オーレリア外伝『六棘の霜華』その9
オーレリア帝国歴321年。 かつて古都アンチアルマを焼き払い、大陸全土を激震させた騎馬民族グラッデェが中央高原へと引き揚げてから、十七年の月日が流れていた。
覇王エスゲイ・バールは自身が中央高原を支配し、嫡子のベグは、文明発祥の地である大秦国の首都ラーナと南半分を統治した。彼らは自らの名を冠した「グラッデェ帝国」を名乗ることをしなかった。それは、永き歴史を誇る大国への敬意と憧れであり、同時に狩猟民族としての歴史に対する抗いがたい劣等感の表れでもある。ベグは自らアルストラーナの皇帝として即位し、征服対象を力で染め上げるのではなく、自らがその文明へと同化する道を選んだ。こうして、かつての大国は実質的な「バール朝アルストラーナ帝国」へと姿を変えたのである。
一方、北半分を委ねられたエスゲイの弟カサルは、北海の荒くれ者たちに苦しめられていた。フィヨルドを根城にする海賊と、エルス川北岸に広がる「黒い森」の住人——森の民。それらの侵略を断ち切るべく川を渡った軍勢は、うっそうとした密林での凄絶なゲリラ戦術と強襲に遭い、二万の兵が一夜にして全滅するという痛恨の敗北を喫したのだ。狂気と怒りに駆られたカサルは、防衛すべきエルス南岸を切り捨てる決断を下した。自らの領地を焦土と化し、街を焼き払い、民を強制的に南へと連れ去るという暴挙によって、無理やり北の脅威から距離を置いたのであった。中央高原を支配する隻眼の覇王エスゲイ・バール本人は、巨大な交易都市「ガザルカガンド」を建設していた。しかし、彼が課した苛烈な通行税は交易商人たちの足を遠のかせ、かつて栄えた交易路の繁栄は今や過去の記憶と化していた。商業の主役はすでに、はるか南方の海を渡る巨大な船団へと移り変わっていたのである。
それでもなお、グラッデェが支配する版図は広大であった。
一年で最も心地よい風が吹くこの季節、ガザルカガンドは最高潮の熱気に包まれる。年に一度、広大な遊牧地の割り当てを決め、羊毛を刈り取り、春に生まれた家畜を一斉に競り市にかける。集った遊牧民たちは、連日連夜の宴と博打に身をやつし、丸一ヶ月を歓楽の中で過ごすのだ。
今宵もまた、巨大な天幕の中は熱気に満ちていた。 香ばしく焼き上がる肉の匂いと立ち上る強い酒の香り。かつて大陸を震え上がらせた猛者たちの野太い高笑いが、天幕の革を揺らしている。 その座の頂点には、隻眼の覇王エスゲイ・バール。そしてその傍らには、大将軍カサルが重々しく腰を下ろしていた。惨劇は、あまりにも静かに訪れた。
肉を喰らい、酒を酌み交わす血と酒の宴が、ふと静寂に呑み込まれたのは一瞬のことだった。 扉が押し開かれた音も、草を踏む足音すらもなかった。あたかもそこにあった空間そのものが歪んだかのように、宴の真ん中に二つの影がたたずんでいた。
身に纏うのは、深くフードを被った漆黒のローブ。 その右肩、左胸、そして背中には、禍々しくもどこか優美な『六棘の霜華』の紋章が鮮やかに刺繍されている。
「何奴……ッ!?」
即座に反応したカサルが怒号を上げ、腰の剣へ手を伸ばした。 だが、その手が柄を握りしめるより早く、影の片側が動いた。
左手に立つ小柄な侍女——顎のラインで切り揃えられた荒々しい黒髪と、冷ややかな紫の瞳を持つ少女、ヴィオ。 彼女は手にしていた長柄の錫杖を滑らせるように引き抜いた。カチャリ、と金属質の澄んだ音が響く。仕込み杖の中から姿を現したのは、研ぎ澄まされた細身の長剣。右手に細剣、左手に石突きのついた鞘を構えたヴィオは、両手を交差させる独特の構えから、踏み込みの一歩を標的に向けた。
一筋の突風が天幕を駆け抜ける。
数万にも及ぶ軍勢を率いる、大将軍カサルの首筋に、すっと細い鮮血の線が走った。 自身に何が起きたのかを理解する余地すら与えられないまま、カサルの首級がドサリと絨毯の上に転がった。血飛沫の一滴すら浴びていないヴィオの紫の瞳には、一切の感情が宿っていない。
「カサルッ……!」
突如として弟を殺された隻眼の覇王エスゲイ・バールが、その巨体を弾むように立ち上がらせた。長剣を一気に抜き放つ。かつて大陸を平定した覇王の咆哮と殺気が、密閉された天幕内の空気を痛いほどに圧迫した。
だが、右側に立つもう一人の少女——アルヴェリア親王領の姫君、ルシアの領域は、すでに人の域を超えていた。
フードの奥から覗く、凍てつくように冷徹な瞳。 彼女が短錫杖を引き抜いた瞬間、天幕内の空気そのものが一瞬にして結氷したかのような錯覚が走る。刃の煌めきすら、誰の目にも捉えられなかった。ただ一筋の眩い銀光が、エスゲイの視界を掠めただけだった。
次の瞬間、覇王が掲げた長剣が柄ごと斜めに断ち切られ、遅れてその胸元から鮮血が激しく噴き出した。 隻眼の眼球を限界まで見開いたまま、ガザルカガンドの覇王は最後の一言すら遺すことを許されず、豪快に崩れ落ちた。
ほんの数瞬のことだった。 中央高原の頂点に君臨し、大陸の半分を支配する覇王が、名もなき虫ケラのように命を散らしたのだ。
言葉を失った護衛の兵たちは、あまりの超絶した剣術と非現実的な惨劇に腰を抜かし、叫び声すら上げられずに歯をガタガタと鳴らしていた。
ルシアは短錫杖に付着した僅かな血を優雅な所作で振り払うと、フードの奥から冷徹な声を放った。それは高貴で、あまりに高慢で、そして何者にも抗うことを許さない絶対者の響きを帯びていた。
「ベグに伝えなさい」
アルストラーナの皇帝として即位し、南半分を統治するエスゲイの次男——ベグ・バール。
「東に来い。オーレリアで相手をしてやる、とね」
ルシアが言い捨てるのと同時に、ヴィオが長剣を鞘へと収めた。カチャリ、と静かな金属音が天幕の静寂に響く。
次の瞬間、ゆらめく篝火の影が二人の体を呑み込むように揺れた。 一陣の風が吹き抜けたとき、血の海と化した惨劇の中心には、すでに誰もいなかった。
あとに残されたのは、生存者たちを叩きのめす絶望的な恐怖と、東方より刻一刻と迫り来る絶対的な死の予感だけであった。




