第29章『再会と反撃の狼煙』
朝靄が、不気味なほど重く垂れこめていた。
北東の山岳地帯の入り口に位置するヘクスハイム砦。湿った寒気が古びた石壁をなで、血と硝煙の残臭を際立たせる。ほんの数日前、『血涙峡』にて新国軍の苛烈な伏兵に遭い、無残な敗走を喫したオーレリア帝国軍の無念が、いまもこの城砦全体に重く淀んでいた。
かつて一万五千を誇った皇帝直属の精鋭は、いまや手負いの兵が三千余り。甲冑は途中で投げ捨てられ、剣の刃はこぼれ、負傷者のうめき声があちこちから漏れ聞こえる。惨敗の恐怖と、皇帝親征の失敗という巨大な挫折感が、兵たちの精神をじわじわと削り取っていた。
砦の本陣――かつて将校たちの控室であった粗末な部屋で、皇帝アラリックは一人、肘をついていた。御歳二十四歳。昨年の血塗られた皇位継承劇を勝ち抜き、無敗の覇王として君臨するはずだった青年皇帝の顔には、濃い影と拭い去れぬ屈辱が刻まれていた。
「……余の不徳か。余の焦りが、兵を殺したのか」
呟く声には、いつも紫霄殿で群臣をひれ伏せさせていた圧倒的な威厳はない。黒鉄の甲冑には、逃走の際に浴びた返り血と泥が乾きつき、腰の宝剣もまた、虚しく重く感じられた。
電撃戦で新国の首都『鳳山』を急襲しようとした焦りが、敵将・張魁の擬装撤退を見抜けぬ甘さを生んだ。後方の補給を断たれ、火の海と化した谷底で、兵たちはただ殺されていったのだ。
(帝都オクタヴィアでは今頃、太尉ヴァレリオや尚書令ジョヴァンニらが余の敗北に色めき立っているだろう。後宮では皇后ロザリアや母上が涙を流しているかもしれぬ。……余は、帝国を率いる資格を失ったのか)
自責の念と絶望が、アラリックの胸を酷く苛んでいた。
その時だった。砦の警鐘が、けたたましく鳴り渡った。
「報告! 朝靄の向こうから軍勢が接近! 数はおよそ三千!」
見張り兵の悲鳴に近い叫び声が本陣に届く。失意に沈んでいた将校たちが一斉に色めき立ち、剣を抜いた。
「なに!? 敵の追撃か!」 「新国軍め、ここも包囲して我らを全滅させる気か!」 「おわりだ……もうおしまいだ……!」
敗北のトラウマに囚われた兵たちの間に、瞬く間にパニックが広がっていく。アラリックは重い腰を上げ、兜を握りしめると、重い足取りで砦の門楼へと向かった。
(追撃が来たか。ふん、よい。ここで余の命が潰えるならば、それもまた破滅の結末として相応しかろう……)
半ば投げやりな決意とともに、アラリックは城壁の上から朝靄の漂う平原を見下ろした。
白く濃い靄の向こうから、地鳴りのような足音が近づいてくる。数千の兵の行軍。だが、どこか不自然だった。敵の怒号も、勝利を誇る勝ちどきも聞こえない。ただ粛々と、統制された完璧な軍律のもとに足音が刻まれている。
やがて、朝日が朝靄をうっすらと切り裂き、幽玄な光の輪郭を浮かび上がらせた。
そこにあらわれたのは、新国軍の旗ではなかった。
漆黒に銀糸で咲き乱れた蓮の花の旗印――。
「あ……あれは……!?」 城壁の兵が息を呑んだ。
「アルヴェリア親王旗……! アルヴェリアの軍勢だーっ!」
叫び声が、砦全体に激震となって駆け抜けた。
朝靄を押し分けて現れたのは、美しく磨き抜かれた銀の鎧を纏う三千の精鋭であった。兵たちの背には水色の外套がはためき、掲げられた槍の先は朝日に眩しく輝いている。
そして、その三千の先頭に立つのは、一頭の白馬であった。
乗っているのは、一人の青年。 御歳十九歳。現皇帝アラリックの異母弟であり、かつて不毛の大湿地帯と呼ばれたアルヴェリアを開拓し、流麗華美な水の都『アクアパレス』や製塩の拠点『ソルトラグーン』を作り上げたアルヴェリア親王――イリアードである。
イリアードは砦の門前で馬を止めると、優雅な動作で兜を脱いだ。透き通るような青い瞳が、城壁の上のアラリックを捉える。
