『春の残雪、幼き転生姫の朝稽古』
帝国歴三二五年、三月。
解けきらぬ残雪が冷気を孕んだ風を呼び、広大な帝都後宮にはいまだ硬く鋭い春の寒気が滞っていた。しかし、その静寂を打ち破るようにして、ある一大作戦が幕を開けようとしていた。
皇孫女シェルランテ、一歳三ヶ月。 愛くるしい頬の肉を震わせ、彼女は断腸の思いで大好きな牛乳飴の封印を誓った。今やその小さな胸に燃え盛るのは、過酷なる減量への闘志である。
朝の薄闇が去りきらぬ刻限、後宮の石畳に小気味よい足音が響き渡る。 先頭を切って突き進むのは、重厚な冬着に身を包んだシェルランテであった。目的地も告げられぬまま連れ出された侍女たちは、裾を乱しながら追うのが精一杯である。 「シェルランテ様、どうぞもう少しお命じを……! どこへ向かわれておられるのですか!」 悲鳴のような呼びかけにも、皇孫女は一切振り返らない。早歩きのさなか、彼女は不意に身を翻すと、小さな拳を握りしめて鋭く空間を穿った。軽快なステップ、間髪をいれずに繰り出される左右のシャドウボクシング。幼子とは思えぬその躍動感は、まるでリングへ向かう孤高の格闘家そのものである。 もっとも、厳しい減量の成果は未だ肉体に結実しておらず、現段階での体格はいささか「ヘビー級」の重厚感を残していたが、その眼光に宿る威厳は本物であった。
後宮の外周をまるまる一周し、春宮へと帰還した頃には、供の侍女たちはその場に膝をつき、呼吸を荒くして肩を揺らしていた。 シェルランテは汗ひとつ拭わず、太々しくも愛らしい面持ちで「うー!」と低く唸ると、ぽってりとした幼い指先である一点を指し示した。 その先にあるのは、彼女が自らの異能によって生み出した、虹色に煌めく怪しげな縄である。 次の瞬間、幼児の手によって激しく旋回を始める彩りの縄。風を切る異様な音と、幾度となく跳躍を繰り返す一歳児の姿は、見ようによっては恐ろしい光景であった。
——この幼子が、前世の記憶を保持した転生者であると知る者が居たならば、「なるほど」と深く頷き、納得したであろう。 しかし、その秘密を共有しているのは、皇后リゼリアと貴妃セシリア、そして後宮の奥深くに佇む「四つ葉堂」の巫女ココロギのみ。実の母親である皇太子妃シルヴィアすら、その真実を知る由はなかった。 かつては娘の奇行にいちいち肝を冷やしていたシルヴィアであったが、近頃ではすっかり諦めを通り越し、清々しいまでに達観した眼差しで我が子を見守るようになっていた。何より、昨年の暮れに念願の世継ぎとなる男児を出産したばかりであり、今はそちらの育児に追われ、慌ただしくも幸福な日々に一喜一憂していたからでもある。
縄跳びを終えたシェルランテは、息をつく間もなくスクワットの態勢へと移行する。 腰を深々と落とし、腿の筋肉に負荷をかけていくフルマッチョなストロングスタイル。常人には理解しがたい過酷なメニューだが、己の肉体を知り尽くした彼女なりの緻密な計算があってのことであろう。
仕上げには、ストレッチを兼ねた軽い体操が待っていた。 息を吹き返した二人の侍女が自発的に両脇を固め、皇孫女と呼吸を合わせて身体を伸ばす。一見すると微笑ましくもあるが、どこか哀愁と可笑しみが漂うそのトリオの姿は、ドサ回りをする売れない演芸一座のようでもあった。通りかかる女官や宦官たちは、口元を緩め、温かい苦笑いを浮かべながら通り過ぎていく。
「……ふぅ」 すべての行程を完遂したシェルランテは、満足げに息を吐くと、両脇でぜいぜいと喘ぐ侍女たちの太ももを、小さな掌でぽんぽんと優しく叩いた。 『お疲れ様。今日のお勤めも、実にご苦労であったな』 無言の動作の中に染み出す威厳と労わりの色に、侍女たちは疲れも忘れ、思わず頭を下げてしまうのであった。
己に一切の甘えを許さぬ皇孫女は、冷水でその小さな身体を清めると、迷いのない足取りで次なる目的地へと向かう。 目指すは、静謐なる四つ葉堂。 そこで待つ巫女ココロギが仕込む、滋味あふれる「味噌玉子粥」の芳しい湯気が、過酷な鍛錬を終えた幼き格闘家の鼻腔を、優しくくすぐろうとしていた。




