『紫の夜と月光の刃』
十月の夜風は冷たく、静まり返った後宮の廊下に吹き抜けていた。
自室のベッドに横たわりながら、皇女シンシアは天井の暗がりをじっと見つめていた。胸の奥を焦りとも不安ともつかぬ冷や汗が撫でていく。寝返りを打っても、重く沈んだ胸騒ぎは消えてくれない。
——夕食の折、母であり皇后であるリゼリアが漏らした一言が、どうしても頭から離れなかったのだ。
『今夜は……どうしたことでしょう。胸がざわついて落ち着きませんの』
優美な磁器のティーカップを置く母の細い指先が、かすかに震えていたのをシンシアは見逃さなかった。母の予知にも似た直感は、これまで何度も帝国の危機を知らせてきた。
そのとき、薄絹の帳を透かして差し込んでいた清廉な月光が、にわかに変色した。
淡い銀色だった光線が、濁った妖しい赤紫色へと染まっていく。
「……ッ!」
シンシアは跳ね起きると、枕元に置いていたクリスタルロッド『空斬水鏡』を手にした。透き通る結晶の奥で、蒼い水光が静かに脈動している。
窓辺へ駆け寄り、夜空を見上げた彼女は息をのんだ。
天を覆うのは、まがまがしく揺らめく赤紫色のオーロラ。星々は闇に呑まれ、不気味な光芒が帝都を舐めるように照らしていた。
「水明宮……!」
シンシアの脳裏に、ココロギの言葉が鮮烈に蘇る。 ——『秘密結社黒山羊』が真に狙っているのは、彼らの脅威である貴妃セシリア様です——。
度重なる不可解な襲撃。そのすべての渦中にいたのはセシリアだった。
「セシリア様、どうか無事で……!」
シンシアはドレスの裾を翻し、夜の廊下へと飛び出した。シルクの靴底が廊下を叩く音だけが、静寂を破って響き渡る。彼女は風を纏い、全力で水明宮へと疾走した。
◇
一方、四つ葉堂の静寂の中で、ココロギは冷や汗を額に浮かべていた。
「……なぜ?くっ……!」
手にした錫杖の柄を固く握りしめ、歯噛みする。七月に発生した紫の結界は、ひとたび念を込めれば薄氷のように容易く打ち砕くことができた。しかし今、目の前の空気を覆う粘質な気配は、彼女の放つ念力をあざ笑うかのように弾き返していたのだ。
動揺が波紋のように広がる。
(この硬度……いや、性質そのものが変わっているの……!?)
焦りを押し殺し、もう一度渾身の念を錫杖へ注ぎ込もうと息を整えた——まさにその瞬間。
ゴロゴロゴロゴロ!!
春宮の方向から、天地を揺るがすような落雷の轟音が響き渡った。直後、天を突くまばゆい光の帯が夜空を切り裂く。
「シェルランテ様……!」
ココロギは目を見開いた。彼女が結界の核を破壊してくれたのだ。
かつて二度の結界破壊では、まるで繊細な薄ガラスが「パリン」と儚く砕け散るような音がした。だが今回は違った。粘着性のある禍々しい液体に、極上の石鹸水を垂らしたかのように、紫の膜がどろりと溶解し、消えてゆくようである。
(観察している暇はない……!)
結界が霧散した一瞬の隙を逃さず、ココロギは空間転移する。
彼女の姿は揺らめく光の粒子となり、水明宮の庭園へと姿を消した。
◇
水明宮の庭園は、すでに地獄の相を呈していた。
「ハッ……く……っ!」
貴妃セシリアは、荒い息を吐きながら美しくもしなやかな肢体を躍らせていた。しかし、その表情にいつもの不敵な余裕はない。
彼女を取り囲んでいるのは、正気を失い、瞳を濁らせた無数の帝国兵士たち。彼らの全身からは、粘着質な紫の怨気が立ち上っていた。
先の「クリスタルヘイム」での戦いでは圧倒的な力を見せつけたセシリアだったが、今夜は極めて不利な状況に追い込まれていた。兵士たちの前方に強固な結界障壁が展張されており、前回使用した『空間転移で敵を遠方へ飛ばす』がことごとく遮断されていたのだ。転移が使えぬ以上、力ずくで群がる大軍を相手にするしかない。すでに彼女の絢爛なドレスは切り裂かれ、白皙の肌には痛々しい朱の筋が幾本も走っていた。
「セシリア様——ッ!」
凛とした叫びとともに、空間が歪み、シンシアとココロギが疾風のごとく参戦した。
「背後からの空間転移なら通るはずです!」 ココロギが短く叫び、錫杖を振るう。
シャリン、シャリン——
涼やかな澄んだ金属音が夜気に響くたび、セシリアに襲いかからんとしていた兵士たちが次々と空間の歪みに呑まれ、消去されていく。
