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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴302年
23/287

第27章『 凍てつく回廊と孤高の玉座』

二月。

大河アシェロンから吹きつける寒風が、オーレリア帝国の首都オクタヴィアを白く染め上げていた。重厚な石造りの白銀宮は、まるで凍てついた巨大な檻のように冬の雲の下で静まり返っている。

旧第二皇子アラリックが、父なる先帝ヴィンセントの急逝と、それに伴う第一皇子ヴァルハルトの反乱——世にいう「ヴァルハルトの乱」——を経て至高の玉座に即位してから、ちょうど一年が経過していた。二十四歳という若さで帝国の頂点に立った皇帝の頭上に戴く冠は、いまや耐えがたい重圧となってその肩にのしかかっている。

「陛下、本日の政務の資料でございます」

恭しく頭を下げる侍従の差し出した羊皮紙を、アラリックは無言で受け取った。執務室の暖炉には太い薪がくべられ、橙色の炎がパチパチと爆ぜているというのに、彼の背筋を寒気が走り抜ける。この広大な宮廷の中で、温もりを感じられる場所などどこにもなかった。

一年前の流血劇の記憶が、まぶたの裏に鮮明に蘇る。長兄ヴァルハルトの裏切り、血で塗られた玉座の間。その混沌の最中、わずかな手勢を率いて南東の大湿地帯アルヴェリアから疾風の如く帝都へ駆けつけ、近衛軍と皇帝親衛隊を速やかに掌握して自らの即位を決定づけた異母弟、アルヴェリア親王イリアードの姿が脳裏をよぎる。

当時わずか十八歳であったイリアードは、乱の平定後、皇帝元帥の位すら辞退し、まるで政治の泥沼を嫌うかのように早々に自領へと去っていった。去り際に彼が残した静かな眼差しを、アラリックは忘れることができない。純粋なる武功と忠誠を示して立ち去った弟の影と比べ、自分はいま、この泥濘のような宮廷政治の渦中で泥に塗れている。

「尚書令ジョヴァンニ卿、ならびに司徒リヒャルト卿がお見えです」

侍従の声に、アラリックは小さく溜息をつき、表情を鉄の仮面へと切り替えた。



◇

扉が開き、ふたりの人物が入室してきた。一人は老練な雰囲気を漂わせた老翁、三公の一角であり民政・内政を統括する司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルク。そしてもう一人は、尚書省の長官であり、リヒャルトの息子であるジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクである。

「陛下。本年の農村部における減税の件、尚書省にて協議いたしましたが……承服いたしかねますな」

尚書令ジョヴァンニが、どこか見下すような不躾さを隠しもせず、冷ややかな声を響かせた。ジョヴァンニはアラリックの叔父であり、そして皇后ロザリアの父でもある。血縁の絆は、この宮廷においては忠誠の証ではなく、権力を貪るための太い鎖に過ぎなかった。

「昨年の乱の戦後処理、ならびに辺境の防備強化により、国庫は余裕がございません。下々に慈悲を施すなど、時期尚早というもの」

「……しかしジョヴァンニ卿、昨年の長雨と戦乱で、地方の民は困窮している。今ここで減税を行わねば、春の作付けすら危うくなるのではないか」

アラリックが静かに反論すると、後ろに控えていた老司徒リヒャルトがゆるやかに首を振った。

「陛下。国家の根幹は秩序でございます。民草の多少の困窮よりも、帝都の財政の安定こそが先決。太皇太后様、ならびに皇太后様も同じご意見でございます」

リヒャルトの言葉には、抗いようのない重圧がこもっていた。太皇太后アデレードはリヒャルトの妹であり、アラリックの祖母。皇太后ジュリエットはリヒャルトの娘であり、アラリックの母。そして皇后ロザリアはジュリエットの姪。帝国の後宮と政権の核心は、完全にシュタインベルク一門によって固められていた。

アラリックは自身もシュタインベルクの血を引く。彼らが自分を擁立したのは、扱いやすい幼君としての傀儡に仕立て上げるためであった。だが、アラリックが自らの意志で政治を行おうとするたび、こうして外戚の巨大な壁が立ちはだかるのだった。

