オーレリア外伝『六棘の霜華』その8
水の都アクア・パレス特有の湿り気を帯んだ爽やかな風が、ルシア宮の手入れされた庭園を吹き抜けていく。満開の花々が揺れる美しい景観の中で、突風のごとき打撃音と甲高い風切り音が響き渡っていた。
ガンッ! パラッ! と鋭く交錯するのは、二本の木剣。だが、打ち合っている者たちの動きは、およそ「稽古」や「遊び」といった生易しいものではなかった。手加減など一切存在しない、一歩間違えれば命を落としかねない真剣勝負そのものである。
「……はぁっ!」 「くっ……!」
打ち合っているのは、ルシアとリアム。共に十五歳を迎えた若き二人だ。
庭園の木かげでは、専属侍女のヴィオと熟練のベルトトが、手に汗を握りながらハラハラと見守っていた。かつてこのルシア宮で主任侍女を務めていたエミーナがいれば、容赦ない一言でこの命懸けの騒動を諌め、やめさせることができたのだろう。しかし、彼女は結婚して惜しまれつつ退官してしまった。いまや彼らの乱闘を制止できる者はおらず、従者たちは固唾をのんで成り行きを見守るしかないのだった。
ヴィオ自身もルシアによって相当に鍛え上げられており、常人以上の身こなしと洞察力を備えている。しかし、それでもなお、眼前で繰り広げられるルシアとリアムの領域には遠く及ばない。
彼らがこうして木剣を交えるのは、数えること実に四万三千八百回。長きにわたる歳月の中で積み重ねられた戦歴だ。「手合わせ」と言えば聞こえは良いが、その実態は、腹を立てたルシアが日常の不満や鬱憤を晴らすためにリアムを一方的に襲撃しているに過ぎない。リアムにとっては文字通り生きた心地のしない、命懸けの死闘の連続であった。
だが、成果は確実に表れていた。十五歳となり、アルヴェリア軍の軍営へ出入りするようになったリアムは、最近になってルシアの不条理な「襲撃」の恩恵を好意的に受け止めるようになっていた。
アルヴェリア兵といえば、オーレリア帝国の中でも無敗を誇る超精鋭集団である。だが、軍営に集う猛者たちの中にも、いまのリアムに敵う強者は一人として存在しなかった。下手をすれば、帝国軍で「軍神」とまで称えられる親王イリアードでさえ、真剣勝負において成長したリアムに勝てないかもしれない。もちろん、実の親子で殺し合いなどできるはずもないため、真の実力を比べる術はないのだが。
しかし、ルシアとの勝負は違った。ルシアは容赦がない。手加減など知らず、明らかにリアムを殺しにかかるような一撃を平然と放ってくる。無論、リアムならばかわすか受け止めることができると知っているからこその挙動であったが、それがリアムの能力を限界を超えて引き上げ続けていたのだ。
(——だが、何かが違う)
打ち合いの最中、リアムの脳裏に違和感が走り抜けた。
常人には到底見極められない次元の攻防。しかし、長年ルシアの刃を受け続けてきたリアムと、傍らで見守るヴィオには、辛うじて感じ取ることができた。今日のルシアの剣捌きには、いつも誇るべき絶対的な「冴え」がない。どこか迷いと陰りが混じっている。
踏み込みが一瞬、遅れた。
リアムの身体は無意識に反応し、反射的に渾身の突きを繰り出していた。鋭い木剣の先端が、ルシアの顔面の目と鼻の先を鋭く掠め去る——。
「っ!?」
ヒュッ、と空気を切り裂く音とともに、リアムの背中に冷や汗が吹き出した。間一髪、相手の顔面に突き刺さる直前で動きを止めたものの、あと数ミリずれていれば、ルシアの透き通るような美しい顔に傷を付けてしまうところだったのだ。
四万四千回近く交わしてきた手合わせの中で、こんな危険なミスは初めてのことだった。
「……どうしたの、危なかった。ごめん!」
リアムは動揺を隠せず、慌てて木剣を引いて謝罪した。ルシアの顔に怪我がないか、青ざめた表情で確認する。
だが、ルシアは避ける素振りすら見せず、まっすぐにリアムを見つめていた。そして、ゆっくりと息を吐くと、細く可憐な唇を開いた。
「……リアム。強くなったね。私の負けね」
「え……?」
リアムは驚き、目を丸くした。
幼少期から誰よりも負けず嫌いで、どんなに追い詰められても絶対に膝を折らなかったあのルシアが、自ら負けを認めたのだ。そんなことは、二人が出会ってからただの一度もなかった。
ルシアは見たこともないほど悲しげで、儚い微笑みを浮かべた。その瞳には、自分の手から何かが離れていくような、切ない影が揺れている。
「はい、これ」
ルシアは静かに握っていた木剣を差し出し、リアムの手元へと手渡した。庭園に吹き抜ける風が、二人の間に静寂を連れてくるのだった。
ルシアの初恋が実ることは、叶わなかった。 自身の異能の力を用いれば、帝都の翡翠宮までイスファに会いに行くことなど不可能ではない。だが、叶わぬ恋に未練を募らせて身勝手な行動を起こせば、まだ幼い妹のシンシアを悲しませるだけだ。
後宮へ行くのはシンシアであって、自分ではない。
ルシアはリアムに背を向けると、ヴィオを伴い、さらなる憂さ晴らしの対象を探すようにその場を去っていった。




