧倒的に勝る新国軍は、谷の奥から次々と新鮮な兵力を投入し、帝国軍を包囲しようと動く。しかし、今回のアラリックとイリアードは、前回の「猪突猛進」とは根本的に異なっていた。
アラリック率いる三千の近衛・親衛隊は、鋭利な「矛」として新国軍の中央を容赦なく抉り進む。
「崔厳の首はどこだ! 張魁、貴様の首で、我が兵一万の供養としてくれる!」
アラリックの剣技は冴え渡り、彼が駆ける後には新国兵の屍の山が築かれていく。自ら血を流し、泥に塗れながらも、決して歩みを止めない皇帝の姿は、敵兵にとって恐怖の象徴そのものであった。
一方で、そのアラリックの背後と側面を完璧に護る「盾」の役割を果たしていたのが、イリアード率いる三千のアルヴェリア軍であった。
新国軍が数の優位を活かし、アラリックの近衛軍を分断しようと左右から回り込もうとするたびに、イリアードが的確な指揮でそれを遮断する。
「左翼、二十歩下がって強固な戦列を維持せよ。右翼の騎兵隊は、敵の突出した部隊の横腹を突け」
イリアードの声は、どこまでも冷静で、冷徹ですらあった。
アルヴェリアの兵たちは、完璧に統制された機械のように動き、新国軍の包囲網の「芽」を、出現する先からことごとく摘み取っていく。
中央で激しく暴れ回るアラリックという猛獣と、それを完璧にコントロールし、後方を盤石に支えるイリアードという頭脳。異母兄弟であり、かつて皇位継承劇で共に戦った二人の「双璧」が、いま歴史的な山岳地帯で完璧な噛み合わせを見せていた。
二万の軍勢を持つ新国軍は、驚くべきことに、わずか六千の軍勢を前にして、ジリジリと後退を余儀なくされていた。
「馬鹿な……奴ら、本当に同じ軍勢なのか!? 数日前にあれほど無様に逃げ惑っていた負け犬どもが、なぜこれほどまでに強い!?」
前線からの悲鳴のような報告に、本陣の張魁は顔を驚愕に変えた。
帝国軍の戦い方は、まるで死を恐れぬ執念の塊のようでありながら、その実、極めて緻密に計算されていた。
張魁が仕掛けようとする罠や、地形を利用した奇襲は、すべてイリアードのアルヴェリア軍によって事前に潰されるか、あるいはアラリックの圧倒的な突破力によって力任せに粉砕されてしまうのだ。
「将軍! 右翼の部隊が突破されました! 皇帝アラリックの親衛隊が、我が本陣に向けて一直線に突進してきております!」
「何だと!?」
張魁が前方に目をやると、返り血で真っ赤に染まった黒鉄の甲冑を纏うアラリックが、新国兵をなぎ倒しながら、鬼神の如き形相で迫ってくるのが見えた。
「張魁ーーーっ!! 貴様の策など、二度は通用せん! 余の前に平伏せ!」
アラリックの怒号が本陣まで届く。
張魁は自身の愛槍を掴み、怒りで顔を真っ赤に染めた。
「小賢しい若造が! 運良く生き延びただけの無能な皇帝め、我が手で今度こそ叩き潰してやるわ! 全軍、皇帝を囲め! 奴の首を取った者には、新国の最高の爵位と莫大な褒賞を与えるぞ!」
張魁みずからが直属の精鋭二千を率いて前線へと飛び出し、アラリックの近衛軍と正面から激突した。
◇
戦いは、ついに両軍の総大将が刃を交える最終局面に達した。
山谷の狭い平地で、アラリックの黒鉄の宝剣と、張魁の巨大な鉄槍が激しくぶつかり合う。
ガギィィィン!!
