オーレリア外伝『水鏡の七弦』その7
翡翠宮に巡ってきた二度目の春。
咲き誇る杏の花びらが風に舞う中、翡翠宮の奥深くから無事な産声が響き渡った。
「お生まれになりました! 元気な元気な皇子様にございます!」
産婆の歓声が殿内に轟く。産衣に包まれた赤子を抱きかかえた皇帝は、感極まった面持ちでその幼き顔を見つめていた。フレデリカ・リヴィエール――正五品『才人』から、いまや正三品『婕妤』へと昇った彼女は、汗に濡れた髪を額に張り付けたまま、疲れの中にも温かな微笑みを浮かべて床に伏していた。
「フレデリカ……よくぞ耐えてくれた。朕とそなたの血を引く、尊き子だ」
皇帝は赤子をフレデリカの傍らに寄ぜると、その愛おしい額に深く口づけを落とした。
「この子の名は『イリアード』としよう。西域の言葉で『光をもたらす者』を意味する古名だ。我が国の平穏と、絹の道の果てまで届くそなたの琴の音のように、世界をあたたかく照らす皇子となるように」
帝国の皇宮において、異国の響きを持つ名を授けられることは極めて異例であった。しかし、西域の文化を深く愛し、胡楽と古琴の合奏を慈しんできた二人にとって、それこそが絆の証であった。第5皇子・イリアードの誕生は、帝の寵愛が揺るぎないものであることを皇宮全体へ強烈に示すこととなった。
だが、皇子の誕生は同時に、後宮の暗雲をさらに濃くした。
第一皇子や第二皇子を擁する有力貴族出身の皇后や貴妃たちにとって、市井の貧しい家柄から一躍躍進し、帝の絶大な寵愛を受けるフレデリカとその血を引く第5皇子は、喉元に突きつけられた刃に他ならなかった。
「元は教坊の卑しい琴弾きに過ぎぬ女が、皇帝陛下の血を濁らせるなど……」
陰湿な噂や、翡翠宮へ届けられる贈答品に仕込まれた毒の危険。フレデリカの周りには、常に目に見えぬ悪意の罠が張り巡らされるようになった。
ある夜、幼いイリアードが原因不明の高熱にうなされた。
太医たちがサジを投げ、後宮全体に「呪詛か」との戦慄が走る中、フレデリカは震える手で愛琴「水鏡」を抱え、幼子の枕元に座した。
(私には、権力も、恐ろしい策謀もありません……。けれど、この子を護るための音がある)
フレデリカは命を削る思いで、第一弦に爪を掛けた。
――ポーン……。
それは母としての祈り。宮廷の毒を浄化し、深く眠る生命力を呼び覚ますための、魂の揺らぎ。
押し弾きの手法で音を細かく揺らし、赤子の呼吸の波に琴の音を合わせていく。一晩中、フレデリカの手から血が滲み、琴の胴に朱色の花が咲いても、彼女は弦を弾き続けることをやめなかった。
夜が明ける頃。琴の余韻が部屋を満たす中、イリアードの荒かった息が静まり、すやすやと穏やかな寝息へと変わった。高熱は嘘のように引き、小さな手がフレデリカの血のついた指をぎゅっと握り返した。
その奇跡を目の当たりにした太医や侍女たちは、恐れおののくと同時に、フレデリカの持つ不思議な「徳」の前に深く平伏したのだった。
数日後、噂を聞きつけたアナ・カルラが、皇帝の特別の許可を得て翡翠宮を訪れた。
腕の中ですやすやと眠る幼いイリアードの顔を覗き込み、アナは感極まったように目元を拭った。
「まったく……相変わらず肝の冷えることばかりしてくれるわね、フレデリカ。後宮の陰謀なんて、私の琵琶の爆音で吹き飛ばしてやりたいくらいだわ」
「ふふ、ありがとうアナ。でも大丈夫。この子がくれた強さがあるから、私はどんな毒にも負けないわ」
フレデリカは愛おしそうにイリアードを抱き直した。
そこへ、長服を纏った皇帝が静かに姿を現した。帝はイリアードを愛おしそうに撫でると、フレデリカの手に自分の手を重ねた。
「イリアードが健やかに育ち、いつかこの国の光となるとき……そなたの琴と、この子の存在が、我が帝国をさらに大きく変えるだろう」
庭の竹林を清らかな風が吹き抜けていく。
母となった十九歳のフレデリカ・リヴィエール。彼女の手の中にある七つの弦は、いまや一人の男の心を繋ぎ止め、そして幼き第5皇子イリアードの未来を護るための「愛の盾」となり、後宮の深い闇の中にどこまでも優しく、力強く響き続けるのだった。




