オーレリア外伝『六棘の霜華』その11
南洋を渡る潮風が、大海原を突き進む船の甲板を静かに撫でていた。
アルヴェリア海軍所属、高速戦艦『ブラック・ルシア』である。就役して10年にもなるこの戦艦は、当時4歳だったルシアが父イリアードにおねだりして建造させた船であった。強そうな船として『ブラック・ルシア』と命名したものの、幼女ゆえに「やっぱり色は桃色が可愛い! 塗り替えて!」と言い出し、完成した漆黒の船体をわざわざ桃色に塗り替えたという逸話を持つ。その結果、アルヴェリア水軍の中では「『ブラック』なのに桃色」という、極めて印象に残りやすい艦船となっていた。
「ルシア様、この船……なんだか可愛いですね!」
ヴィオは楽しそうに声を上げるが、お世辞なのか嫌味なのか判別がつかない。
「塗り直そうかしら? 元が黒だから、傷が付いて桃色が剥げたら黒地が目立ってしまうわね」
ルシアは舷縁を撫でながら、思案顔で呟いた。流石に幼女の頃とは感性も変化してきているらしい。
◇
遡ること帝国歴310年。わずか四歳の少女だったルシアは、圧倒的な異能と天真爛漫な我儘で南海を渡り、伝説の王国との国交を開いた。あれから11年——十五歳となったルシアは、再び南洋の大地へと降り立った。
今回の目的は、単なる友好の再確認ではない。来春に海路からアルストラーナ帝国へ侵攻してもらうための、両国の運命を左右する「公式な密約」を結び付けることだった。
母セシリアとの静養旅行という完璧な名目を立て、エミーナの夫であるマクウェン提督の手配で南海へ向かったルシアは、静けさを取り戻した懐かしい赤土と玄武岩の都を進む。向かう先は、あの天を突く三段の石造り宮殿——ディヌイヤ王宮であった。
「お久しぶりですわ、ボロ様」
重厚な鉄木の扉が開かれ、大広間に澄んだ声が響き渡った。
煌びやかな金と巨獣の皮で飾られた玉座に腰掛けていたのは、ディヌイヤを統べる絶対者、国王ボロ・ディヌイヤであった。11年の歳月はその鋼のような筋骨にさらなる重厚さを加え、刻まれた刻印のような皺と鋭い眼光は、まさに南洋の覇王そのものであった。
玉座から立ち上がったボロは、眼前に立つ少女を凝視した。かつて黄金の光を撒き散らし、自分たちを子供のように呆気なく懐柔した「光の幼き姫」は、今や気品と知性を漂わせる美しき将へと成長を遂げていた。
「(……おお、ルシア姫か。我が友にして、神の光を纏いし少女よ)」
ボロの腹の底から響く重厚な声が広間に満ちる。11年ぶりの再会にもかかわらず、ルシアの存在そのものが持つ圧倒的な理の書き換えと変わらぬ気配に、王宮を包む殺気は春の雪解けのようにすーっと消え去っていく。
「(11年ぶりだな。我が王国と帝国との絆は今も絶えてはおらん。だが……今日のその瞳は、ただの挨拶や交易の相談をしに来た眼差しではないな?)」
ボロ王の鋭い観察眼に、ルシアはふっと不敵で優美な笑みを浮かべた。
「ふふん、相変わらずお目が高いですわね、王様」
ルシアは一歩、前へ踏み出した。かつて幼子として見上げた玉座を、今は対等な一国の使節としての凛とした眼差しで見据える。
「単刀直入に申し上げますわ。来春——アルストラーナ帝国への侵攻に、ディヌイヤの全海軍を率いて動いていただきたいのです」
広間を取り巻く近衛兵たちが一瞬息をのんだ。一国の存亡を賭けた軍事侵攻の打診。非公式でありながら、両国の未来を決定づける重い密約の提示であった。
ボロ王は深く玉座に背を預け、思案するように太い顎に手を当てた。
「(……アルストラーナか。あの西の巨魁を相手に回すと? 我が軍を動かすとなれば、我が民の血が流れることになる。11年前、余はお前の『お友達になろう』という愛らしさと豊かな交易に免じて永遠の友と誓った。だが……今回の話は、我が国の運命を賭ける大博打だ)」
王の藍色を帯びた鋭い瞳が、試すようにルシアを射抜く。
「(我がディヌイヤがそれほどの過酷な海を渡るに値する『理由』と『勝算』を、見せてもらおうか)」
その問いに、ルシアは待っていましたとばかりに胸を張った。
「勝算なら、すでに盤の上に揃えておりますわ。先日、ガザルカガンドにてエスゲイ・バールを討ち取りましたの。アルストラーナは全軍でオーレリアに侵攻してくるでしょう。
まさか南部を海から強襲されるとは考えていないでしょうから、無抵抗で彼の国の南部を手に入れることができます」
ルシアの細い指先が、空間に未来の戦術図を描くかのように滑らかに動く。
「そしてディヌイヤが得る果実……それは単なる戦利品にとどまりません。勝利の暁には、南海を経由して東西全てに至る海洋権と、我が帝国が保有する新たな製鉄技術の提供をお約束いたしますわ。ディヌイヤが名実ともに『世界の海の覇者』となる道ですの!」
堂々たる言葉の紡ぎと、その背後から透けて見える緻密な戦略。少女の皮をかぶった絶対の覇者の風格に、ボロ王の唇がゆっくりと吊り上がっていった。
「(……ハッ、ハハハハハ!)」
王宮の天井を揺らすような、豪快な爆笑が湧き起こった。
「(11年経ち、どれほど賢しくなったかと思えば……その果てしない野心と度胸は、あの幼子の頃と何一つ変わっておらんではないか!)」
ボロ王は立ち上がり、大股で階段を下りると、ルシアの眼前にどっしりと立った。
「(良いだろう! 我がディヌイヤの誇り高き戦士と船団は、来春、お前の描く戦場へ向け大海原を埋め尽くそう! 誓いの証に、今宵は11年前を超える最高の宴を開くぞ!)」
「わぁーい! 宴会ですわね!」
瞬時に十五歳の冷徹な策士から天真爛漫な姫君の顔へと戻り、嬉しそうに手を叩くルシア。その完璧なまでの切り替えの早さに、背後に控える護衛たちは密かに胸を撫で下ろすのだった。
11年前、四歳児の我儘から始まった南洋の絆は、11年の時を経て、世界を揺るがす巨大な結託へと昇華した。
眩い南国の太陽が差し込む王宮で、未来の勝利を確信したルシアの笑顔は、誇り高きディヌイヤの王を魅了し、晴れやかに輝いていた。




