『水鏡の贈り物』
西の空が茜色から柔らかな葡萄色へと移ろいゆく夕暮れ時、静寂に包まれた四つ葉堂に穏やかな光が差し込んでいた。敷地内に広がる小さなクローバー畑では、愛らしい兎たちがひそやかに耳を澄ませている。しばらく不在にしていた主人の気配を感じ取り、「ああ、やっと帰ってきたのだ」とほっと胸を撫でおろすように、今夜の温もりある寝床を思案し始めていた。
クリスタルヘイムからの空間転移を終え、地に足をつけた二つの影。一息ついた静寂の中、ココロギはそっと口を開いた。
「実は殿下に、お渡ししたい贈り物があるのです」
彼女は祭壇へと歩み寄ると、大切に祀られていた布包みを持ち上げた。慎重に結び目を解くと、シャリン——と、涼やかで小気味よい金属の音が静寂の空間に響き渡る。幾重にも重なった布の奥から姿を現したのは、まるで澄み切った水滴をそのまま固めたかのような水晶の棒に、繊細で美しい銀細工が施された意匠通りの錫杖であった。
「クリスタルロッド『空斬水鏡』と名付けました。姿形こそ似ても似つきませんが、その内に秘めた本質は、皇太子殿下の『聖剣アウレリアス』を模倣しております。どのような霊力や作用が眠っているのか、その全てを把握できているわけではありません。ですが……何か聖なるものの加護にあやかった品を、どうしても殿下にお贈りしたかったのです」
ココロギが手にしたロッドにそっと意識を集中させると、ロッドは静かに蒼白い光を帯び始めた。その光はまるで、静寂に眠る湖面が、澄んだ月光を柔らかく照り返しているかのごとく美しく、神聖な気品を漂わせている。
「『空斬水鏡』……」
シンシアも惹きつけられるようにそっと言葉を口にし、自らの念をロッドへと注ぎ込んでみた。すると驚くべきことに、彼女の手に渡ったロッドもまた、優美な蒼白い輝きを放ち始めたのだった。
感動を覚えたシンシアは、何気なく庭へ出て、ロッドを軽やかに一振りしてみた。——シューッ!と空気を鋭く引き裂く澄んだ音が響き渡り、視線の遥か先にある大木の枝が、一瞬にして綺麗に切り落とされた。
「あ……っ」
生まれて初めて皇宮内の庭木を損壊してしまったことにシンシアは息を呑み、動揺を隠せないまま顔を強張らせてココロギを見つめた。ココロギもまた、わずかな振りで遠くの枝を容易く裁断する「不可視の空気の刃」が発生した瞬間を目撃し、目を丸くして立ち尽くしていた。
製作者自身すらその全貌を把握しきれていないというのはいささか問題ではあるが、極めて強力で危険な秘宝が生み出されたことだけは確かであった。これでシンシアが身を守る術を得たのは心強いものの、一歩間違えれば見えざる刃が自身に向かいかねないという怖さもある。どうやら込める念の強弱や質によって、巻き起こる風や刃の鋭さを調整できるようであった。
シンシアは何度か慎重に試すうちに、その感覚を少しずつ掴み取っていった。凛とした眼差しでロッドを見つめ、心を込めて感謝を伝える。
「ココロギ、本当にありがとう。この『空斬水鏡』、私は生涯大切にします」
深々と礼を述べたシンシアは、温かな余韻を残したままココロギと別れ、愛着のある四つ葉堂をあとにした。
◇
水鏡宮へ辿り着いたのは、太陽が地平線の彼方へ溶けていく間際、まさに日没ギリギリの時刻であった。シンシアは授かったクリスタルロッドを自身の離れへと大切に保管すると、胸の高鳴りを抑えきれない様子で、母・リゼリアの待つ部屋へと急ぎ足で向かった。
「お母さん! ただいまー!!」
実はこれこそ、シンシアがずっと口にしてみたいと憧れていた言葉であった。ココロギが無邪気に母を呼ぶ姿の真似をして、心を躍らせて飛び込んでいったのだ。
突然の愛くるしい呼びかけに、リゼリアは目を見開き、驚きに立ち尽くした。しかし、今でこそ一国の気高き皇后として威厳ある佇まいを見せているリゼリアではあるが、幼少期は湿地帯アルヴェリアの穏やかな自然の中で、一人の庶民として伸びやかに暮らしていた過去があった。娘の発した親しみに満ちた一言は、リゼリアの胸の奥に眠る懐かしい記憶を呼び覚まし、心地よい高揚感をもたらしたのだった。
シンシアは何の迷いもなく、母の豊かな胸へと飛び込んだ。リゼリアにとって、成長した娘からこれほど強く抱きしめられるのは初めてのことであった。最初は思いがけない情愛の深さに困惑したものの、すぐにじんわりと広がる甘美な母性の喜びに満たされ、愛しい娘の華奢な体を温かく抱き返した。
しばらくの間、二人だけの愛おしい時間が流れ、胸の興奮と感動が静かに落ち着いてきた頃——リゼリアはどこか懐かしくも強い、潮の香りが漂っていることに気がついた。
「シンシア。なんだか磯の匂いが漂ってきますけれど、どうされたのですか?」
「あ……ふふ、すみませんお母様。実はこれ、お土産なんです。どうしてもお母様に喜んでいただきたくて」
シンシアが丁寧に包まれた布から取り出したのは、島国であるゲンドラス教国特産の、海の恵みを凝縮させた海産物の乾物であった。
皇女が持ち帰る贈り物としては、あまりにも素朴で異色な品である。けれどシンシアは、煌びやかな金銀財宝や豪庶な服飾を選ぶことはしなかった。飾り気のない、素朴で泥臭いほどの心からの愛と親愛を込めて、この品を選び抜いたのであった。
それを見た皇后の瞳が、歓喜の光で輝いた。かつて幼き日、貧しくも温かかった暮らしの中で、「食べてみたい」と母にねだったあの懐かしい品々そのものであったのだ。大運河と大河アシュロンが交差する小さな港町で手に入るのは、精々川魚の乾物くらいのものであり、濃厚で味わい深い海産物の乾物は、内陸部においては非常に高価で滅多に口にできない高級品であったのだから。
「ちょうど夕飯の刻限ですもの。これもお母様と一緒にいただきましょう?」
楽しそうに微笑む娘の姿を見つめながら、リゼリアは胸の奥底から込み上げる、かけがえのない「母親」としての幸せを、じっくりと噛み締めるのであった。




