第33章『黄金の獅子剣』
六月下旬。
北東の不義を正し、亡き燕王の幼き遺児を新たな王として即位させ、確固たる宗主国としての絆を結び直した帝国遠征軍は、凱歌とともに帝都オクタヴィアへと帰還した。
帝都オクタヴィアの東門前には、整列した文武百官と万民が押し寄せていた。
その先頭に立つのは、三公が一角・尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク、司徒リヒャルト、そして留守居役を務め上げた太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼら重臣たちである。
「……信じがたい。一度は壊滅的な敗走を喫しながら、南方からの補給と水軍の奇襲によって、わずか二ヶ月で王都を完落させるとは……」
ジョヴァンニは深い溜息とともに、己の愚かさを噛み締めていた。自らが危惧していた莫大な遠征費の増大は、アルヴェリアの豊かな財とソルトラグーンの塩によって最小限に抑えられ、帝国の財政は破綻するどころか、新国からの押収品によってむしろ潤っていたのだ。
太尉ヴァレリオもまた、苦い顔をしながらも、腕を組んで納得の頷きを見せていた。
(アラリックめ……ただの血気盛んな若造ではなかったか。そして、何よりあのアルヴェリア親王イリアード……。あの若さで陸海双方の軍を自在に操り、皇帝を影から完璧に支え切るとは。……手強いな)
宮廷の野心家たちは、皇帝の敗北に乗じて権力を奪い取ろうと画策していたが、この圧倒的な勝利と兄弟の固い絆を見せつけられ、完全に沈黙せざるを得なかった。
城壁の上からは、太皇太后アデレード、皇太后ジュリエット、そして皇后ロザリアが、進軍してくる軍勢を見守っていた。
「見なさい、ロザリア。アラリックはただ勝利しただけではありません。敗北を知り、挫折を糧にして、より強大な『真の覇王』となって戻ってきたのです」
アデレードの言葉に、皇后ロザリアは胸の前で手を合わせ、目頭を熱くしながら深く頷いた。
「はい……! 太皇太后様。陛下も、そしてイリアード殿下も、誠に立派になられました」
やがて、城門をくぐり抜けてきた皇帝アラリックと、その傍らに並び立つアルヴェリア親王イリアード。
二人を迎える歓声は、帝都オクタヴィア全体を激震させるほどに高まった。
大朝議の紫霄殿において、アラリックは全群臣の前で宣言した。
「この度の燕国遠征の勝利は、ひとえに全軍の勇戦と、そして何よりアルヴェリア親王イリアードの卓越した忠義と智略によるものである! 余はここに、我が弟の功績を称え、彼に帝国最高の栄誉を与える!」
アラリックは自ら玉座を下り、イリアードの前に立つと、金糸で飾られた豪華な『帝国元帥』の肩章と、皇帝直属の軍権を示す『黄金の獅子剣』を差し出した。
「イリアード。一度はお前が辞退したこの『帝国元帥』の位……今度こそ、受けてはくれぬか。余の右腕として、この帝国の未来を共に護ってほしい」
満場の群臣が固唾をのんで見守る中、イリアードは静かに膝を突き、深々と頭を下げた。
「……陛下のお言葉、身に余る光栄にございます。ですが、私がお受けできるのは、この『黄金の獅子剣』だけにございます」
「なに……?」アラリックが目を丸くした。
イリアードは顔を上げ、透き通るような瞳で兄を見つめた。
「『帝国元帥』の位は、帝都にて全軍を統率する象徴の位。しかし、僕の主戦場は、あの豊かな大湿地帯アルヴェリアと、無限の可能性を秘めた東海にございます。僕は帝都に留まるよりも、あの地から莫大な財を生み出し、海を護り、兄上の足元を揺るぎないものとすることこそが、僕の使命であると考えております」
イリアードは『黄金の獅子剣』だけを両手で恭しく受け取ると、力強く胸に当てた。
「この剣は、皇帝陛下と私との絆の証として頂戴いたします。もし再び帝国に危機が訪れたなら、私はいつでも、どこからでも、この剣を掲げて兄上のために駆けつけましょう」
その見事な辞退と、揺るぎない覚悟に、紫霄殿の中に大きな静寂が走り――次の瞬間、地鳴りのような拍手と喝采が湧き起こった。
尚書令ジョヴァンニも、太尉ヴァレリオも、さらには老獪なゲオルグ・フォン・フェルゼンまでもが、この十九歳の若き親王の潔さと深い見識に、深く感じ入って手を叩いていた。
アラリックは呆れたように、しかし最高の笑顔を浮かべてイリアードの肩を叩いた。
「まったく……どこまでも欲のない、しかし誰よりも頼もしい弟だ。よい、其方の好きにせよ! ただし、帝都で旨い酒を飲む時は、必ずアルヴェリアから戻ってこいよ!」
「ハッ! 喜んでお供いたします、兄上!」
二人の若き英雄の笑い声が、紫霄殿の天井高くへと響き渡っていった。
こうして、三月に起きた燕国の政変と、皇帝アラリックの親征、そしてヘクスハイムでの惨敗からの劇的な大逆転劇は、オーレリア帝国の圧倒的な威信の確立と、皇帝アラリック・アルヴェリア親王イリアードという二人の英主の強固な絆の証明という形で、歴史に深く刻まれたのであった。
北東の風は去り、帝都には穏やかな夏の光が満ち始めていた。
しかし、広大な帝国の歴史はこれで終わったわけではない。西南のボルゲーゼ親王領に潜む旧第三皇子イザーク、旧第4皇子ロデリックを担ごうとする貴族たちの蠢き、そしてまだ見ぬ外敵の影――。
さらなる激動の時代へ向けて、若き覇王と賢弟が率いるオーレリア帝国は、揺るぎない自信とともに、次なる一歩を踏み出していくのだった。