「兄上! アルヴェリア親王イリアード、三千の手勢を率い、救援に駆けつけました!」
その声は清涼で、血と硝煙に汚れたヘクスハイム砦の重苦しい空気を一瞬にして吹き飛ばすかのように、すみずみまで響き渡った。
砦の大門が開かれ、イリアード率いるアルヴェリア軍が整然と入城した。
三千の兵は、敗走してきた近衛軍とは比較にならないほど士気が高く、かつ完璧に統制されていた。彼らの背の包みには、大量の兵糧、乾燥肉、そしてソルトラグーン特製の良質な塩と傷薬が積み込まれていた。
「ただちに負傷者の手当てを! 兵糧を焚き出し、温かいスープを全軍に振る舞え!」
イリアードの臣下がテキパキと指示を飛ばし、疲れ果てていた帝国兵たちに熱い食事と手当てが与えられていく。砦の中に、久しぶりの生気が戻り始めていた。
本陣の部屋で、アラリックはただ一人、テーブルの前に立っていた。そこへ、イリアードが静かな足取りで入ってくる。
二人の異母兄弟が、対峙する。
昨年の皇位継承劇の際、イリアードは少数の手勢で迅速に帝都へ入り、近衛軍と親衛隊を掌握してアラリックの即位を決定づけた立役者であった。その功績に対し、アラリックは「帝国元帥」の位を打診したが、イリアードはそれを辞退し、南方のアルヴェリアへと引き下がった経緯がある。
権力の頂点に立つ兄と、一歩引いて兄を支える弟。
アラリックは、喉を詰まらせながら口を開いた。
「……イリアード。なぜ、ここに来た」
その声には、敗軍の将としての屈辱と、弟に不甲斐ない姿を見せられた恥ずさ混じりの複雑な感情が籠もっていた。
「余は破れたのだぞ。敵の浅薄な罠にハマり、直属の精鋭を惨殺させ、無残に敗走した。朝貢国の不義を正すどころか、帝国の威信を地に堕とし、余自らも逃げ走ったのだ。……そのような無能な皇帝を、なぜ救いに来た?」
アラリックの激しい自責の言葉を、イリアードは静かに受け止めた。彼は怒りも、落胆も、過度な同情すらも見せず、ただ透き通った瞳で兄を見つめていた。
「兄上。一度の敗北で、帝国の皇帝たるお方がそのような弱音を吐かれるのですか」
「なに……?」
「勝敗は兵家の常と言います。敵の崔厳は、己の命と国の存亡を賭けて泥臭い策を弄してきた。兄上は電撃戦で速やかに決着をつけ、帝国の財政を守ろうとされるあまり、敵の死物狂いの執念を見誤った……ただそれだけのことではありませんか」
「ただそれだけのことだと!?」アラリックは叫んだ。「一万以上の兵が死んだのだぞ! 余の過ちで! ジョヴァンニやヴァレリオの言う通り、余の親征など愚策だったのだ!」
「では、ここで兄上が死に、あるいは失意のまま帝都へ逃げ戻れば、その死んだ一万の兵は報われるのですか?」
イリアードの毅然とした言葉が、アラリックの胸に鋭く刺さった。
イリアードは一歩、兄に歩み寄った。
「僕が『帝国元帥』の位を辞退し、アルヴェリアに引きこもった理由をお忘れですか? 僕は兄上に、誇り高き覇王として帝国を統べてもらいたかったからです。帝都の老獪な政治家どもや、権力を狙う門閥貴族どもを抑え込めるのは、他ならぬアラリック兄上、あなただけだからです」
イリアードは腰の剣を抜き、その刃を上にして、両手でアラリックの前に差し出した。
「僕の率いてきた三千は、アルヴェリアの精鋭です。そして、ソルトラグーンと大河アシェロンの水運を使い、さらなる兵糧と軍資が後方から続々と届きます。……帝国の剣は、まだ折れてなどいません」
アラリックは、弟が差し出す剣と、その澄んだ瞳を凝視した。
「イリアード……お前は、余に再び戦えと言うのか? この恥を晒した余に……」
「恥を拭う方法は、一つしかありません」 イリアードの口元に、かすかな、しかし絶対の信頼を帯びた笑みが浮かんだ。
