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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴325年
261/287

『陰鬱なる初夏の訪れ』

帝国歴三百二十五年、六月下旬。 初夏の光芒が帝都オクタヴィアの白磁の街並みを満たしていた。例年であれば、瑞々しい新緑の季節を抜け、陽光があでやかに街角を彩り、市場には果物の甘い香りと活気あふれる呼び声が響き渡る時分である。しかし、今年の初夏は違っていた。湿り気を含んだ南風は重く生温かく、人々の肌にまとわりついては、どこか忌まわしい硝煙の記憶を呼び覚ますかのようであった。

二ヶ月前、オーレリア帝国の南西の果て、辺境イメイルの地で起きた惨劇の波紋は、沈黙という名の重石となって帝都をじわじわと侵食していた。五万の大軍を率いて出陣した皇太子リアムの軍勢が、夜襲によって壊滅的な打撃を受け、撤退の途についたという不穏な噂は、風の便りのように街の闇を吹き抜けていたのである。

そしてこの日、二ヶ月におよぶ過酷な行軍の果てに、ついにその「撤退軍」が、帝都オクタヴィアの城門へと姿を現した。


◇

「……来たぞ。皇太子殿下の御陣だ」

外郭門の櫓の上、乾いた槍を握りしめる衛兵長は、かすれ声で呟いた。かつて五万の大軍を送り出した際には、万雷の歓声と華やかな花々が空を舞っていた。だが今、門の向こうから近づいてくるのは、およそ歓喜とは程遠い、重苦しい足音と泥に塗れた鎧の擦れ合う音だけであった。

衛兵たちの視線の先、乾いた街道を歩む軍勢の姿があった。かつて黄金色に輝いていた帝国の軍旗はズタズタに引き裂かれ、黒く煤けて垂れ下がっている。兵たちの足取りは鉛のように重く、多くが血と汗の染みついた包帯を巻き、虚ろな目をして地を見つめていた。歴戦の勇将バルドゥインも、若き麒麟児ハリスも、そこにはいない。

「静かに……槍を立てよ。声を上げるな」

衛兵長は低く命じた。歓呼の叫びも、勝利のラッパも吹かれない。衛兵たちはただ、歯を食いしばり、胸の内にこみ上げる惨めさと深い哀悼の意を込めて、無言で槍を握り直した。


◇

街道の両脇に押し寄せた市民たちの間にも、恐ろしいほどの静寂が広がっていた。誰一人として声を出さない。子供たちは親の服の裾を強く握り締め、大人は口元を固く結んで敗残の兵たちを見つめていた。

「……殿下……」

群衆のどこかから、押し殺したような小さなすすり泣きが漏れた。市民たちが目にしたのは、高貴で輝かしかったはずの皇太子の、あまりにも凄絶なお姿であった。

皇太子リアムは、白馬の上に背筋を伸ばして跨がっていた。しかし、その顔は激戦と二ヶ月に及ぶ過酷な撤退戦で痩せこけ、消えぬ疲労が刻まれている。身に纏う甲冑は擦り傷と返り血の痕で黒ずみ、かつての可憐な若々しさは悲壮な決意と重い悔恨の色彩へと取って代わっていた。

リアムは、沿道の市民たちの視線を正面から受け止めていた。決して目を逸らそうとはしなかった。己の不徳と不意打ちによって失われた無数の命、遺族たちの無言の問いかけを、すべてその身に引き受けるかのように、蒼白な唇を強く噛み締めながら前だけを見つめて進んだ。


◇

重厚な石造りの帝国宮廷。玉座の間には、凍りつくような冷気が満ちていた。高窓から差し込む六月の陽光すら、この空間の重苦しさを和らげることはできない。

玉座に鎮座するのは、帝国皇帝イリアード。その深遠な瞳は深く沈み、彫像のように動かない。組まれた太い指先には力が込められ、圧倒的な圧迫感を放っている。バルドゥインという長年の腹心を失い、皇太子による不覚の敗北という屈辱を前に、皇帝の威厳は嵐の前夜のような静けさを孕んでいた。

「……リアムが、戻ったか」

皇帝の低く響く声には、感情の機微を一切挟まない冷徹さがあった。

その傍らに立つ皇后リゼリアは、優美な扇を胸元で固く握りしめていた。二ヶ月前、娘のシンシアから悲報を聞かされて以来、彼女はこの日を祈るような思いで待ち続けていた。息子の命が無事であったことへの深い安堵と、皇太子としての将来を揺るがす厳しい裁きへの恐怖が、その美しい胸を激しくかき乱している。

(生きて戻ってくれた……それだけで神に感謝したい。けれど、陛下のお怒りと宮廷の冷眼から、どうやってあの子を守ればよいのか……)

