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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『月の光纏いし風の妖精』
251/287

『水鏡宮の陽だまりと小さな暴君』

秋の気配が少しずつ深まる九月。黄金色の陽光が柔らかに木々を照らす、水鏡宮の離れ庭。涼やかな初秋の風が金木犀の仄かな香りと葉擦れの音を運んでくる静寂のなか、皇女シンシアは豪快に腕組みをし、仁王立ちとなっていた。その繊細な眉根には、並々ならぬ緊張と意気込みが刻まれている。

シンシアの視線の先には、この日、彼女が生まれて初めてその秘めたる力『念創』を限界まで注ぎ込んで完成させた、一台の品が鎮座していた。割竹のしなやかな弾力を巧みに組み込んだ懸架構造、走行時の振動を極限まで抑える設計。そして三層に渡り海綿が惜しげもなく巻きつけられた車輪は、磨き抜かれた石畳の上ですら音もなく滑るはずであった。そう、念創の技術を結集させた至高の『乳母車』である。

凛とした佇まいでたたずむシンシアは、じっとその空の座席を見つめながら、心の中で秒数を刻んでいた。

「……来るのか? 来るぞ? それとも、来ないのか?」

小声で呟いたその瞬間――空間が微かに歪み、甘い風の匂いが爆ぜた。

「ポンッ!」

軽快な音とともに空間が弾け、乳母車のふかふかとしたクッションの上に、ぽつんと小さな影が現れた。寸分の狂いもなく、完璧に収まったのは、彼女の姪であり、生後九ヶ月になる皇孫女シェルランテであった。

「来たーっ!」

シンシアは心の中で歓声を上げると同時に、電光石火の手つきで懐から一本の棒状の菓子を取り出した。異能の協力者であり、四つ葉堂の巫女、ココロギ特製の『牛乳飴』である。シンシアは、姪が状況を把握して口を開くよりも早く、その乳白色の飴をシェルランテの口元へすべり込ませた。

ちゅぱ、と可愛らしい音が響く。

近ごろのシェルランテは、愛くるしい赤ん坊の姿とは裏腹に、手に負えないほど凶暴化していた。一度機嫌を損ねれば、幼子とは思えぬ異能の念を放ち、周囲の品々をあっという間に粉砕する破壊活動へと奔走するのだ。

だが周囲の者たちは知る由もない。シェルランテが実は自らの秘められた異能によって成長速度を極限まで早めており、その肉体的な歪みに苦しんでいることを。実態を知らない宮中の者たちは、ただただ「まあ、なんと丸々と健やかに育たれたジャイアントベイビーなこと」と噂し、彼女を「ただのデブ」だと大真面目に勘違いしていたのである。

多感で自尊心の高いシェルランテにとって、その誤解は耐えがたい屈辱であった。先日も、祖父である皇帝イリアードのふとした一言を「太っている」と咎められたのだと猛烈に勘違いし、激怒のあまり執務室の高級な調度品を念力で壊滅させたばかりである。自らの成長の反動によるイライラを周囲へ散々八つ当たりしているのだから、被害に遭った臣下や従者たちにとっては災難以外の何物でもなかった。


◇

一方、叔母であるシンシアはというと、教団から『真光の巫女(ルークス・ヴェリタス)』という最高峰の称号を賜っていた。その高貴なる身分を公には明かしていないものの、日頃の温かな庇護への感謝を伝えようと、後宮内での慈善活動に精を出していた。

最初は水鏡宮に仕える女官や宦官たちから始まり、やがては宮内の様々な部署へと足を運ぶようになった。シンシアは自らの念創によって作り出した利便性の高い日常の品々を携え、温かな声かけとともに一人ひとりに手渡して歩いたのだった。

宮中の多くの者にとって「シンシア皇女」の名は周知の事実であったが、実際にその姿を目にした者はほとんどいなかった。長らく離れに引きこもっていたことが災いし、「きっと外に出られないほど酷い容姿をしているに違いない」などと心ない噂が真ことしやかに囁かれていたのだ。

しかし、実際に現れた皇女の姿を目にした者は、誰もが言葉を失い、息をのんだ。母である皇后リゼリアの面影を色濃く残す、どこか神秘的で妖精を思わせる儚くも浮世離れした美貌。シンシアから澄んだ瞳で見つめられ、優しく微笑みかけられた者は、胸を打ち抜かれたようにドギマギと赤面し、立ち尽くすばかりであった。

こうしてシンシアの不名誉な噂は見事に払拭されたのだが……その傍らで、抱っこされたり連れ回されたりしていた皇孫女シェルランテの「ふくよかな赤ん坊」というイメージばかりが益々加速して広まっていったのは、なんとも皮肉で哀しい話であった。


◇

連日の連れ回しと「可愛いおデブちゃん」扱いされる視線に耐えかね、ついにシンシアの慈善活動に同行するのを拒み始めたシェルランテ。そんな姪をどうにか繋ぎ止め、快適に連れ歩くためにシンシアが試行錯誤の末に生み出したのが、この極上の乳母車であった。

澄み渡る九月の空の下、シンシアは覗き込むようにして乳母車の中へと顔を寄せた。

そこには、ふかふかのクッションに深々と身を沈め、ふてぶてしくもどこか尊大な表情でちゅうちゅうと牛乳飴をしゃぶり続ける幼き姪の姿があった。揺れひとつない極上の乗り心地と甘みにおさまったのか、今のところ凶暴な念を放つ気配はない。

静かに飴を味わう姪の太々しい横顔を見つめながら、シンシアの脳裏にふと素朴な疑問が湧き上がってきた。

(……待って。もしかして、この子供をここまで凶暴に甘やかし、ワガママに育て上げている諸悪の根源って、この美味すぎる牛乳飴なんじゃないかしら?)

あんなにも聖女のように清らかで微笑みを絶やさないココロギ。しかし、こんな中毒性の高い棒飴を作り出して幼子を懐柔しているあたり、実は相当に悪魔的な思考の持ち主なのではないだろうか――。

九月の爽やかな秋風に髪を揺らせながら、そんな愉快な想像が頭を駆け巡り、シンシアは思わず口元を押さえ、くすくすと一人楽しそうに笑うのであった。

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