『敗戦の影と水鏡宮』
帝都オクタヴィアの空に、静寂を破る神秘的な光の渦が揺らめいた。
異能の空間移動――。
極彩色の光芒が収まると、そこは水鏡宮の広大な庭園の一角であった。白磁の石畳の上に降り立ったのは、皇女シンシアと巫女ココロギの二人。 ツルギとミタマの二人は、あらかじめ取り決められていた通り、シンシアたちの無事を見届けるや否や、聖都クリスタルヘイムへと続く光の門の中へと静かに姿を消していった。
「……ツルギもミタマも、無事に聖都へ戻れましたね」
ココロギはそっと胸に手を当て、安堵の吐息を漏らす。その衣には、昨夜のイメイルにおける凄惨な激闘と硝煙の匂いがかすかに残っていた。
「ええ。私たちも、急ぎお母様のもとへ向かいましょう」
シンシアは手にしていた愛用の錫杖『空斬水鏡』をそっと収めると、乱れた裾を優雅に整えた。
静まり返る水鏡宮の奥深くに位置する皇后の私室。 しんと張り詰めた空気の中、豪華な刺繍が施されたソファーに腰掛けていたのは、母であり、皇后リゼリアであった。
「……お母様。ただいま戻りましたわ」
シンシアが静かに扉を開け、ココロギとともに室内へと足を踏み入れる。
リゼリアは優美な面立ちに陰りを帯びさせながらも、ゆっくりと顔を上げた。瞳には、一徹な夜を過ごしたであろう疲労と、母としての深い憂慮が滲み出ている。
「シンシア……それにココロギ。無事に戻ったのですね。リアムはどうなったのですか?」
リゼリアの問いただす声は、かすかに震えていた。
シンシアはココロギと視線を交わすと、幾分か気まずそうに唇を噛み締め、朝帰りの言い訳を口にする。
「お母様……無断で帝都を抜け出し、お騒がせしたことはお許しください。ですが、胸騒ぎが拭えず、異能を用いてイメイルへ駆けつけずにはいられなかったのです」
そして、シンシアは息を整え、意を決したように背筋を伸びやかに正した。
「ですが、ご安心くださいませ。お兄様は無事です。怪我も負っておられず、ご健在でございます」
「……ああ、よかった……! 無事なのですね、リアム……」
リゼリアは胸に手を当て、深く大きな安堵の溜息を漏らした。愛する息子の無事を知り、その美貌に一瞬だけ安らぎの笑みが浮かぶ。
しかし、シンシアの表情は晴れないままだった。
「ですが、お母様……報告すべきはそれだけではございません。イメイルの戦況につきまして……」
シンシアは昨夜の凄絶な地獄絵図を克明に語り始めた。 暗闇に乗じた反乱軍の不意打ち、燃え上がる本陣、そして——大将軍バルドゥインと副将ハリス・ボルゲーゼの討ち死に。五万を誇った帝国軍が壊滅的な損害を受け、全滅を免れたものの、敗北撤退を余儀なくされたという残酷な事実を。
言葉を重ねるごとに、リゼリアの顔から血の気が引いていく。 息子の無事という喜びに取って代わったのは、帝国を揺るがす深刻な敗戦という重い現実であった。
「……バルドゥイン将軍も、ハリスまでもが倒れたというのですか……。五万の軍勢が敗走するとは……」
リゼリアは力なく椅子に深くもたれかかり、重苦しい溜息をついた。美しい眉間に深い皺が刻まれ、その瞳には深い落胆と苛立ちが交錯する。
「お兄様は残勢をまとめ、二ヶ月におよぶ長い撤退戦の途についておられます。私たちは敵の追撃を完全に断ち切った上で、一足先に戻ってまいりました」
静かに告げるシンシアの言葉を聞き終えたリゼリアは、やがてきりと凛とした表情を取り戻し、シンシアを厳しく見つめた。
「よく報せてくれました、シンシア。ですが……この件、陛下には、まだ伏せておかなければなりません」
「お父様に、ですか?」
「ええ。リアムからの正規の伝令と公的な報告が届く前に、私たちが私的に事態を動かすわけにはいきません。陛下がこれをお知りになれば、帝国宮廷は大混乱に陥り、リアムへの追及も免れないでしょう。正規の知らせが届くまで、シンシア、口を慎みなさい」
母の威厳に満ちた言葉に、シンシアは静かに深々と頭を下げた。
「……承知いたしました、お母様」
静まり返る水鏡宮の一室に、差し始めた朝の光が薄っすらと差し込んでいた。しかし、母娘の胸中に漂う敗戦の暗雲は、晴れることなく重く垂れ込めていた。




