オーレリア外伝『六棘の霜華』その10
帝国歴321年。
初夏の涼しげな風が、ルシア宮の回廊を静かに吹き抜けていく。新緑の葉が優しく揺れる中、ルシアの胸中には、ぬぐい去れぬ確固たる決意と、わずかな迷いが渦巻いていた。
目的はひとつ――南海に燦然と輝く大国、ディヌイヤ王国へと再び赴くこと。そして、11年ぶりに相見る国王ボロ・ディヌイヤとの間で、来春に海路からアルストラーナ帝国へ侵攻してもらうための密約を結び付けることだった。
先日、ルシアは激動の果てにガザルカガンドへと突入し、グラッデェの覇王エスゲイ・バールを討ち果たして来たばかりであった。後継者となったベグ・バールに対しては「オーレリアで待っている」と言い残してあり、来春には彼らが大軍を率いてオーレリアへ押し寄せてくる手筈がすでに整っている。
陸からの圧力を確実なものとし、東西挟撃の完璧な包囲網を完成させるためには、どうしても南海の雄・ディヌイヤの海軍力が不可欠であったのだ。
だが、その実現にはいくつもの入り組んだ課題が横たわっていた。今回の交涉は、形式としては非公式でありながらも、両国の運命を左右する絶対的な威厳を持った「公式な密約」でなければならない。今のルシアの異能をもってすれば、瞬間移動でディヌイヤの王宮へ跳ぶことも容易かった。しかし、一国の使節としての筋道を通し、覇王ボロに対して誠意と威厳を示すには、堂々と船で海を渡り、正式な礼を尽くすことこそが筋であった。
そして何より、旅立つための最も重要な大前提が存在していた。家出や原因不明の失踪などという不誠実な形で城を去れば、周囲にあらぬ混乱を生み、下手をすれば国家間の不要な火種にもなりかねない。筋道立てて事の次第を説明し、正当な理解と許可を得なければならなかった。
ルシアは今回、少しの躊躇もなく、母セシリアのもとへと足を向けた。先日、自身の秘密めいた不審な行動が重なったことで、母の心を深く傷つけ、悲しませてしまった苦い記憶が、今も胸の奥に強い痛みとなって残っていたからだ。二度と愛する母に嘘を重ね、涙を流させるわけにはいかなかった。
◇
静謐な室内に、ルシアの澄んだ声だけが低く響いていた。
来春の情勢、アルストラーナ帝国の動向、ディヌイヤ国王ボロとの11年前の因縁、そして今回の密約がもたらす完璧な戦略的価値――ルシアは隠し立てすることなく、自らの背負うすべての事情と打算を、ひとつひとつ丁寧に打ち明けていった。
母セシリアは、途中で口を挟むことなく、ただ静かに娘の言葉に耳を傾けていた。その柔らかな眼差しは深く、15歳にして世界の命運を動かそうとする娘の重圧と決意のすべてを、温かく包み込んでいるかのようだった。
ルシアがすべての説明を終え、室内に静かな緊張感が漂った時、セシリアはふっと温かな息を吐き、静かに唇を開いた。
「……ふたりで、ルミナリアへ行くことにしましょう」
思いも寄らぬ母の発案に、ルシアは驚きでパチパチと目を見開いた。セシリアは穏やかな笑みを崩さぬまま、言葉を続ける。
「その上で、あなたはルミナリアからディヌイヤへ向かいなさい。殿下には、あなたからお願いするのです。『どうしてもお母様とルミナリアに行きたいのですが、お許しいただけますか?』とね」
完璧な隠れ蓑だった。母との静養旅行という完璧な大義名分があれば、表向きの筋は通り、誰一人として怪しむ者はいない。母の深い慈愛と聡明さに触れ、ルシアの顔にぱっと華やかな歓喜の彩りが広がった。
「わかりました! お母様、ありがとう……! 大好き!」
ルシアは堪えきれず、幼い頃のようにセシリアの胸へと勢いよく飛び込み、その華奢な体をぎゅっと目一杯に抱きしめた。セシリアもまた、成長した娘の背中をやさしく撫でながら、くすくすと嬉しそうに微笑んだ。
「ところで……船はどうするつもりなの?」
体を離したセシリアが、ふと悪戯っぽい光を瞳に宿して尋ねた。ルシアはキュッと胸を張り、ニシシと不敵な笑みを浮かべて答える。
「私の船で行きますわ。エミーナの旦那様にお願いして、軍の物資を南方から調達するという名目で、追加で南海へ派遣させることになっていますの」
「まあ……マクウェン提督もあなたの言いなりなの? 彼も本当に大変ね」
セシリアが呆れたように優しく溜め息をつくと、ルシアは可愛らしく唇を尖らせ、フンと鼻を鳴らした。
「当然ですわ! 私から大好きなエミーナを奪っていったお人ですもの。一生かけて償ってもらわなければ気が済みませんわ!」
娘の変わらぬ調子に、セシリアは楽しそうに声を立てて笑った。しかし最後には、母親らしい慈愛と確固とした厳しさを込めた口調で、しっかりと釘を刺すのを忘れなかった。
「良いわね、ルシア。事が無事に済んだら、必ずルミナリアで合流してから、アクアパレスへ戻りますよ。約束できますね?」
「かしこまりました、お母様。それではさっそく、ルシアはお父様のところへ行って、可愛らしくお願いして参りますわ!」
「ええ。行ってらっしゃい、気をつけてね」
母の温かな眼差しに見送られながら、ルシアは軽やかな足取りで部屋を後にした。その美しく伸びた背中には、もう一片の迷いも翳りも存在しなかった。




