『イメイルの鈍色なる戦雲』
太陽が天頂へと昇りつめてもなお、イメイルの広大な野を覆う深い死の気配は絶えることがなかった。風は重く停滞し、粘着質な血の匂いと身を焼くような焦げくさい硝煙を、いつまでも大地に留め置いている。
「殿下! 殿下、どこにおられますか!」
背後から響き渡る怒号。立ち込める血煙を切り裂くようにして、数騎の騎兵が駆け寄ってきた。本陣が漆黒の夜襲に包まれた際、殿として最前線で敵の第一波を食い止めていた重装騎士団――その苛烈を極めた激戦の凄惨な生還者たちであった。
「無事だったか……よくぞ、生き延びて戻ってくれた」
皇太子リアムの切実な痛みを孕んだ言葉に、先頭の騎士は崩れ落ちるように下馬し、泥濘む血土に重々しく膝をついた。
「申し訳ございません……! バルドゥイン将軍は苛烈なるお討ち死に……ハリス様もまた、刃に倒れられました……! 5万を数えた誇り高き軍勢のうち、すでに半数以上が戦死、あるいは闇の中へ散り散りとなって潰走……! 各隊の将校もほとんどが戦死を遂げ、もはや陣営としての体を成しておりません!」
突きつけられたあまりにも残酷な現実に、リアムは血が滲むほど強く拳を握りしめた。大将軍バルドゥインの緻密で隙のない陣立てをもってしても防ぎきれなかった、闇からの苛烈なる猛攻。反乱軍はこのイメイルの険しい地形を、己の手のひらのように知り尽くしているのだ。夜が明け切った今、勢いに乗った反乱軍が、態勢の整わぬ帝国軍の残勢を残さず殲滅せんと押し寄せてくるのは、もはや時間の問題であった。
「敵は私たちが夜襲を凌ぎ切ったことに、少なからず狼狽しているはずです。……ですが、全軍をもって一気に畳みかけてくるでしょう」
割り込んできたのは、冷徹なまでに静穏な少女の声だった。身に纏う血と風の残香の中で、シンシア皇女の佇まいは、神聖なまでの気品と凛とした威厳を放っている。
「ココロギ、ツルギ、ミタマ」
その名を呼ばれた三人の影が、一切の躊躇なく同時に一歩前へ出た。
「はっ!」
「四つ葉の威信と真の力を示しましょう。撤退の殿は、私たちが務めます。お兄様は動揺する生存者をかき集め、一刻も早くこの不吉なイメイルの地から脱出なさってください」
「待て、シンシア! お前たちだけにそのような死地を――」
リアムが言葉を遮ろうとしたその瞬間、シンシアは愛用の錫杖『空斬水鏡』の先端を地へと突きたて、射抜くような鋭い眼光で実兄を直視した。
「お兄様は帝国の皇太子であり、この途絶えかけた軍の唯一残された総大将なのです! 私たちがここで踏みとどまる間に、全軍を退かせてください。それとも……父上に『妹を守れず、誇りある帝国軍も全滅させました』と泣きつくおつもりですか!?」
一ミリの猶予も与えぬ容赦のない叱咤。しかし、その凛とした眼差しの一滴には、兄を生かして帝都へ帰すための、命を賭した真実の覚悟が宿っていた。
リアムは歯を食いしばり、悔恨と決意の滲む眼差しで妹を見つめ返すと、やがて重々しく頷いた。
「……分かった。第一・第二大隊の残勢をもって負傷者を包容し、即座に撤退の隊列を組む。シンシア、絶対に死ぬなよ!」
「当然ですわ。シェルランテに会うまでは、死ぬわけにはいきませんもの」
不敵で美しい笑みを浮かべるシンシアの背後で、ココロギは深く静かな神聖なる祈りを捧げ、ツルギとミタマは手にした錫杖を固く握り直した。
直後、朝モヤの深く立ち込める彼方から、大地を揺らす咆哮と反乱軍の歓声が響き渡る。絶望の底に沈む帝国軍の本陣跡へ向けて、敵の追撃部隊が雪崩を打って突進してきたのだ。
「全軍、退却――――!! 帝都の地を目指し、陣を引けぇッ!」
リアムの悲壮なる叫びが朝空を裂くと同時に、四人の異能の猛者たちは、押し寄せる敵の怒涛の渦の中へと再び颯爽と躍り出た。
◇
地鳴りのような足音が果てしない大地を震わせ、朝モヤを切り裂いて反乱軍の数千に及ぶ騎兵部隊がなだれ込んでくる。名将バルドゥインと副将ハリスを倒し、すでに勝利を確信している敵軍の士気は最高潮に達していた。
「敵の総大将、皇太子リアムの首級を挙げよ! 帝国軍はもはや牙を抜かれた烏合の衆だぞ!」
野卑な勝ちどきをあげる先頭集団。しかし、その疾風の如き突撃の前に立ち塞がったのは、返り血に染まりながらも神々しいまでの存在感を放つ『四つ葉』の少女たちであった。
「調子に乗るのも、大概になさい」
シンシアの冷徹な一言を合図に、無双の四人が再び解き放たれる。
先陣を切ったツルギとミタマの二人が、流星のごとき鋭い踏み込みで敵陣の懐へと肉薄。すれ違いざまに数騎の馬脚を鮮やかに断ち切り、突撃の威勢を正面から力ずくで叩き潰す。さらに、追随する四つ葉堂の巫女ココロギが静かに深く息を吸い込み、清冽な神気とともに錫杖を泥土へと突き立てた。瞬時に放たれた不可視の衝撃波が地表を駆け抜け、後続の騎兵群をまとめて豪快に転倒させていく。
そしてシンシアが、クリスタルロッド『空斬水鏡』を天空高く掲げた。
大気が激しく暴圧し、昨夜の夜襲をも遥かに凌ぐ巨大な真空の竜巻が荒野に渦を巻く。それは大地の土煙と燃え残る炎の粉を飲み込み、追撃する反乱軍の主力部隊を「絶望的な風の巨大なる壁」となって完全に遮断した。
「な、なんだあのバケモノどもは……!?」 「皇女だと!? 馬鹿な……一領の軍勢を、たった一人の娘が押しとどめているというのか!?」
その圧倒的かつ不条理な戦力差の前に、反乱軍の勢いは瞬く間に殺がれ、恐怖の悲鳴へと変わっていく。
◇
やがて、シンシアたちが築き上げた風と衝撃の壁の向こう側で、敵の追撃が完全に途絶えたのを見届けると、ミタマが静かに告げた。
「シンシア様、敵の足が完全に止まりました。これ以上の追撃は不可能なようです」
「……ふう、少々暴れすぎてしまいましたわね」
『空斬水鏡』を引き戻したシンシアは、わずかに肩を揺らして息を整えながらも、満足そうに不敵な笑みを浮かべた。その透明な視線の先には、整然と遠く後方へ退却していく誇り高き帝国軍の背中があった。
「私たちは、ひと足先に帰りましょうか」
皇女は首を少し傾げ、愛らしく片目を瞑ってみせた。
「御意」
五万を数えた誇り高き大軍の敗北。数多の名将たちの死という深く重い傷を負いながらも、皇太子リアムは地獄と化したイメイルの夜を生き延びたのだった。
帝都までの長い行軍は、実に二ヶ月におよぶ。胸を焦がす無念に耐え忍びながら、彼らは帰還の途につかなければならなかった。




