オーレリア外伝『水鏡の七弦』その4
秋が深まり、大明宮の庭々に落葉が舞う季節となった。
フレデリカとアナの合奏――古琴と胡琵琶という、相反する二つの弦が織りなす「陰陽の調べ」は、口コミを通じて教坊から皇宮全体へと広がっていた。初めは反目し合っていた二人だったが、互いの旋律を重ねる中で、次第に唯一無二の理解者となっていった。
そんなある日、教坊掌楽使・シン・カルラが、険しい表情で幽香院を訪れた。
「フレデリカ、アナ。緊急の奏上だ。……来月の『万寿節』の宴において、お前たち二人に合奏を命じる」
万寿節――それは皇帝陛下の誕生日にして、帝国オーレリアの威信を全世界に示す年内最大の儀式である。新羅、吐蕃、渤海、そして西域の国々から数百の使節が集い、皇宮の正殿である含元殿にて盛大な祝いが催されるのだ。
「私たちが……万寿節の正殿で?」
アナが息を呑んだ。新人女楽師が立つなど、開国以来前代未聞のことである。
「そうだ。だが、今回はただの祝賀ではない」
シン・カルラは声を潜め、重々しく言った。
「西域の強力な大国より派遣された特使・ハッサンなる者が、当代随一と謳われる『五弦琵琶』の名手を連れてきておる。彼らは我が国の音楽を『華やかなばかりで深みがない』と挑発し、宴の席で対決を申し込んできたのだ。もし我が方の奏者が負ければ、帝国オーレリアの文化的威信は地に落ちる」
万寿節の華やぎの裏に潜む、外交という名の刃。 皇帝は、この国の真の「音」を示す者として、他でもない十三歳のフレデリカと、若きアナの二人を指名されたのだった。
◇
決戦の日。含元殿は燦然と輝く燭台の火で満たされ、百官と外国使臣たちが整然と居並んでいた。
宴が最高潮に達した頃、異国の特使ハッサンが歩み出た。
「皇帝陛下。我が国の至宝、奏者タルハによる五弦琵琶の調べをご聴聴いただきたい。これぞ天地を揺るがす真の音色でございます」
現れたのは、全身に刺青を彫り込んだ巨漢の男。彼が手にしていたのは、美しい螺鈿が施された極彩色の五弦琵琶であった。
タルハが弦を掻き鳴らす。
――ズバアアン!
殿内に爆音のごとき音が響き渡った。 それは砂漠の嵐、疾走する万馬の蹄の音を思わせる、圧倒的な音量と眩いばかりの高速奏法だった。複雑なリズムが変幻自在に繰り出され、並の奏者ならその勢いだけで気圧されてしまうほどの威圧感であった。使節たちは喝采をあげ、帝国の臣下たちは顔をくもらした。
「いかがかな、帝国の音楽家たちに、これほどの音が出せましょうや?」
ハッサンが不敵に笑う。 その圧倒的な演奏の後、静かに姿を現したのが、薄桃色の衣装に身を包んだフレデリカとアナだった。
幼さの残る少女二人の登場に、異国の使節たちから失笑が漏れる。
「あんな子供に、帝国の威信を託すのか?」
しかし、フレデリカは一切の雑音を耳に入れなかった。膝の上に「水鏡」を置き、隣のアナと目配せを交わす。アナもまた、しっかりと腹をくくった眼差しで頷き返した。
(相手は砂漠の嵐……なら、私たちは……)
フレデリカの手が、静かに弦に触れた。
――ポーン。
たった一音。 しかしそれは、先ほどの嵐のような騒音を、一瞬でかき消すほど澄み切った「水」の音だった。
続いてアナの胡琵琶が、水面に走る波紋のように可憐な音色を添える。 フレデリカの古琴が地を支える「大地の静けさ」を表現し、アナの琵琶がその上を舞う「風の輝き」を奏でる。
ふたりの旋律が交差した瞬間、含元殿の空間が一変した。
はじめは静かな小川のせせらぎ。それがやがて大河となり、豊かな恵みとなって帝都オクタヴィアの広大な大地を潤していく。 ただ音量が大きいだけの相手の演奏に対し、フレデリカたちの音楽には「情景」があり、「呼吸」があり、「いのち」があった。
タルハの顔色が変わった。 自分の激しい音が、フレデリカの包み込むような古琴の深遠な響きに吸い込まれ、中和されていくのを感じたのだ。激しさは静寂に勝てず、力任せの音は、心を込めた弦の響きに呑み込まれていく。
曲が破の章へ入ると、フレデリカとアナの合奏はさらに熱を帯びた。 古琴の『滾拂』と胡琵琶の『撥折』が完璧に同期し、まるで二本の龍が天へ昇っていくかのような壮大なうねりを生み出す。
異国の使節たちも、ハッサンも、もはや言葉を失い、口を開けたまま二人の手元を凝視していた。そこにあったのは競い合いではなく、異なる文化と楽器が昇華し合った、究極の「和」の境地であった。
最後の一音が悠久の余韻を残して消えた時――。
静寂の後、含元殿が割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。 異国の奏者タルハは、自らの琵琶を置くと、フレデリカとアナの前に歩み寄り、胸に手を当てて深く頭を下げた。
「……私の負けだ。オーレリアの音楽には、世界を包み込む『海』のような深さがある」
皇帝は満足そうに深く頷き、大音声で宣言された。
「見事なり! フレデリカ・リヴィエール、アナ・カルラ! そなたたちの奏でた音こそ、我が帝国の誇るべき『平和の調べ』である!」
◇
万寿節の夜が明け、帝都オクタヴィアに新しい朝が訪れた。
大金星を挙げた二人には、破格の恩賞と更なる高位が与えられたが、フレデリカの日常は何も変わらなかった。
今朝もまた、彼女は身の丈ほどもある桐の箱を背負い、幽香院の竹林へと向かう。
「フレデリカ! またそんな重い箱を自分で抱えて! 今は『御前大琴師』なんだから、従者に運ばせればいいでしょ!」
呆れ顔で追いかけてくるアナの声に、フレデリカは振り返って楽しそうに笑った。
「ううん。この箱の重さを感じて歩くのが、私の練習なの」
琴台に「水鏡」を据え、フレデリカはそっと指を掛ける。 朝靄を突いて差し込む一筋の光の中、古琴の七本の弦が美しく輝いていた。




