オーレリア外伝『水鏡の七弦』その2
太明宮の広大な回廊を、フレデリカは自分の背丈ほどもある木箱を背負って歩いていた。
合格の余韻も束の間、彼女に与えられた宿舎は、教坊の華やかな一等部屋ではなく、宮廷の北端に位置する「幽香院」と呼ばれる小さな一角であった。
「……ここが、私の新しい家」
通された部屋は、長年使われていなかったのか、うっすらと埃の匂いが漂っていた。しかし、窓を開けると庭には古びた竹林が広がり、風が吹くたびに葉が擦れ合う美しい音が響いている。静寂を愛する古琴の奏者にとって、これ以上の場所はなかった。
フレデリカが荷物を解き、愛琴「水鏡」を机の上に据えたその時、背後で足音がした。
「ふん、案内されたのがこんな寂れた部屋だなんて。天才琴師様も落ちたものね」
振り返ると、そこには採用試験の列でフレデリカの琴箱を嘲笑していた少女が立っていた。彼女の名はアナ・カルラ。合格者の中でも群を抜いた胡琵琶の腕前を持ち、裕福な家柄の出身である。
「カルラ様……」
「勘違いしないでちょうだい。叔父様はお前の奇策に一瞬惑わされただけよ。オーレリアの皇宮で真に愛されるのは、華やかで宴を盛り上げる私の琵琶。地味な古琴しか弾けないお前が、いつまでここにいられるかしらね」
アナは嘲笑を残して立ち去った。フレデリカは怒ることもなく、ただ静かに彼女の背中を見送った。
(いいえ。琴は、誰かと勝負するためのものじゃない……)
スレデリカは琴に手を置き、静かに弦を一本、爪弾いた。ポーンと響く音が、竹林の風の音と溶け合っていく。
◇
入宮してから半月。フレデリカの日常は、想像以上に過酷であった。
教坊の新人女楽師たちは、早朝から夜遅くまで厳しい練習を課される。しかし、フレデリカに与えられる仕事は、宴席での演奏ではなく、他の華やかな奏者たちの楽器の調律や、楽譜の整理といった雑用ばかりであった。
「古琴など、皇帝陛下がお越しになる大宴では音が小さすぎて聞こえぬ」
管弦を仕切る老女官はそう言い捨て、フレデリカを宴の表舞台に立たせようとはしなかった。アナたちが豪華な衣装を纏い、紫宸殿での宴に向かうのを、フレデリカはただ裏方の暗がりから見送る日々が続いた。
だが、フレデリカは腐らなかった。
雑用の合間、彼女は皇宮の「音」を集めた。 庭を穿つ雨垂れの音、朝靄の中を飛ぶ鳥の羽音、風に揺れる竹のきしみ。そして、華やかな宴の裏でため息をつく女官たちの小さな吐息。
(音はすべて、生きている。私の琴は、この宮廷のすべてを吸い込んで、深くなれる)
夜、皆が眠りについた後、フレデリカは幽香院の庭で一人、琴を弾いた。 月明かりだけが照らす竹林で、彼女の指は滑らかに弦を滑る。それは誰に見せるためでもない、ただ天と地、そして己の心と対話するための調べであった。
ある満月の夜。
帝都オクタヴィアを冷たい秋風が吹き抜けていた。その日、宮廷では西域からの使節を歓迎する盛大な宴が開かれていたはずだった。しかし、夜更けになり、宴が終わったあとも、宮廷の空気はどこか重く沈んでいた。
フレデリカはいつものように幽香院の庭で、一人琴を構えていた。 今夜弾くのは、彼女が自ら紡ぎ出した新しい旋律。宮廷の華やかさの裏に隠された人々の孤独と、秋の夜の深い静寂を写し取った曲だ。
指先が弦を捉える。
――静まり返った夜気に、一筋の清涼な音が染み渡っていく。
それはまるで、溜まりに落ちた一滴の水滴が波紋を広げるように、竹林を抜け、回廊を巡り、皇宮の闇の中へと静かに広がっていった。
フレデリカは目を閉じ、演奏に没頭していた。 『吟』の手法で音を揺らし、『擵ノ法』で弦を擦る。その音色は、激しい宴の狂騒に疲れた者の耳に、染み入る水のように届いた。
どれほどの時間が経っただろうか。 曲が終わりに近づき、最後の余韻を引いた時――。
「……見事な調べだな」
暗がりから、低い、しかし威厳に満ちた声が響いた。
フレデリカが驚いて目を開けると、竹林の影から一人の男が姿を現した。 手に酒杯を持ち、質の良い龍の刺繍が施された絹の袍を纏っている。その眼光は深く、身に纏う気品は教坊の長であるシン・カルラの比ではなかった。男の後ろには、顔色を変えたシン・カルラと、青ざめた護衛たちが控えめに平伏している。
「あ……」
フレデリカは直感した。このお方こそが――この巨大な皇宮の主、皇帝ヴィンセントその人であることを。
「お許しください、陛下! このような夜更けに、生意気な新人が騒音を……直ちに下げさせます!」
シン・カルラが慌てて声を上げ、連れデリカを立ち退かせようとした。しかし、皇帝はゆっくりと手を挙げてそれを制した。
「黙れ、シン。今日の宴の賑やかな胡楽には、いささか胸がやけておったのだ。……娘よ、名を何と申す?」
フレデリカは琴の前に平伏し、声を震わせながら答えた。
「フレデリカ……フレデリカ・リヴィエールと申します」
「フレデリカか。お前がいま弾いていた曲、何という名だ? 太常寺の古い楽譜にも、教坊の新しい曲目にも、そのような調べはなかったぞ」
「……まだ、名の無い曲でございます。今夜の月があまりに美しく、宮廷の風が哀しかったゆえ、私の手が勝手に弦を探ぐりました」
「勝手に、か」
皇帝は小さくくすりと笑うと、フレデリカの目の前に歩み寄り、愛琴「水鏡」を見つめた。
「皆、余に『賑やかな音』を聴かせようとする。帝を喜ばせるのは華やかさだと信じ切っておるからだ。だが……今宵、余の心を真に解きほぐしたのは、この小さな琴の、静かな音色であった」
皇帝は酒杯を傾け、フレデリカを見下ろした。その瞳には、深い満足の色が浮かんでいた。
「フレデリカ・リヴィエール。明晩、朕の寝所である清涼殿へ参れ。朕が眠りにつくまでの間、その『名の無い曲』をもう一度、朕のためだけに弾くのだ」
「へ……陛下のために、ですか……!?」
「そうだ。教坊の女楽師としてではない。朕の心を癒やす、ただ一人の琴師としてな」
皇帝は満足そうに微笑むと、袖を翻して夜の闇の中へと去っていった。 後には、ただ呆然とするシン・カルラと、信じられない思いで己の手を見つめるフレデリカだけが残された。
遠くの竹林から、秋の風が通り抜ける。 十三歳の少女の手の中にある七つの弦が、月光を受けて一筋の銀色の光を放っていた。それは、彼女が皇宮という孤独な海で、自らの音だけを頼りに光を掴み取った瞬間であった。




