『地平線へと続く黒き帯』
帝国歴325年、2月後半。 帝都オクタヴィア。白亜宮の大殿を包む空気は、去りやらぬ冬の冷気によって鋭く澄み渡っていた。重厚な大理石の回廊を、どこからか吹き込む凍てついた風が吹き抜けていく。その静寂を打ち破るように、重々しい開戦の詔が大殿の天井へと響き渡った。
最南端の地、イメイルへの遠征。 長い年月、親王領として栄えたその地は、いまや反乱の炎に包まれていた。もとより紅茶と高級大理石の産地として名を馳せていたが、近年のリヴィエール商会の隆盛と流通改革によって、遠路はるばる最南端から大理石を運ぶ必然性が失われてしまったのだ。不景気の波は領民を追い詰め、ついに起きた暴動は暴走。惨劇の果てに、親王家は無残にも反乱軍の手によって葬り去られてた。
反乱鎮圧のため編成された遠征軍は5万。 軍の総大将として名目上の指揮を執るのは、皇太子リアムである。昨年の暮れには2人の皇子を授かり、一気に三子の父となったばかりの若い皇太子は、武芸にこそ長けているものの、万の軍勢を動かす実戦の経験は浅い。
そのリアムの脇を固めるのは、まさにオーレリア帝国の威信を体現する二人の将軍であった。 一人、大将軍バルドゥイン・ダキタニア。先帝の親衛隊長から叩き上げ、幾多の死線を潜り抜けてきた生え抜きの宿将である。深みのある眼光と重厚な雰囲気を纏うバルドゥインは、実質的な総指揮官としてリアムを全面的に支える。 そしてもう一人、武家の名門ボルゲーゼ家から参陣したハリス・フォン・ボルゲーゼ。帝国軍の生ける伝説と謳われたヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼの孫である。
「わしが出陣して、不忠の徒など叩きのめしてやるわ!」 そう言って大車輪の活躍を誓い、興奮のあまり心臓発作で永眠した祖父ヴァレリオ(享年75)。その急逝は帝国にとってあまりにも痛ましい損失であったが、その覇気と血脈は、若きハリスの引き締まった佇まいに確かに受け継がれていた。
冬の間、三公の一角である太尉レイナルド・デル・ペーレは、不眠不休でこの大遠征の兵糧と補給の差配を進めていた。長く近衛軍団長を務め上げた男にとって、自ら出陣できぬ立場は歯痒いこと限りない。補給目録を検分しながら、レイナルドは時折、遠い目をして悔しそうに拳を握りしめていた。
だが、大殿の玉座において、誰よりも歯噛みしていたのは皇帝イリアードその人であった。 本質的に文官ではなく武官であるこの皇帝は、本心を言えば執務室の机に積み上がった書類などすべて放り出し、自ら剣を携えて親征に赴きたくて仕方がなかったのだ。
「陛下、なりません。絶対に不許可でございます」 「……そうです、陛下。どれほど書類が山を成していようと、逃げることは許されません」
司徒マグナス・クレインと、その息子である尚書令ハリス・クレインの二人に退路を完全に断たれ、皇帝の親征の野望は潰えた。あまりに決済書類がつもりにつもった結果、本来の執務手順すら無視され、内密にリゼリアとセシリアの二人まで駆り出されて代筆や整理を手伝わされるという有様であった。
皇帝の執務効率がここまで悪化した原因の一端は、孫娘であるシェルランテの不在にもあった。 生後数ヶ月の頃、皇帝が安易に発した一言—— 「シンシア。シェルランテをずっと抱っこしていて重くないか?」 この言葉を、幼いシェルランテは「自分が太って重いと思われている」と悲しく誤解してしまったのだ。以来、執務室への愛らしい訪問は途絶えてしまっていた。 ちなみに、現在1歳2ヶ月となったシェルランテの小さな御体は、大好物の牛乳飴を食べ過ぎた影響で、丸々と愛らしく実った「肉の塊」のような福々しさを見せているのだが、皇帝がその愛くるしさに目尻を下げて癒やされる機会は焦れったくも奪われたままであった。
出立の直前、皇帝イリアードは皇太子リアム、大将軍バルドゥイン、ハリス、そして準備に骨を折った太尉レイナルドへとそれぞれ労いの声をかけた。 「……頼んだぞ、リアム。バルドゥイン、ハリス、皇太子を支えよ。レイナルド、大義であった」 威厳に満ちた声ではあったが、自らが行けない悔しさがにじみ出ており、どこか心がこもっていないのは誰の目にも明らかであった。リアムたちは苦笑いを噛み殺しながら、深々と頭を下げた。
こうして、陸路にて片道二ヶ月を要する最南端イメイルへの討伐軍は、ついに白亜宮を後にした。アスクアルブに到着してから、さらに南下すること二週間である。果てしない行軍が始まる。
――城壁の上。 まだ冬の寒さが色濃く残る帝都オクタヴィアの空の下、シンシアはココロギを伴い、冷たい風に羽織をなびかせながら佇んでいた。
「いってしまわれましたね、シンシア様」 ココロギが静かに呟く。
城壁の彼方、地平線へと向かって伸びる街道を、5万の兵がゆっくりと蠢いていた。鎧の金属擦れる音や旗のたなびきは遠く届かないが、凍てついた大地の上を黒い点がどこまでも、どこまでも連なって伸びている。
「ええ……。どうか無事で」
シンシアは、黒い龍のように地平線へと吸い込まれていく行軍を見つめながら、静かに胸の前で手を組んだ。去りゆく軍勢の背後で、冷たい冬の雲間から一筋の陽光が差し込み、白亜宮の尖塔と遠くの列を静かに照らし出していた。




