オーレリア外伝『水鏡の七弦』その5
万寿節の勝利から一年。フレデリカ・リヴィエールの名は「神童琴師」として帝国の朝廷のみならず、帝都オクタヴィアの市井にまで轟いていた。
十五歳となったフレデリカは、少しだけ背が伸び、立ち振る舞いにも宮廷奏者としての品格が備わり始めていた。しかし、彼女の心に住まう「音」への純粋な探求心は、幼い頃のままだった。
ある春の宵。教坊の長であるシン・カルラが、一冊の古びた羊皮紙の巻物を携えて幽香院を訪れた。
「フレデリカ、そしてアナ。お前たちに渡したいものがある」
シンが広げたのは、帝国の初期に途絶えたとされる伝説の楽譜――『太古清音』の写本であった。
「これは、かつて建国の頃に編纂されながらも、あまりの複雑さと音響の深さゆえに『人間には弾きこなせぬ』と封印された曲だ。だが、今の二人なら……この幻の調べを現代に蘇らせることができるやもしれん」
巻物に記された符譜(古琴特有の譜面)を目にした瞬間、フレデリカの目が輝いた。 そこには、従来の五音階の枠を超え、自然界のあらゆる息吹――風のなぎ、雷の猛り、そして人の心の底に眠る慈愛をそのまま弦に落とし込んだような、緻密で壮大な音の設計図が書かれていた。
「すごい……! カルラ様、私にこの曲を弾かせてください!」
「ふん、私を忘れてもらっちゃ困るわね」
横からアナが身を乗り出す。
「その幻の古琴譜に、私の胡琵琶で新しい息吹を吹き込んでみせるわ。二人で演奏してこそ、今の私たちの『音』でしょ?」
二人の瞳に宿る情熱を見て、シン・カルラは満足そうに深く頷いた。
それから三ヶ月間、フレデリカとアナは幽香院に籠もり、昼夜を忘れて『太古清音』の解読と編曲に没頭した。
しかし、試練はすぐに訪れた。 この曲の後半部には、古琴の七本の弦を極限まで押し込み、異例の張力を生み出す難解な指法が要求されていたのだ。一歩間違えれば、弦が切れ、奏者の指を深く傷つけるほどの危険な技であった。
「だめ……まだ音が硬い。大地の底から湧き上がるような、柔らかくも力強い響きにならない……」
フレデリカの細い指からは血が滲み、爪は擦り減っていた。アナもまた、古琴の持つ圧倒的な密度の音に負けじと撥を振り下ろし続け、手に激しい豆を作っていた。
「フレデリカ、もう休みなさい! 指を壊したら元も子もないわ!」
案じるアナに対し、フレデリカは滲む血を布で縛り直すと、静かに首を振った。
「ううん、アナ。この曲は、無理に弦を力で伏せようとしちゃいけないの。弦の痛みに耐えるんじゃなくて、弦と一つになって……私の血も息も、すべてを委ねるの」
その夜、雨が幽香院の竹林を激しく叩いていた。
フレデリカは暗闇の中で一人、琴に向かった。目を閉じ、全身の力を抜く。指の痛みも、宮廷での名声も、すべての執着を捨て去る。
――ポーン……。
爪が弦を滑った瞬間、今までに出したことのない、透き通った重厚な音が生まれた。 それは雨音と混ざり合い、竹林全体を包み込むような、温かくも壮大な振動となった。
部屋の入り口で見ていたアナは、涙を浮かべて呟いた。
「……届いたのね。弦の向こう側に」
初夏の日差しが降り注ぐ日、皇帝陛下を始め、朝廷の重臣たちが勢ぞろいする興慶宮の庭園にて、『太古清音』の披露宴が催された。
満開の牡丹が咲き誇る中、二人は静かに舞台へと登った。
フレデリカが膝の上に構えるのは、指の血と汗が染み込み、より深みのある艶を放つ愛琴「水鏡」。 アナが構えるのは、幾重もの試行錯誤を経て磨き抜かれた象牙の琵琶。
二人が互いに頷き合い、息を揃える。
――ジャーン……。
アナの琵琶が天を切り裂くような一音を放つと同時に、フレデリカの古琴が地を揺らす重低音を響かせた。
古代の記憶が、現代の長安に蘇る。
それは単なる音楽ではなかった。太古の昔から続く生命の営み、草木の芽吹き、人々の喜びと悲しみ、そして未来へと繋がる希望――言葉では表現しきれない世界のすべてが、七本の弦と四本の弦の交錯によって紡ぎ出されていく。
聴衆は誰一人として微動だにしなかった。ある老臣は涙を流し、皇帝は酒杯を握りしめたまま、うっとりと空を見上げていた。
曲がクライマックスを迎え、二人の指先が光の旋風のように交差する。 最後の最後、フレデリカが押し弾いた一音が、高く、高く空へと駆け昇り、静かに消えていった。
――沈黙。
そして、一瞬ののち、雷鳴のような歓声と割れんばかりの拍手が、興慶宮の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
皇帝は立ち上がり、心からの惜しみない拍手を二人へ送った。
「素晴らしい……! 幻の曲が今、完璧な形でこの帝国の世に結実した! フレデリカ・リヴィエール、アナ・カルラ、そなたたちは真の『音の宝』である!」
宴が終わり、夕暮れ時の太明宮。
フレデリカとアナは、宮廷を一望できる小高い丘の回廊に並んで座っていた。朱色に染まる帝都オクタヴィアの街並みからは、市井の人々の営みの音が心地よく届いてくる。
「ねえ、フレデリカ」
アナが膝を抱えながら、遠くを見つめて言った。
「私たちはこれから、どこまでいくのかしらね。皇帝陛下に認められ、幻の曲も復元した。この皇宮で、これ以上の栄誉はないかもしれないわ」
フレデリカは膝の上の琴箱を撫でながら、穏やかに微笑んだ。
「栄誉なんて、風が吹けば消えてしまうものよ、アナ」
「相変わらず欲がないわね。じゃあ、あなたは何のために弾き続けるの?」
フレデリカは空を見上げた。茜色の空を、渡り鳥の群れが南へと飛んでいく。
「このオクタヴィアの街のあちこちに……悲しんでいる人や、寂しい思いをしている人がたくさんいると思うの。私の琴の音が、風に乗ってそんな人たちの耳に届いて、ほんの少しでも心を温められたらいいな」
アナは呆れたように、けれどどこか嬉しそうにため息をついた。
「まったく……あなたといると、私の高慢な鼻がどんどん低くなっちゃうわ。いいわよ、どこまでも付き合ってあげる。あなたの静かな琴の音に、私が一番華やかな風を吹き込んであげるから」
「ふふ、ありがとう、アナ」
夕風が二人の髪を優しく揺らしていた。