だが、敵の数が多すぎる。次から次へと溢れ出す紫の兵士たちに、セシリアの体力が限界に近づいていた。
「セシリア様を助けないと!」
シンシアは『空斬水鏡』を固く握りしめ、しなやかな動作で大空を薙いだ。クリスタルの錫杖から放たれた無数の真空刃が、不可視の嵐となって敵陣を切り裂いていく。
しかし、その背後——。
音もなく忍び寄る禍々しい気配に、シンシアの背筋が凍りついた。
振り返ると、全身に狂おしい紫のオーラを揺らめかせた貴族風の男が、歪んだ笑みを浮かべて剣を構えていた。その瞳には獰猛な殺意が宿っている。
「前回の戦いでは、あの女にえらい目に遭わされましてねぇ……。復讐のために這い戻ってきましたよ、可愛らしい皇女様」
男は舐めるようにシンシアを見つめ、せせら笑った。
「まずは貴女から……血祭りにあげて差し上げましょうかねぇ!」
男は地を蹴り、驚異的な踏み込みでシンシアへ突進した——はずだった。
「……え?」
男の顔から笑みが消えた。 どれほど脚に力を込めようとも、体が前進しない。まるで底なしの泥沼の中を這っているかのように、その動きは滑稽なほど緩慢になっていた。
シンシアの持つ『空斬水鏡』の先端から、目に見えるほどの凄まじい向かい風が爆風となって叩きつけられていたのだ。
「ぐっ……! なんて風だ。す、進まん……!?」
男は顔を歪め、青筋を立てて強風に立ち向かおうと躍起になった。かつてセシリアによって極寒の北極点へ叩き飛ばされた屈辱と怨念が、彼を泥臭く前へ押し動かそうとする。どれほど激しい暴風を受けようとも、執念でシンシアの喉元へ届こうと足掻く。
その必死で不気味な形相がじわじわと迫ってくる恐怖に、シンシアの忍耐は限界を迎えた。
「嫌ッ! 来ないで……っ、あっち行ってえぇぇッ!!」
半ばパニックになった皇女の叫びとともに、『空斬水鏡』から解き放たれた風は絶大な暴風へと変貌した。
「がぁぁぁぁぁッ!?」
男の体はあっけなく宙を舞い、後方へと猛烈な勢いで吹き飛ばされていった。
そこへ、重厚な甲冑の音を響かせて皇帝イリアードと皇太子リアムが駆けつける。
◇
皇帝たちの到着を確認したシンシアは、すぐさまセシリアの救助へと転じた。
ココロギの念創によって作られた錫杖『空斬水鏡』。近接戦を一切必要とせず、間合いの外から敵を断ち切るその威力を、シンシアは遺憾なく発揮する。
「はぁぁッ!」
大きく振り抜かれたクリスタルロッド。生じた巨大な竜巻が、セシリアへ群がっていた兵士の半数を一網打尽にして連れ去った。
退路と視界が開けたことで、セシリアは土壇場で絶望的な劣勢を挽回した。
「よくも……やってくれたわね……っ!」
セシリアは残る敵へ向けて凄まじい攻勢に転じた。しかし、いつもの華麗で無傷な立ち回りとは程遠く、全身傷だらけである。最後の敵をその手で叩き伏せた瞬間、疲労困憊に達した貴妃は糸が切れた人形のように両膝を折り、冷たい石畳の上へと崩れ落ちた。
「セシリア様!」
シンシアとココロギが素早く駆け寄り、抱き起こす。
ココロギはすぐさま深く息を吸い、掌を彼女の傷口にかざした。温かな白い念の光がセシリアの体を包み込み、痛々しい傷を急速に癒やしていく。
すると、青ざめていたセシリアがうっすらと目を開け、かすれた声で呟いた。
「……せっかく念を使って治してくれるなら、ついでに……美肌にしてちょうだい……」
死線から生還したばかりとは思えないおねだりに、ココロギは、破顔して深く首を垂れた。
「かしこまりました。……10歳ほど若返る特別仕上げにしておきますね!」
軽妙なやり取りが交わされる中、セシリアの頬にみるみるうちに赤みが差し、規則正しい呼吸が戻ってきた。傷跡が消え去った肌は、もとからの美貌ゆえか、はたまたココロギの念の妙技によるものか、年齢を疑うほどの圧倒的な透明感と艶やかさを取り戻していた。
「セシリア、大丈夫か!」
そこへ、先ほど吹き飛ばされた紫オーラの男にとどめを刺してきた皇帝イリアードが息を切らせて駆けつけてきた。男は皇帝の威厳あふれる一撃の前に、大した見せ場もないまま息絶えたようだった。
月を見上げれば、禍々しい赤紫のオーロラは次第に薄れ、澄んだ銀の月光が再び水明宮を優しく照らし始めていた。
戦いの終わりを告げる静かな夜空の下、安堵したシンシアの口元に、小さな微笑みが浮かんでいた。




