オーレリア外伝『水鏡の七弦』その3
翌晩、宮廷の空気は一変していた。
ただの新人が皇帝陛下の寝所である清涼殿へ召し出されたという報せは、瞬く間に教坊全体を駆け巡った。嫉妬と驚愕の視線が交錯する中、フレデリカは静かに身支度を整えていた。
「フレデリカ、本当に大丈夫なの……?」
控えの間で声をかけてきたのは、アナ・カルラだった。かつてのような高慢さは消え、その瞳には焦りと、どこか恐れのような色が浮かんでいる。皇帝の前での演奏は、一歩間違えれば不敬罪として命を落としかねない重大な役目だったからだ。
「ええ、カルラ様。私はただ、昨日と同じように弦を弾くだけです」
フレデリカは静かに微笑み、桐の箱に納めた「水鏡」を大切に抱え上げた。
清涼殿の空気は、張り詰めるように重かった。
豪華な薄絹の帳の奥に、深く腰掛けた皇帝の姿がある。部屋を照らすのは数本の蝋燭のみ。静寂を破るのは、時折パチパチと薪がはぜる音と、帝の重い吐息だけだった。
「来たか、フレデリカ・リヴィエール」
「はい、陛下」
フレデリカは深く頭を下げ、漆黒の床に膝をついた。古琴を据え、指先を弦に添える。
「今宵の朕は、国の政務に心が千々に乱れておる。そなたの琴で、この胸の騒ぎを静められるか?」
帝の声には、一国の主としての重圧と、深い孤独が滲み出ていた。
(政の苦しみは、私には分からない。けれど、夜の静けさに怯える気持ちなら、分かる……)
フレデリカはそっと目を閉じ、息を整えた。
指先が第一弦を捉える。
――静寂の中に、一筋の音が通った。
昨夜の調べではない。フレデリカが弾き始めたのは、さらに低く、温かい音色――古来より伝わる名曲『平沙落雁』に変奏を加えたものだった。
廣々とした砂州に、一群の雁が舞い降りる情景。 指先が弦を擦る「滑音」が、秋の風に乗って旅する鳥たちの翼の音を表現する。決して出しゃばらず、かといって消え入ることもない、寄り添うような温かい振動。
帳の奥で、皇帝の荒かった呼吸が、次第に深く、穏やかなものへと変わっていくのが分かった。
フレデリカは琴と一体になっていた。 己の指先を通して、宮廷の夜の冷たさを溶かし、帝の孤独を包み込んでいく。七本の弦はもはや単なる糸ではなく、心と心をつなぐ架け橋となっていた。
曲の終わり、最後の静寂が部屋を満たした時、帳の奥から力強い、しかし心底くつろいだ声が聞こえた。
「……見事だ。胸のつかえが、霧が晴れるように消えていくのを感じた」
帳が開かれ、皇帝がゆっくりと姿を現した。その表情からは先ほどの険しさが消え、穏やかな慈愛が漂っていた。
「フレデリカ・リヴィエール。そなたの琴には、人を教化する『徳』がある。ただ技術をひけらかす奏者とは根本が異なるな」
「もったいないお言葉にございます、陛下」
「今日よりそなたを、教坊の女楽師ではなく、朕直属の『御前琴師』に任ずる。皇宮のあらゆる宴、そして朕が心を休めたい時、常にその琴を携えて側に控えよ」
十三歳にして、宮廷音楽家の頂点の一つに数えられる大役に抜擢された瞬間だった。
それから数日後。幽香院の庭には、新しく上等な琴台や譜面が運び込まれていた。
だが、フレデリカの佇まいは何一つ変わっていなかった。相変わらず古い木箱から「水鏡」を取り出し、竹林の風とともに弦を弾く毎日だ。
そこへ、一人の訪問者が現れた。琵琶を抱えたアナ・カルラであった。
「……御前琴師様にご挨拶申し上げます」
アナは皮肉めいた言い方をしようとしたが、言葉が続かず、唇を噛んで俯いた。フレデリカは琴から手を離し、優しく声をかけた。
「カルラ様、どうされたのですか?」
「……悔しいのよ。お前の琴が陛下に認められたことも、私がどれだけ華やかに琵琶を弾いても、陛下の本当の笑みを引き出せなかったことも」
アナの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。高慢な仮面の下に隠されていた、一人の少女としての苦悩が溢れ出していた。
フレデリカは静かに立ち上がり、アナの隣に座った。
「カルラ様の琵琶は、太陽のように華やかで美しいです。でも、太陽が眩しすぎるとき、人は木陰の涼しさを求めたくなる……ただそれだけのことです。私の琴は木陰で、カルラ様の琵琶は太陽。どちらが上ということなんてありません」
「フレデリカ……」
「もしよろしければ……私の琴と、カルラ様の琵琶で、合奏してみませんか? 西域の賑やかな音と、古くも琴の音。二つが重なれば、きっと誰も聴いたことのない新しい旋律が生まれます」
アナは驚いたように目を見開き、やがて袖で涙を拭うと、小さく、しかししっかりと頷いた。
「……ふん、足引っ張らないでよ、天才琴師様」
強がりながらも、アナは琵琶を構えた。 フレデリカも笑みを浮かべ、古琴に指をかける。
風が駆け抜ける幽香院の庭に、琴の深遠な響きと、琵琶の煌びやかな音が溶け合って響き始めた。