「……解った。再考しよう」

アラリックは拳を握りしめながら、苦い敗北感を噛み締めて呟いた。ジョヴァンニは満足げに口元を歪め、うやうやしく一礼して去っていった。



◇

シュタインベルク家の独権に対する不満は、当然ながら他の勢力にも渦巻いていた。

その日の午後、アラリックは中書令マートル・フォン・ブライトクロイツと侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンを召見した。マートルは旧貴妃ソフィアの弟であり、かつて皇位を争った旧第4皇子ロデリック(現ソブリナ親王)の叔父にあたる名門の当主である。

「陛下、シュタインベルク家のお振る舞いは過度でございます」

マートルは周囲を憚るように声を潜め、熱を込めて語りかけた。「政務の根幹を尚書省だけで握り、我ら中書省や門下省の奏上をことごとく握り潰している。これでは帝国の政治ではなく、シュタインベルク家の家政でございます。どうか、太尉ヴァレリオ卿や我らにお命じください。シュタインベルクの増長を抑える術はございます」

マートルの言葉は魅力的だった。だが、アラリックはその背後に潜む野心を見逃さなかった。マートルが狙っているのは、シュタインベルク家を失脚させ、姪のソフィアやその子ロデリックの復権、ひいてはブライトクロイツ家による権力の独占に他ならない。

一方、老獪な政治家として知られる侍中のゲオルグ・フォン・フェルゼンは、ただ静かに微笑みを浮かべているだけだった。

「フェルゼン卿、其方はどう思うか」アラリックが問いかけると、ゲオルグは深々と頭を下げた。

「老臣には、ただ『風が冷たい』としか感じられませぬ。風向きが変われば、木々は倒れ、あるいは折れる。陛下におかれましては、どの木にも寄りかかられぬのが賢明かと存じます」

誰も信じられない。外戚シュタインベルク家、旧勢力のブライトクロイツ家、そして日和見を決め込むゲオルグのような老臣たち。全員がアラリックという若き皇帝を利用し、自らの権益を拡大することしか考えていないのだ。

さらに軍事の要である太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼの存在もアラリックを苛ませていた。ヴァレリオはかつてヴァルハルトの乱を平定した大功臣であり、旧第3皇子イザークの叔父である。アラリックは彼から軍権を取り上げるため、名誉職である太尉へと押し上げ、イザークには西南の肥沃なボルゲーゼ親王領を与えて帝都から遠ざけた。しかし、軍部に絶大な影響力を持つヴァレリオが、いつ裏切って甥のイザークを担ぎ出すか、その疑心暗鬼は消えることがなかった。



◇

夜。重苦しい政務を終えたアラリックは、皇后ロザリアの宮殿を訪れた。しかし、そこにも休息の場はなかった。

「陛下、お顔色が優れませんわ」

美しく着飾った皇后ロザリアは、優雅に茶を淹れながら微笑んだ。だが、その瞳には慈愛ではなく、実家シュタインベルク家の意向を伺う冷たい計算が宿っている。

「父(ジョヴァンニ)から伺いました。減税の件をお引き下げになられたとか。賢明なご判断ですわ。お若い陛下が独断で動かれますと、宮廷の調和が乱れますもの」

「……ロザリア。其方は私とシュタインベルク家、どちらの味方なのだ」

思わず漏れ出たアラリックの言葉に、ロザリアは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに艶やかな微笑を戻した。

「お戯れを、陛下。シュタインベルク家があるからこそ、陛下も、私もこの頂におられるのですわ。私たちは一つでございます」

宮殿を抜け出したアラリックは、冷気漂うバルコニーに一人たたずんでいた。眼下には、暗闇に沈む巨都オクタヴィアの街並みが広がっている。その遙か南東の先——大河アシェロンの河口を越えた大湿地帯に想いを馳せた。

アルヴェリア。

かつては不毛の地と見捨てられていたその場所に、異母弟イリアードが作り上げたという「アクアパレス」の噂が帝都にも届いていた。製塩の一大拠点「ソルトラグーン」を整備し、貿易拠点フルヴィアルトや対岸の直轄都市フローラブルグとの取引で、アルヴェリアは独自の豊かな発展を遂げているという。

権謀術数に明け暮れる帝都をあっさりと捨て、自らの力で荒野を開拓し、民を富ませている十九歳の弟。

「イリアード……お前はこの孤独を知っていたのか。だから、帝国元帥の座すら投げ捨てて去ったのか」

アラリックは夜空に浮かぶ孤月を見上げた。皇帝となって一年。手に入れたはずの絶大な権力は、自分を縛りつける透明な鎖に過ぎなかった。味方は誰もいない。血のつながった家族でさえも、牙を隠した狼なのだ。

