第28章『敗走と乱世の渦中』
三月。
帝都オクタヴィアの東門から打って出た帝国軍の行軍は、一見すると破竹の勢いであった。
黒鉄の甲冑に身を包み、自ら先頭を切る皇帝アラリックは御歳24歳。昨年の血塗られた皇位継承劇を勝ち抜き、帝位を掴み取った若き覇王である。
「全軍、歩調を緩めるな! 燕国を乗っ取った逆賊・崔厳に、防備を固める時間を与えるな!」
アラリックの狙いは「電撃戦」であった。長引けば、尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクの危惧した通り莫大な軍費が押しつぶし、補給線が伸び切ってしまう。皇帝直属の近衛軍と親衛隊を中心とした精鋭一万五千は、一直線に新国の首都『鳳山』を目指した。
帝都留守居役には、かつて『ヴァルハルトの乱』で大功を立てた太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼを置き、軍部の抑えとする。また、帝都の南東百五十キロメートルに位置する大湿地帯『アルヴェリア』を統治する異母弟・イリアード親王(19歳)からも、水の都『アクアパレス』や『ソルトラグーン』の豊富な財を背景とした膨大な兵糧と塩の供給が補給線に乗せられていた。
文武の足並みは揃い、勝利は疑いようもないかに思えた。――だが、それこそが新王を騙る逆賊・崔厳の仕掛けた大罠であった。
四月中旬。北東の国境を越え、峻険な山岳地帯へと足を踏み入れた帝国軍の前に、新国将軍・張魁率いる二万の軍勢が立ちふさがった。
狭隘な谷間に陣を敷く敵に対し、アラリックは一蹴した。 「包囲などしていれば数週間を費やす。余自らが親衛隊を率いて敵の側面を突き、一気に突破する!」
「危険すぎます、陛下!」と側近が制止するのも聞かず、アラリックは自ら剣を抜き、先陣を切って突撃した。帝国の覇王自らの突撃に近衛の士気は跳ね上がり、数時間の激闘の末、張魁の軍勢は脆くも崩れ去り、奥へ奥へと敗走していった。
「見よ! 逆賊の兵など恐るるに足らん! このまま鳳山へ突入する!」
勝利に沸き立つ帝国軍。しかし、アラリックの鋭い瞳すらも、敵の凄絶な「意図」を見抜けなかった。張魁の敗走は、帝国軍をさらに深く、険しい山谷の奥深くへと引きずり込むための擬装撤退(偽装敗走)だったのだ。
翌日、帝国軍が両脇を断崖絶壁に囲まれた深谷『血涙峡』に差し掛かったその時――激しい銅鑼の音が山々にこだました。
「な……なに!?」
アラリックが空を見上げた瞬間、崖の上から無数の巨石と丸太が雨あられと落ちてきた。悲鳴と怒号、馬のいななきが狭い谷間に渦巻く。前衛と後衛が落石によって断ち切られ、軍は一瞬にして分断された。
「罠だ! 敵の伏兵だーっ!」
崖の上から降り注ぐのは、石だけではなかった。油を染み込ませた松明と火矢が大量に投げ込まれ、谷底は一瞬にして猛火の地獄と化した。後方の補給部隊は炎に包まれ、イリアードが送った貴重な兵糧と塩は黒煙となって舞い散っていく。
さらに、敗走したはずの張魁の軍勢が、前方から完璧な陣形を整えて押し寄せてきた。両側の崖からも新国の精鋭が崖を駆け降り、分断された帝国軍へ襲いかかる。
「くっ……おのれ逆賊ども!」
アラリックは迫りくる敵兵を次々と斬り伏せるが、狭い谷間では自慢の重装騎兵も足をすくわれ、機動力を完全に奪われていた。混乱した帝国兵は押し合いへし合いとなり、戦うことすらできずに倒れていく。
「陛下! ここはもはや支えきれません! お召し物を替え、お下がりくだされ!」
近衛隊長が血まみれの顔で叫び、アラリックの手綱を無理やり引いた。
「疾しい逆賊相手に……この余が背を見せろと言うのか!?」
「陛下がお命を落とせば、帝国は瓦解いたします! お許しくだされ!」
親衛隊が命を投げ打って肉の壁となり、皇帝の逃げ道を切り開く。アラリックは悔しさに唇を噛み切り、血の味を噛み締めながら、ついに撤退の決断を下した。
「全軍……撤退! ヘクスハイムの砦まで引くのだ!」
その撤退戦は、オーレリア帝国の歴史に深く刻まれる惨劇となった。
勝ち誇る新国軍の追撃は苛烈を極めた。山道を逃れる帝国軍の背後から容赦なく矢が降り注ぎ、将兵は重い甲冑を捨て、武器を投げ打って逃げ惑った。整然としていたはずの「皇帝直属の精鋭」は影もなく、ただの命からがら逃げ惑う潰走者へと成り果てていた。
