『野花咲く丘の食卓』
澄み渡る空気のなか、聖都クリスタルヘイムの後宮には、他の王宮が纏うような愛憎や権力闘争の陰りは一切存在しない。
そこはただ、美しい庭園を穏やかに囲む住まう者たちの邸宅群であった。『祭事は豪華で華やかに、私生活は質素倹約で慎ましくあれ』——その教団の教えを静かに映し出すように、小綺麗でいて飾り気のない慎ましい居館が、木漏れ日の中に優しく佇んでいた。
「やっぱり、四つ葉堂は建て変えた方が良いのでしょうか……?」
ココロギは、母親の待つ家へとシンシアを案内しながら、ふと迷いを滲ませて呟いた。 四つ葉堂は、素朴で飾り気のない、つつましい小さな礼拝堂だ。己のありのままを投影するあまり、信仰を捧げる人々の目線を置き去りにしてしまっているのではないか、と胸を痛めていたのだ。
シンシアは、胸がすくような温かな笑顔を向けて答えた。
「私は、あの四つ葉堂が大好きですわ。四つ葉堂とココロギがいてくれたからこそ、私は目覚めることができたのですもの」
その言葉に安らぎを得たように、ココロギは言葉を続けた。
「考えてみたら、教団の聖堂はすべてルシア様が建てられたものですから、それ以降に建てられたのはあの四つ葉堂だけなのですね。アンチアルマや、最南のイメイルにも建てていただけるようにお願いした方が良いかもしれません」 「イメイル……。紅茶と大理石の名産地として耳にする場所ですね」 「ええ。アンチアルマからさらに南へ、陸路で二週間もかかるのだそうです。そんな遠くから大理石を運んでくるなんて、本当に大変なことですよね……あ! つきました、この家です!」
ココロギは幼子のように少し声を弾ませると、シンシアを玄関の奥へと招き入れた。
「お母さん! ただいまー!」
たったその一言に、シンシアの息が止まった。 初めて耳にする、飾らない帰宅の言葉。王侯貴族の厳格な世界しか知らぬ彼女にとって、それはどこか胸の奥をじんわりと温める、魔法のような響きを持っていた。
「お帰り! ココロギ、待っていたのよ」
愛おしそうに交わされる、母と娘の強い抱擁。 それを見つめるシンシアの心に、淡い羨望が広がる。どうしてこれほど愛おしい振る舞いを、自分は今まで出来ずにいたのだろう。遠慮など捨て、心のままにその温もりに飛び込めばよかったのだ。
呆然と立ち尽くすシンシアに気づき、ココロギは振り返って誇らしげに母親へ紹介した。
「母さん、皇女殿下のシンシア様です」 「初めまして。ようこそお越しくださいました、アマンダ・サラレと申します。どうぞ、奥へお入りください」 「シンシアと申します。お邪魔いたします」
礼を述べるシンシアに、アマンダは優しく目を細めた。
「実は私も、シンシア様とは遠い親戚にあたりますのよ。ココロギが生まれた頃は、ルミナリア・リヴィエール家でお世話になっておりましたから」
思いがけない言葉に、シンシアは驚きで目を丸くしてココロギを見つめた。ココロギは楽しそうに首をかしげる。
「私の母とセシリア様が又従姉妹で、皇帝陛下と皇后陛下とセシリア様が従姉妹同士ですから……殿下と私は、又従姉妹の従姉妹になるのでしょうか? ふふ、説明が難しいですね」
コロコロと咲くように笑うココロギに釣られ、シンシアも思わず笑みをこぼした。 視線の先には、いつも温かな光を纏う母アマンダの姿がある。ココロギという少女の源流がここにあるのだと、シンシアは深く納得した。アマンダが燦々と降り注ぐ太陽ならば、ココロギはその光を浴びて生き生きと枝葉を広げる大木だ。誰もが休まりに集う、愛おしい大木。
ふと、シンシアの脳裏に『神託の聖母』エミーナの言葉がよみがえる。
——『子の役割とは、親に自我への満足を与えること』——
ココロギは無意識のうちに、それを完璧に果たしていた。母を喜ばせ、共に喜び、心から感謝し、時には素直に甘える。その愛の循環こそが、親に真の幸福をもたらすのだと、二人の姿が如実に物語っていた。
「さあ、そろそろお食事にしましょう! いっぱい作って待っていたのよ。ココロギ、手伝って頂戴」 「はーい! 殿下、ここでお待ちくださいね。すぐに準備しますから!」
通された部屋でシンシアが一人佇んでいると、やがて卓上には色鮮やかで魅力的な料理の数々が次々と運び込まれていった。
いつもの格調高く澄ました宮廷の食卓が「整然と鉢植えの花が並ぶ花壇」だとするならば、アマンダの手料理が彩るこの食卓は、まるで「野花が豪快に咲き誇る豊かな丘」のようだった。
鮮やかなサーモンとタコのカルパッチョ。 夏野菜とチキンの芳醇なトマト煮込み。 みずみずしい彩り野菜とチーズのサラダに、優しく香る緑豆のスープ。
豊かな香りが部屋いっぱいに満ちていく。
「わぁあ、美味しそう! 殿下、召し上がりましょう! お母さんの作る料理は、本当に世界一美味しいんですよ!」
弾む声とともに差し出された温もりあふれる食卓を前に、シンシアは深く、あたたかな幸福感に包まれていた。