吹き抜ける二月の寒風が、若い皇帝の頬を刺した。アラリックは身震いし、静かにマントを羽織り直した。明日もまた、裏切りと欺瞞に満ちた宮廷の朝がやってくる。この暗闇の中で、自らが真の皇帝として立ち上がる日が来るのか、それとも傀儡のまま歴史の闇に消えるのか——孤独な葛藤は、果てしなく続いていくのだった。

オーレリア帝国・親王家(主要人物)

アラリック:オーレリア帝国の現皇帝(旧第二皇子、24歳)。「ヴァルハルトの乱」を経て即位したものの、宮廷内では外戚シュタインベルク家や門閥貴族に囲まれ、孤独と重圧に苦しむ傀儡の立場にあった。新国(燕国)への親征で大敗を喫し絶望するが、駆けつけた異母弟イリアードの毅然とした言葉によって「真の皇帝(覇王)」として覚醒する。

イリアード・フォン・オーレリアス:アルヴェリアを治める親王(19歳)。かつて「帝国元帥」の位を辞退し辺境へ退いたのは、兄アラリックに誇り高き覇王として帝国を統べてもらうためであった。兄の危機にアルヴェリアの精鋭3000を率いてヘクスハイム砦へ急行。血涙峡の戦いでは、猛るアラリックの背後を完璧に統制された軍略で護る「最強の盾」として機能する。

リゼリア:イリアードの正妻(親王妃)。甲板の上でも日傘を挿し紅茶を嗜むような優雅な貴婦人でありながら、並の男をしのぐ強い胆力を秘める。新国の政変と夫の出陣を知り、「国を一つ落としに行くぞ。奪った宝は好きに分取れ」と言い放って一万の海賊を束ね上げ、海からの新国都・鳳山強襲を画策する裏の首謀者。

セシリア:イリアードの側室。今回の作戦では革製の胸当てに曲刀(シミター)を吊るした「艶やかな女海賊」の装いで登場。アルヴェリア水軍の巨大な黒塗り旗艦「水龍ウォータードラゴン」の船首に立ち、荒くれ者の海賊たちから「セシリアの姐さん」と慕われる抜群の貫禄を見せる。

オーレリア帝国朝廷(帝都オクタヴィアの勢力)

ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク:朝廷の政務を司る尚書令。アラリックの叔父であり、皇后ロザリアの父。減税を求めるアラリックを冷酷に見下し、シュタインベルク一門による権力の独占を諮る外戚の長。

リヒャルト・フォン・シュタインベルク:民政・内政を統括する司徒(三公の一角)。ジョヴァンニの父であり、太皇太后の兄、皇太后の父。一門の最高長老としてアラリックに抗いようのない重圧をかける。

ロザリア:アラリックの皇后。ジュリエット(皇太后)の姪にあたる。美しく着飾っているが、夫への慈愛はなく、実家シュタインベルク家の意向を伺う冷たい計算高さを崩さない。

アデレード:朝廷の太皇太后。リヒャルトの妹であり、アラリックの祖母。皇帝大敗の凶報に朝廷がパニックに陥る中、唯一杖を突いて毅然と喝を入れ、後宮の女たちを正気に戻した。

ジュリエット:朝廷の皇太后。リヒャルトの娘であり、アラリックの母。

マートル・フォン・ブライトクロイツ:朝廷の中書令。旧貴妃ソフィアの弟であり、かつて皇位を争った旧第4皇子ロデリック(現ソブリナ親王)の叔父。シュタインベルク家の独権を崩し、自らの一門で権力を独占しようと野心を滾らせる。

ゲオルグ・フォン・フェルゼン:朝廷の侍中。老獪な政治家として知られ、アラリックから意見を求められても「日和見(どの木にも寄りかからぬのが賢明)」を決め込む古狸。

ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ:軍事の要である太尉(三公の一角)。かつてヴァルハルトの乱を平定した大功臣で、旧第3皇子イザークの叔父。軍部に絶大な影響力を持つため、アラリックから軍権を取り上げられ帝都留守居役に置かれていた。アラリック敗戦の報に、牙を剥く機会をうかがう。

新国(旧燕国)