追撃を振り払い、命からがら国境沿いのヘクスハイム砦に辿り着いた時、一万五千を誇った軍勢は、三千余りの手負いの兵にまで激減していた。
「……余の不徳だ」
砦の仮本陣で、アラリックは血と泥に汚れた兜を床に投げ捨てた。その手は悔しさと激怒で激しく震えていた。
電撃戦で敵を打ち砕くはずが、あまりの血気走りによって敵の術中にハマり、歴史的な大敗を喫してしまったのだ。自ら親征した皇帝の敗走――それは帝国の威信を完璧に打ち砕く衝撃的な事実であった。
「――敗戦!? 陛下が敗走されたとおっしゃるのか!?」
帝都オクタヴィアの紫霄殿に凶報が届いた瞬間、朝廷はパニックに陥った。
「バカな! 帝国の精鋭が一万以上も討ち取られたなど……!」 尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクは青ざめ、崩れ落ちるように玉座の階段に手を突いた。自らの危惧していた「長引く遠征による財政圧迫」どころか、軍そのものが壊滅したのだ。
三公の一人、太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼの眼光が不穏に光る。 (アラリックが敗れた……。軍権を握る余の手から、皇帝の手元にあった近衛と親衛隊が消えたのだ。……時代が動くか)
司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルクや侍中のゲオルグ・フォン・フェルゼンも沈黙の中で激しく動揺し、宮廷内には「もはやアラリック陛下では帝国を支えられぬのではないか」という不安と疑念が黒い霧のように広がり始めた。
後宮(内廷)でも激震が走っていた。
「陛下が……負けた……?」
皇后ロザリアは顔気を失い、倒れそうになる体を侍女に支えられた。皇太后ジュリエットも蒼白な顔で言葉を失っている。
そんな中、太皇太后アデレードだけが杖を固く突き、毅然とした声で喝を入れた。
「立ちなさい、ロザリア! ジュリエット! 敗北したからとて、皇帝が討ち死にされたわけではありません! 我らがここで狼狽えれば、帝都の野心家どもが牙を剥きますよ!」
アデレードの毅然とした一言で二人は正気を取り戻したものの、後宮を包む空気は冷たい絶望に満ちていた。
敗戦の波紋は、帝都の南東百五十キロメートルに位置する『アルヴェリア』にも即座に届いていた。
水の都『アクアパレス』の執務室で、密書を握りつぶしたアルヴェリア親王イリアード(19歳)の表情は、これまでにないほど険しかった。
「殿下……! 大変なことになりました! 皇帝陛下の親征軍が血涙峡にて壊滅! 陛下はヘクスハイム砦まで敗走されたとのことです!」
臣下の悲鳴のような報告に、イリアードは静かに目を閉じた。
「……補給線は完璧だった。だが、兄上は焦りすぎた。電撃戦を急ぐあまり、燕国の山岳地帯という地理的リスクと、崔厳の執念を読み違えたのだ」
「殿下、いかがなさいますか!?」臣下は焦りを隠せない。「帝都ではボルゲーゼ太尉や、旧第4皇子ロデリック殿下を擁立しようとするブライトクロイツ家が蠢き始めております! 西南のイザーク殿下も動く気配を見せております! 帝国は……帝国は分裂いたします!」
イリアードは目を開けた。その透き通るような瞳には、絶望ではなく、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
「……俺が行く」
「えっ……?」
イリアードは立ち上がり、壁に掛けられた剣を手に取った。
「昨年の皇位継承の際、僕は『帝国元帥』の位を辞退し、このアルヴェリアの開拓に専念した。……兄上が立ち戴く帝国を守るためだ。だが、兄上が破れ、帝国が崩壊の危機にあるというのなら、僕がこの手で帝国を支え直さなければならない」
イリアードの決意に、側近たちは息を呑んだ。
「アルヴェリアの全軍を招集しろ。ソルトラグーンとベラグランデの蓄えを解放し、即座に再編軍を立ち上げる。……目指すは帝都オクタヴィア、そして北東のヘクスハイム砦だ」
「は、はっ! アルヴェリア軍、直ちに出陣いたします!」
イリアードはテラスに出ると、南方の風を受けながら北東の空を見つめた。
「兄上……どうかヘクスハイムで持ちこたえてください。あなたが落とした帝国の威信と剣、この弟が拾い上げてみせます」
皇帝アラリックの敗走という未曾有の危機。オーレリア帝国は、昨年の皇位継承劇を遥かに凌ぐ、乱世の渦中へと呑み込まれていった。