リゼリアは微かに濡れた瞳を隠すように、静かに扇を広げ、氷のような気品を繕った。宮廷の群臣たちの視線は、いまや帰還した皇太子へ向けられる鋭い刃となっておったからである。


◇

皇太子の帰還を迎える後宮の一角。そこには、相反する空気を纏った二人の女性と、幼子たちの姿があった。

昭訓エレノアは、生後七ヶ月になる皇孫子オリオンをその胸に強く抱きしめていた。幼子が発する柔らかく温かな匂いと、その小さな体温だけが、彼女の震える心を繋ぎ止めていた。エレノアの長睫毛からは涙が溢れ、いまにもこぼれ落ちそうであった。

「殿下……どうかご無事で……お怪我はありませんように……」

彼女は心の底からリアムの身を案じ、無事の帰還をただ祈り続けていた。たとえ戦に敗れ、世間から責め立てられようとも、エレノアにとってリアムは愛する夫であり、子の父であった。

一方で、少し離れた豪華な椅子に腰掛けたたずむのは、皇太子妃シルヴィアであった。彼女もまた、生後七ヶ月の我が子ソリスを抱いていたが、その表情にはエレノアのような情愛や乱れは一切なかった。シルヴィアとリアムの関係はかねてより冷え切っており、政略による婚姻の絆は氷のように固く冷たい。

シルヴィアは整った美しい顔に冷ややかな薄笑いを浮かべ、幼子の額を無感情にあやした。

「……負けて帰るくらいなら、いっそ誇り高く散ってくださればよろしかったのに」

吐き出された声は毒のように低く、冷酷であった。敗軍の将として戻る夫への蔑みと、自らの立場がこの敗北によって揺らぐことへの不快感が、その鋭い眼光に揺らめいていた。二人の我が子は同じ七ヶ月という月日を生きながら、その母たちの眼差しは完全に向かい合わぬ平行線を辿っていたのである。


◇

大平原の泥と決死の行軍を終え、皇太子リアムはついに玉座の間へと足を踏み入れた。

重厚な扉が開き、足音が響く。リアムは皇帝の前に至ると、重い甲冑の音を響かせて膝をつき、深く頭を垂れた。

「……父上。不徳なる息、リアム……ただいま帰還いたしました。バルドゥイン将軍、ハリス副将をはじめ、数多の忠勇なる将兵を失い、敗軍を率いて戻りましたること、死すとも足りぬ罪と存じます」

リアムの声はかすれていたが、その響きには言い訳を一切排除した覚悟が満ちていた。

玉座の皇帝イリアードは、じっと伏せる息子の姿を見下ろした。沈黙が玉座の間を支配する。長い、永遠とも思える静寂ののち、皇帝は重々しく口を開いた。

「……面を上げよ、リアム」

リアムが顔を上げると、その眼差しは真直ぐに父親の視線とぶつかり合った。傷つき、疲弊し、泥に塗れながらも、その瞳の中に宿る「生きて帝国を守り抜く」という焔は消えてはいなかった。

六月の濡れた風が高窓から吹き込み、宮廷の旗を微かに揺らす。イメイルの地獄を生き延び、命を背負って帰還した若き皇太子の前には、敗戦という過酷な試練と、さらに深まる宮廷の陰謀の渦が待ち受けていた。



登場人物紹介


リアム・フォン・オーレリア


皇帝イリアードと皇后リゼリアの息子である。

故ルシアの異母兄。シェルランテ、ソリス、オリオンの父親。リアムとルシアがほぼ同時に生まれた事とソリスオリオンがほぼ同時に生まれた事など、共通点が多い。ルシアが母親セシリアの愛情を独り占めする為に、父イリアードとセシリアを異能の力で疎遠にしていたが、リアムと皇太子妃シルヴィアも疎遠となっている。ただ、ルシアは生前セシリアにその事を告白して反省していると謝罪していた。

その為かシェルランテとして転生した後に、ソリスが生まれたのは興味深い。とりわけこのリアム自身もルシアに翻弄されており、彼自身生まれて来た事もルシアによるのかも知れない。

ルシア死後は不運に恵まれており、皇太子でありながら、次期皇帝の座も危うい。ルシアの死の直前、『交血のイニシエート』をルシアと行ったが、それをすっかり忘れてしまっている。取得したルシアの力を使えない兄に諦め、その娘シェルランテとして転生し、根こそぎ異能の力を奪い取り生まれて来た為に、リアムのその後の子孫はリヴィエールの血統でありながら、力は無い。一方のシェルランテはフレデリカ×2とセシリアとリゼリアからも力を受け継いだ為、ルシアよりも強力になっている。紫の結界をルシアは命と引き換えに破壊したが、シェルランテは無傷で破壊出来るようになったのはそうした経緯からであった。

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