崔厳(さいげん):旧燕国の主君を殺害(弑逆)して国を乗っ取り、『新』を名乗った逆賊の王。皇帝アラリックの首を狙い、帝国の内分裂を画策している。

張魁(ちょうかい):新国の将軍。熊を思わせる巨躯に無数の傷跡を持つ老練な猛将。巨大な鉄槍を操る。前回の戦いでは見事な「擬装撤退」でアラリックを血涙峡へ誘い込み、火攻めと落石で帝国軍を壊滅させた。リベンジマッチではイリアードの先読みとアラリックの猛攻に圧倒され、最後はアラリックの渾身の一撃によって鉄槍ごと真っ二つに叩き斬られ討ち死にした。


国家・地理

オーレリア帝国:主人公アラリックが治める帝国。

オクタヴィア:オーレリア帝国の首都。

白銀宮(はくぎんきゅう) / 紫霄殿(ししょうでん):帝都にある宮殿・政務の場。

アシェロン:帝国内を流れる大河。

アルヴェリア:帝国の南東に位置する大湿地帯。イリアードの統治により独自の発展を遂げている。

アクアパレス:イリアードがアルヴェリアに作り上げた「水の都」。

ソルトラグーン:アルヴェリアにある製塩の一大拠点。

フルヴィアルト:アルヴェリアの交易拠点となる都市。

フローラブルグ:アルヴェリアの対岸にある直轄都市。

ベラグランデ:物資の蓄えがあるアルヴェリアの拠点。

燕国(えんこく) / 新国(しんこく):逆賊・崔厳が乗っ取り、新しく打ち立てた国。

鳳山(ほうざん):新国(旧燕国)の首都。大河『燕江(えんこう)』に通じる水運都市。

血涙峡(けつるいきょう):両脇を断崖絶壁に囲まれた深谷。帝国軍が一度大敗を喫した因縁の地。

ヘクスハイム砦:北東の山岳地帯の入り口、国境沿いに位置する城砦。

登場人物(オーレリア帝国側)

アラリック:オーレリア帝国の現皇帝(旧第二皇子、24歳)。「ヴァルハルトの乱」を経て即位した。

ヴィンセント:急逝した先帝であり、アラリックたちの父。

ヴァルハルト:一年前の皇位継承劇で反乱(ヴァルハルトの乱)を起こした第一皇子。

イリアード:アラリックの異母弟(19歳)。アルヴェリア親王。かつて「帝国元帥」の位を辞退し領地を開拓した。

リゼリア:イリアード親王の正妻(アルヴェリア親王妃)。

セシリア:イリアード親王の側室。元海賊船団をまとめる勝気な女性。

リヒャルト・フォン・シュタインベルク:民政・内政を統括する「司徒」。シュタインベルク一門の長老。

ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク:リヒャルトの息子。国政の長官である「尚書令」。

アデレード:リヒャルトの妹で、アラリックの祖母。後宮に影響力を持つ「太皇太后」。

ジュリエット:リヒャルトの娘で、アラリックの母。現「皇太后」。

ロザリア:ジョヴァンニの娘。アラリックの「皇后」。

マートル・フォン・ブライトクロイツ:名門の当主。「中書令」の役職に就き、シュタインベルク家と対立する。

ソフィア:先帝の「旧貴妃」であり、マートルの姉。

ロデリック:旧第4皇子(現ソブリナ親王)。マートルの甥にあたる。

ゲオルグ・フォン・フェルゼン:老獪な政治家として知られる「侍中」。

ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ:軍部に絶大な影響力を持つ大功臣。現在は名誉職の「太尉」。

イザーク:旧第3皇子。ヴァレリオの甥で、西南のボルゲーゼ親王領を与えられている。

登場人物(新国側)

崔厳(さいげん):燕国を乗っ取り、主君を殺して自ら『新』の王を騙る逆賊。

張魁(ちょうかい):新国の老練な将軍。熊を思わせる巨躯を持ち、擬装撤退による火攻めや落石の計で帝国軍を苦しめた。

組織・軍事用語

三公(さんこう):司徒や太尉など、国の最高政務を司る最高位の役職の総称。

尚書省(しょうしょしょう) / 中書省(ちゅうしょしょう) / 門下省(もんかしょう):帝国の政治の中枢を担う各機関。

近衛軍 / 皇帝親衛隊:皇帝直属の精鋭部隊。

水龍(すいりゅう)艦隊:リゼリアとセシリアが率いる、元海賊船団を組み込んだアルヴェリアの水軍。

テストゥド:重装歩兵が大盾を掲げて亀の甲羅のように強固に組む陣形。


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