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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴325年
257/287

『夜襲のイメイルと白き皇女』

帝国歴三百二十五年、五月。

世界が瑞々しい新緑に染まる美しい季節。しかし、オーレリア帝国の最西、そして最南の果てに位置する辺境の領地イメイルは、肌にまとわりつくような重苦しい静寂に包まれていた。

数代前の皇帝より親王が拝領し、代々世襲によって統治されてきたこの地は、前年に勃発した不条理な反乱の炎によって、かつての主たる親王家を容赦なく葬り去っていた。

事態を重く見た皇帝イリアードと帝国宮廷は、年が明けた早春、ついに反乱の息根を止めるべく大規模な討伐軍を動かした。

軍を率いる名目上の総大将には、いまだ少年の面影を残すうら若き皇太子リアム。その両翼を固めるのは、数々の戦場をくぐり抜けてきた歴戦の重鎮たる大将軍バルドゥインと、帝国が誇る名門ボルゲーゼ家の若き麒麟児ハリス。五万の圧倒的な軍勢は、道中大きな抵抗を受けることもなく、二ヶ月におよぶ行軍を経て、ついに中心都市イメイルを目前に捉えるところまで迫っていた。

その夜、軍は町の目と鼻の先に本陣を構えた。

幾多の死線を越えてきた大将軍バルドゥインの判断と忠告は完璧であり、天幕の配置から見張りの巡回に至るまで、陣営の防備に何一つ不備はなかったはずだった。

――しかし、運命という名の脆いガラス細工は、あまりにも容易く、そして残酷に砕け散る。

深夜二時。

それまで空を泳いでいた月が厚い雲の背後に隠れ、完全な漆黒が本陣を呑み込んだ、まさにその瞬間だった。

「――敵襲ッ! 前方、いや、左右からもだ! 囲まれているぞ!」

静寂を引き裂いた悲鳴のような絶叫が、凍てつく闇夜に響き渡った。

直後、地を震わせる轟音とともに夜空を埋め尽くしたのは、漆黒の闇に禍々しい尾を引く、火薬を括り付けられた無数の火矢の雨だった。

「乾いた天幕に火が燃え移る! 水を運べ、急げ!」

激しい爆音と、大地を底から揺さぶる衝撃が本陣を蹂躙する。ほんの一瞬前まで冷徹な規律を保っていた陣地は、またたく間に赤黒い炎と不快な硝煙が渦巻く、この世の地獄絵図へと変貌を遂げていった。

「バカな……どこからこれほどの数が……!」

副将ハリス・ボルゲーゼは、普段の傲慢な美貌を驚愕と屈辱に歪ませ、乱れた金髪を振り乱しながら絶叫した。彼はまともに鎧を身に纏うことすらできぬまま天幕を飛び出し、血走った目で狂乱の周囲を見回す。名門の誇りは夜風に吹き飛び、その薄い唇は恐怖と怒りのために小刻みに震えていた。

不意を突かれた五万の帝国軍は、誇り高き統率を完全に失い、巨大な混乱の渦へと沈んでいく。

「落ち着け! 隊列を崩すな!」

大将軍バルドゥインが、喉を裂かんばかりの声で怒号を浴びせる。彼は歴戦の勘で瞬時に戦況の絶望を悟りながらも、押し寄せる反乱軍の歩兵を力任せに叩き斬っていた。返り血を浴びたその厳めしい容貌は、怒りと焦燥によって、まるで夜に現れた鬼神のごとき凄味を帯びている。

「ハリス! 怯むな、右翼の部隊を立て直せ! ここを破られれば本陣は全滅するぞ!」

しかし、闇の深淵から次々と湧き出る反乱軍の勢いは、防ぎようがなかった。地元の地形を骨の髄まで熟知した彼らは、帝国軍の死角から音もなく襲いかかり、容赦なくその刃を兵たちの肉体へと突き立てていく。

本陣の最奥。

燃え盛る炎の照り返しの中で、皇太子リアムは必死に剣を振るっていた。

「これは……持たない。撤退すべきか……?」

彼の整った顔は敵の返り血に汚れ、どす黒く染まっている。握りしめた聖剣の柄は、手の内ににじむ冷や汗で滑りそうだった。周囲で次々と斃れていく兵士たちの、耳を覆いたくなるような断末魔が、彼の若き精神を容赦なく摩耗させていく。

そのリアムの背後に、ぬっと影が迫った。足音すら聞こえなかった。

赤々とした炎の光の中に浮かび上がったのは、不気味な嘲笑を浮かべた反乱軍の伏兵である。

「おいおい、そこの上等な服を着たガキが、まさか総大将か?」

ギラリと冷たい光を放つ長剣が、リアムの無防備な首筋をめがけて容赦なく振り下ろされた。

「くっ……!」

とっさに反応したリアムは、本能的な身のこなしで鋭い剣筋を交わし、乾坤一擲の反撃を繰り出す。

だが、迫り来る敵の止めを刺したのは、リアムの剣ではなかった。

「お兄様!」

「殿下!」

戦場の騒音を突き抜けて響いた、凛とした二つの声。

夜の闇を裂いて現れたのは、光り輝く錫杖を掲げ、『四つ葉』の紋章を背負った白い影――リアムの妹である皇女シンシアと、四つ葉堂の巫女ココロギであった。さらにその背後には、油断なく武器を構えたツルギとミタマが、鋭い眼光を光らせて控えている。

「シンシア……! なぜここに!?」

リアムは驚愕に目を見張り、剣を構えたまま叫んだ。安全な帝都にいるはずの妹が、なぜこの血煙渦巻く最前線にいるのか。

シンシアは、およそ戦場には不釣り合いなほど気品に満ちた仕草で、ふっと息を整えると、悪戯っぽく唇を尖らせた。

「お母様が心配していたので、様子を見に来てみたのです。このままお兄様が負けて帰ったりしたら、お父様の激しい雷が落ちますよ? ……確かにひどい劣勢ですが、ここは私たちがもたせないと」

その刹那、彼らの会話を遮るように、数人の敵兵が殺気立って躍り出てきた。

「おのれ、小娘どもが!」

「下がっていてください、お兄様」

シンシアは美しく引き締まった表情で、手にしていた得物『空斬水鏡』を流れるような動作で振り抜いた。

鋭い一閃が空気を切り裂いた瞬間、猛烈な局地的大地を巻き上げる竜巻が発生し、襲いかかってきた敵兵たちを一網打尽にして遥か後方へと吹き飛ばした。

凄まじい風圧の余韻のなか、リアムは息を呑みながらも、周囲で燃え広がる炎の海を見つめ、苦渋に満ちた声を絞り出す。

「だが……このままでは全滅だ。兵たちの命が……」

その弱気な言葉を聞いた瞬間、シンシアはきびきびとした足取りでリアムの前に立ちはだかり、その端正な顔をきゅっと怒らせて言い放った。

「何を言っているのですか! 武人は戦場で死んで本望でしょう! 迷っている暇はありません、早く行きなさい!」

凛烈な妹の叱咤が、リアムの凍りついていた心を強く叩き起こした。燃え盛る戦火の中、皇太子は再び聖剣を強く握り直し、前を向いた。


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