オーレリア外伝『水鏡の七弦』その6
『太古清音』の演奏から三年。フレデリカ・リヴィエールは十八歳となっていた。
その佇まいには少女の面影を残しつつも、帝国の宮廷の深奥で磨き抜かれた品格と、見る者を惹きつける神秘的な美しさが備わり始めていた。彼女の爪弾く古琴の調べは、いまや単なる演奏の域を超え、皇帝の重圧や孤独を唯一和らげる「心の薬」となっていた。
そしてその夜、帝都の夜空に満月が昇る頃、フレデリカの運命を大きく変える勅命が下された。
「フレデリカ・リヴィエールを、正五品『才人』に封じ、後宮に迎える」
教坊の女楽師から、皇帝の側室へ――。宮廷内に激震が走った。
「フレデリカ……本当に行くのね?」
控えの間で、アナ・カルラが朱色の華美な衣装に身を包んだフレデリカの手を、潰さんばかりの力で握りしめていた。その瞳には嫉妬や困惑ではなく、深い親友への憂いが浮かんでいた。後宮は華やかさの裏で、寵愛を巡る女たちの策謀が渦巻く毒の巣窟でもあるからだ。
「ええ、アナ。これが私の選んだ道です」
フレデリカの声音は穏やかだったが、その瞳には強い光が宿っていた。
「これまで私は、音楽で陛下のお心をお支えしてきました。ですが……夜ごとに政務の重圧に苛まれ、お一人で苦しまれている陛下のお姿を拝見するたび、琴の音を届けるだけでは届かない闇があることを知ったのです。側にお仕えし、その孤独のすべてを分かち合いたい……それが、私の意思なのです」
アナは固く唇を噛み締め、やがてフレデリカの抱える古琴「水鏡」に目を落とした。
「……後宮に入れば、もう教坊で私と合奏することも、気ままに竹林で琴を弾くこともできなくなるのよ?」
「いいえ。私がどこに行こうと、この七つの弦と、アナとの絆は変わりません。……行ってまいります」
後宮の奥深くに位置する「翡翠宮」。
燭台の明かりが揺れる豪華絢爛な寝所で、フレデリカは静かに座していた。膝の上には、幼い頃から肌身離さず共にしてきた愛琴「水鏡」がある。
重々しい足音が響き、帳が開かれた。
現れた皇帝は、一国の主としての威厳を纏いつつも、どこか疲哀の色を隠せずにいた。彼は深紅の衣装を纏ったフレデリカを見つめ、静かに歩み寄った。
「フレデリカ……。そなたを後宮に招いたのは、朕の我儘だ。一国の主としてではなく、一人の男として、そなたの静かな音色と、その温もりに縋りたかったのだ」
「陛下……」
フレデリカは深く頭を下げ、そっと琴の第一弦に指を掛けた。
――ポーン。
静寂の中に打たれた一音は、昨夜までの女楽師としての音ではなかった。より深く、より甘やかに、皇帝の魂を包み込むような慈愛に満ちた振動。
フレデリカは指を滑らせ、二人だけの夜に旋律を紡ぎ出す。 その音色は、宮廷の権力闘争や政治の狂騒を忘れさせ、皇帝の心に安らぎの波紋を広げていった。
皇帝はゆっくりと膝をつき、フレデリカの手元を見つめた。爪弾く指先に滲む血の痕、琴に込められた純粋なまでの情愛。帝はフレデリカの細い肩を抱き寄せ、その耳元で低く囁いた。
「この皇宮は毒と野心に満ちている。だが、そなたの琴の音が響く限り、朕の心は清らかなままでいられる。……生涯、朕の側でその弦を鳴らしてくれ」
「はい、陛下。この七本の弦が尽きようとも、私のすべてを捧げて陛下をお守りいたします」
フレデリカは琴から手を離し、皇帝の胸にそっと顔をうずめた。
翌朝。翡翠宮の庭には、新しく据えられた黒檀の琴台があった。
後宮という新たな舞台。側室たちの嫉妬や陰謀が待ち受ける過酷な世界へ踏み出したフレデリカだったが、その表情に恐れはなかった。
朝露に濡れる竹林に向かい、フレデリカは琴を構える。
――ポーン……。
清廉な音が後宮の冷たい空気を切り裂き、深く、暖かく広がっていった。