凄まじい火花が散り、周囲の兵たちがその風圧に気圧される。
「ガハハハ! 腕力はなかなかのものだが、戦場の経験が足りんわ、若き皇帝よ!」
張魁が嘲笑いながら、重い槍を凄まじい速度で繰り出す。一度は敗北の恐怖を知ったアラリックの心が、再び揺らぐのを期待しての言葉であった。
しかし、現在のアラリックの心は、かつてないほどに澄み渡っていた。
「経験だと? 確かに余は未熟であった。財政を焦るあまり、敵の執念を見誤り、一万の兵を死なせた。だが……その自責の念、その屈辱こそが、今の余の血肉となっているのだ!」
アラリックは張魁の猛攻を紙一重でかわし、鋭い一撃を返す。張魁の頬から血が吹き飛んだ。
「な、何ぃ……!?」
「余には、我が背中を預けるに足る、最高の弟がいる! 貴様らのような逆賊の策などに、我がオーレリア帝国の威信が二度も屈すると思うな!」
その時、張魁の後方から凄まじい地鳴りのような足音が響いた。
「張魁、貴様の退路はすでに断った」
朝靄の晴れ渡った戦場に、銀の鎧を血で染めたイリアードが、アルヴェリアの別働隊を率いて新国軍の本陣の真裏から出現したのである。
イリアードは、アラリックが張魁を引きつけている間に、峻険な崖の裏道を密かに走破し、新国軍の退路を完全に封鎖していたのだ。
「ば、馬鹿な!? あの険しい山道を、あの短時間で超えてきたというのか!?」
張魁の目に、初めて真の絶望の色が浮かんだ。
前後を挟撃され、完全に孤立した二万の新国軍は、総崩れとなった。数において勝っていようとも、指揮系統を完全に破壊され、退路を断たれれば、それはただの烏合の衆に過ぎない。
「終わりだ、張魁」
アラリックが宝剣を高く掲げ、全身の力を込めて振り下ろした。
「おおおああああっ!!」
張魁は咄嗟に鉄槍で受け止めようとしたが、復活した覇王の、帝国の誇りをかけた渾身の一撃は、その鉄槍を真っ二つに叩き斬った。
閃光が走り、次の瞬間、新国の猛将・張魁の巨躯が、どっと地面に崩れ落ちた。
「……将軍が討たれたぞ!!」
「退却だ! 逃げろ!」
総大将の戦死により、新国軍は完全に崩壊し、兵たちは武器を投げ捨てて山林へと逃げ惑った。数日前、帝国軍が味わった惨劇が、今度は新国軍の上に、何倍もの規模となって降りかかったのである。
◇
血涙峡に、再び静寂が戻ってきた。
谷底を埋め尽くすのは、今度は新国軍の屍と、捕虜となった数千の兵たちであった。
返り血で黒く染まったアラリックは、戦場の中央で、息を荒くしながら空を見上げた。雲一つない青天から、黄金の陽光が燦然と輝き、彼を照らしている。
その隣に、静かに馬を寄せ、下馬したイリアードが歩み寄る。
「兄上、見事な勝利です。張魁の軍勢二万を撃破しました。これで死していった同胞たちの無念も、少しは報われたことでしょう」
アラリックはゆっくりと振り返り、イリアードの顔を見つめた。そして、力強くその肩を掴んだ。
「イリアード。お前が言った通りだった。恥を拭う方法は、この手で敵を打ち砕くことしかなかった。お前がいなければ、余はヘクスハイムの砦で虚しく朽ち果てていたか、帝都の野心家どもに引きずり降ろされていたはずだ」
「僕は当然のことをしたまでです。兄上は、帝国を統べるべき誇り高き覇王なのですから」
イリアードは穏やかに微笑んだ。その瞳には、兄への絶対的な信頼と、共に苦難を乗り越えた者だけの深い絆が宿っていた。
そこへ、側臣が興奮した様子で駆け寄ってきた。
「陛下、親王殿下! 帝都オクタヴィアの尚書令ジョヴァンニ様、ならびに後宮の太皇太后様方より早馬が届きました! 殿下が飛ばされた密使により、ヘクスハイムでの合流と、このたびの大勝利の報が朝廷に届き、ボルゲーゼ太尉ら野心家どもの蠢きは完全に鎮静化したとのことです!」
「ふん、ボルゲーゼの狸め、余が死んだと踏んで色めき立っていたようだが、首が繋がって冷や汗を流していることだろう」
アラリックは冷酷に笑ったが、その表情にはかつての独善的な傲慢さはなかった。一度の歴史的大敗と、そこからの這い上がりを経て、彼は真の「皇帝」へと脱皮を遂げたのだ。
「全軍に告ぐ!」
アラリックは、勝利に沸き立つ六千の帝国・アルヴェリア連合軍に向けて、高らかに宣言した。
「我らは失った誇りを取り戻した! しかし、戦いはまだ終わっていない。新国の首都『鳳山』に潜む逆賊・崔厳の首を取るまで、我が帝国の剣が止まることはない!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
六千の兵たちの地鳴りのような歓声が、血涙峡の空を突き破り、遥か北東の地へと響き渡っていく。
イリアードは、その光景を満足そうに見つめながら、静かに自らの剣を鞘に収めた。
(さすがはアラリック兄上。一度挫けたからこそ、その刃はより鋭く、研ぎ澄まされた……。新国の崔厳よ、本当の地獄はこれからだ)
朝霧の完全に晴れ渡った山岳地帯を、復活した皇帝と、それを支える気高き親王の軍勢が、新たなる進軍へと向けて力強く動き出した。帝国の未来を懸けた戦いは、いま、本当の始まりを迎えたのである。




