『春宮の暴君と甘い悪事』
霜降りる十一月、春宮を包む空気は澄み渡り、庭園の木々が色づく季節を迎えていた。
皇女シンシアが宮殿内を練り歩き始めてから、すでに幾日が過ぎただろうか。いまや宮廷の隅々に至るまで、彼女の麗しい姿を目にしたことがない者など存在しなかった。教団の分厚い聖書を一字一句違わず丸暗記してしまうほどの才気を持つシンシアは、すれ違う宮女や宦官たちの名前はもちろん、その出身地や悲喜こもごもの生い立ちに至るまで完璧に記憶してみせ、宮中の人々を幾度となく驚嘆させていた。
そんな聡明な皇女が日課のように入り浸っているのが、皇太子妃シルヴィアと、生後十ヶ月を迎えた幼きシェルランテが暮らす春宮であった。
後宮は本来、百二十人もの后妃を迎え入れられるほどに広大であったが、いま現在暮らしている后妃はわずか四名。敷地に遊ぶ「四つ葉堂」のうさぎの数よりも少ないという有様である。それもそのはず、皇帝イリアードは余計な側室を増やさぬことに無駄な情熱を注いでおり、皇太子リアムにいたっては、愛想を尽かされた妃のシルヴィアから嫌われた報いとして、ただひたすらに自重を余儀なくされていたからだ。「いつの日か彼女の怒りが解け、以前のような睦まじい関係に戻れれば……」とリアムは仄かな期待を抱いていたが、当のシルヴィアはどこ吹く風。年末には新たな命の出産を控えており、身勝手な夫を構っている余裕など微塵もなかった。
六歳の年の差こそあれど、シンシアとシルヴィアは従姉妹同士。互いに身分上の不必要な遠慮を払いにできる貴重な存在であり、いまや義理の姉妹として毎日顔を合わせても飽きることのない、穏やかで温かい友情で結ばれていた。
「おや、シンシア様。今日もお早いお着きですね」
ふっくらとお腹の大きくなったシルヴィアが、柔らかな絹のドレスの裾を揺らしながら、穏やかな笑みを浮かべて出迎える。
「シルヴィア義姉様、お体を労わらねばなりませんのに。……ええ、もちろん来ますとも。ここに私の可愛い姪がおりますから」
シンシアが愛おしそうに視線を落とした先には、すくすくと育ちすぎた姪、シェルランテの姿があった。生後十ヶ月とは思えぬその体格はあまりに立派で、幼子らしい愛くるしい足取りというよりは、まるで土俵に上がる力士のごとくドタドタと豪快に床を鳴らして歩く。そして、勢い余って誰かの足元に体当たりしては前進を終えるのだ。直撃を受けた者は、なかなかの衝撃を覚悟しなければならない。
(クリスタルロッドの『空斬水鏡』で心地よい向かい風でも送って立ち止めさせてみようかしら……)
一瞬そんな悪戯心が頭をよぎるシンシアであったが、すぐさま首を横に振った。もしも不機嫌にさせてしまえば、白亜宮全体を吹き飛ばしかねない絶大な異能を秘めた幼子である。下手に冷やかすわけにはいかなかった。
シェルランテがこれほどまでに重量感を増している原因は、明確であった。ココロギの作った特製の牛乳飴の食べ過ぎである。
「シェルランテ、また飴を口に含んでいますね? 妊婦のシルヴィア義姉様があなたを抱き上げたら、そのまま流産してしまいますよ」
シンシアが少し眉をひそめて諭すと、シェルランテは一瞬だけ丸い目をかっと見開き、罪悪感に満ちた表情でうつむいた。本人なりに食べ過ぎを後悔し、反省はしているようである。……しかし、その手はしっかりと次の飴の包みを握りしめて離さない。幼き欲望の魅力には勝てないようだった。
それもそのはず、仕掛け人であるココロギが悪びれもせず、どこか意地悪で楽しげな笑みを浮かべて新商品を差し出してくるのだから。
「ふふ、シンシア様。本日は新たに『イチゴミルク味』と『オレンジミルク味』をご用意いたしましたよ。幼少期の味覚の発達には、多彩な刺激が必要でございますから」
甘い香りを漂わせる色鮮やかな飴を前に、シェルランテの瞳がキラキラと輝きを取り戻す。
「まあ……ココロギったら、本当に悪いお方」
クスクスと胸を揺らして笑うシンシアは、甘い誘惑で幼子を翻弄するココロギの姿を観察しながら、脳内で静かに妄想を膨らませていた。
(ふふ……題して『邪悪な司祭の恐ろしい悪事』。甘い毒飴で幼き姫君を骨抜きにし、宮殿を裏から支配しようと企む暗黒の物語……うん、なかなか面白い筋書きになりそうだわ)
初冬の柔らかな陽光が射し込む春宮。小さな嵐のような姪の足音と、穏やかな妊婦の微笑み、そして邪悪な巫女の甘い企みが交錯するその部屋は、寒さを忘れるほどの温もりと賑やかさに満ちあふれていた。