「その手で崔厳の首を刎ね、燕国の地に帝国の旗を再び打ち立てることです。逃げて帝都に戻れば、太尉ヴァレリオ殿や旧第4皇子ロデリック擁立派が牙を剥き、帝国は内分裂を起こします。ここで敵を打ち砕いてこそ、真の皇帝となられるのです」
朝靄の晴れ渡った窓から、眩いばかりの陽光が差し込み、二人を照らした。
アラリックは深く、深く息を吐き出した。胸の中に渦巻いていた暗い情念と自責の念が、弟の力強い言葉によって削ぎ落とされていくのを感じた。
敗北の屈辱は消えない。だが、それを洗い流すための血と気迫が、アラリックの体に再び満ち溢れていく。
アラリックは、イリアードが差し出した剣の柄を、力強く握りしめた。
「……生意気な弟だ。相変わらず、余の心を見抜くのが上手い」
「弟ですから」イリアードは静かに微笑んだ。
アラリックは剣を鞘に収めると、背筋をピンと伸ばし、かつての覇王の眼光を取り戻してイリアードの肩を固く掴んだ。
「よくぞ来た、イリアード。其方の言う通りだ。余の親征は、まだ終わっておらん。このヘクスハイムの地から、反撃を開始する!」
「ハッ! アルヴェリア軍三千、皇帝陛下の御旗のもと、いつでも出陣の用意はできております!」
その日の午後。ヘクスハイム砦の広場に、再編された帝国軍が整列していた。
敗残の失意に沈んでいた三千の近衛兵と、新しく加わったアルヴェリアの精鋭三千。計六千の軍勢の前に、黒鉄の甲冑を再び纏った皇帝アラリックが姿を現した。
兵たちの間に、どよめきが起きる。皇帝の顔から、あの逃亡の際の絶望と陰りは完全に消え去っていた。そこにあったのは、凄絶なまでの戦意と、絶対的な支配者の威厳であった。
アラリックは壇上に立ち、集まった兵たちを見渡した。
「帝国の勇士たちよ!」
アラリックの声が、砦の石壁に反響し、兵たちの耳に届く。
「我らは血涙峡にて卑劣な逆賊の罠に落ち、多くの同胞を失った! 余の不徳により、汝らに惨めな思いをさせたことを、ここに謝罪する!」
皇帝自らの謝罪に、兵たちは息を呑んだ。
「だが――!」 アラリックは宝剣を抜き放ち、空へ掲げた。
「我が帝国の剣は、折れてはおらん! 南方よりアルヴェリア親王イリアードが精鋭と兵糧を携え、我らのもとへ駆けつけてくれた! 我らにはまだ、戦う糧があり、共に血を流す同胞がいる!」
兵たちの目が、少しずつ輝きを取り戻していく。
「不義をもって主を殺し、我らと同胞の血を嘲笑う逆賊・崔厳を、このまま生かしておいてよいと思うか! 帝国の誇りを踏みにじられたまま、逃げて帰れると思うか!」
「「「思わない! 思わない!!」」」 誰からともなく、叫び声が上がった。
「逆賊を討つ! 我らの血の代償を、奴らの首で支払わせるのだ! 余に続け! 帝国の栄光を、再びその手に掴み取るのだ!」
「「「オオーーーーーーッ!!!!」」」
地鳴りのような歓声が、ヘクスハイムの空を突き破った。敗残兵だった者たちの目に、再び燃え上がるような闘志が宿っていた。イリアード率いるアルヴェリア軍の参戦と、アラリックの復活が、全軍の士気を天へと跳ね上げたのだ。
壇上の脇でその光景を見つめていたイリアードは、静かに満足の笑みを浮かべた。
(さすがはアラリック兄上。一度挫けたからこそ、その刃はより鋭く、研ぎ澄まされた……)
イリアードの側臣が近寄り、小さく囁く。 「殿下、帝都オクタヴィアの尚書令ジョヴァンニ様や、後宮の太皇太后様、皇后様にも、殿下がヘクスハイムに入城し、陛下と合流された旨の密使を飛ばしました。これで帝都の動揺も抑えられましょう」
「うむ、上々だ。南のソルトラグーンからの第二陣の物資も、もうすぐフローラブルグに届くはずだ。兵糧の心配はない」
イリアードは視線を北東の険しい山並みへと向けた。
(新国の崔厳よ……。皇帝敗走の報に歓喜し、酒を汲み交わしている頃だろう。だが、本当の地獄はこれからだ)
朝靄は完全に晴れ渡り、ヘクスハイム砦には黄金の陽光が燦然と降り注いでいた。




