オーレリア外伝『ガラスと大理石の幼姫』その3
帝国歴310年3月。
オーレリア帝国の東方。アジール半島のラシル王国、その都市ビガンテの郊外。
深い森と荒涼とした岩肌に囲まれた小さな肋骨のような小屋で、男はひとり、羊皮紙に古びたインクで文字を走らせていた。
男の名はスライロ・ハリス。 かつて消滅したダラーン王国において「至高の頭脳」と称えられ、若くして大臣の位にまで上り詰めた傑物である。だが、その類稀なる才能と正論は、暗愚な国王ギジルとへつらう臣下たちの反感を買い、讒言によって国を追われ流罪となった。やがてダラーン王国が歴史の露と消えた後も、彼はラシル王国に仕官することなく、この僻地に身を隠していた。
世捨て人同然の生活。だが、彼の頭脳はいまだ衰えておらず、世界の情勢を脳内で組み立てては潰す日々を送っていた。
「……フン、世は混沌を極めているな。どいつもこいつも、浅知恵で動く愚か者ばかりだ」
スライロが自嘲気味に呟き、ペンを置こうとした——その瞬間であった。
空間が、歪んだ。
「……なに!?」
風もない部屋の中で、ろうそくの火が激しく揺らめく。 大気がまるで密度の高い水のように重くなり、耳奥で澄んだ鈴の音のような共鳴音が響いた。空気が裂け、眩いばかりの純白の光が部屋の中に満ちていく。
スライロは長年の勘で素早く座から立ち上がり、手近にあった古い書物を胸に構えた。刺客か、あるいは未知の魔導士の襲撃か。
しかし、光の旋風が収まったあとに現れたのは、彼の緻密な予想を遥かに凌駕する「存在」だった。
「——ふぅ。今度はちゃんとお外に着地できましたわね!」
透き通るような銀髪を揺らし、レースで飾られた可憐なドレスの裾を小さな手で払う、一人の幼い少女。 セシリアに生き写しの息を呑むような美貌と、宝石のように煌めく大きな瞳。四歳ほどのその少女は、あまりにも唐突に、スライロの狭い書斎の真ん中にたたずんでいた。
「な……なんだ、子供……? いや、空間転移だと!?」
至高の頭脳と称されたスライロの思考が、完全に停止した。 980㌔いう距離を無視し、いかなる天変地異の予兆もなく人を転移させるなど、神話の世界の代物だ。目の前の一見可憐な少女は、理を超絶した規格外の怪物だというのか。
少女——ルシアは、小さな腰に手を当てて、部屋を見回した。そして、埃っぽい本棚や虫食いの机に不満げに鼻を鳴らす。
「まあ、なんですのこの汚いお部屋は! 暗くて狭くて、カビの匂いがしますわ! あなたがスライロという男ですの?」
「……いかにも私だが。童、貴様はいったい何者だ? どのような術を使ってここへ侵入した?」
警戒を解かず問いただすスライロに対し、ルシアはふんっと胸を張った。
「失礼な男ですわね! ルシアは世界で一番偉くて可憐な姫君、ルシアですの! 挨拶くらいちゃんとしなさいな!」
「姫……君……?」
「まあいいわ。お話しは後ですの! ぐずぐずしていると、おかあ様に怒られてしまいますからね!」
「なっ……おい、何を——」
スライロが制止の声を上げる間もなかった。 ルシアが小さな手をキュッと握り締め、可憐な足で床を「とん」と踏み鳴らす。
次の瞬間、部屋全体が眩い光の粒子に包まれ、スライロの視界が完全に白転した。浮遊感と空間が引っ張られる激しい眩暈。
ほんの一瞬の出来事だった。
「……くっ!?」
視界が晴れた時、肌を刺す風の匂いが変わっていた。 埃っぽい土の匂いではなく、湿った塩の香りと、暖かい南国の風。
眼前には、青く広がる大海原と、アジール半島南部の港町。オーレリア帝国領サンブリアの美しい街並みが遠くに見下ろせる丘の上が広がっていた。
「ここ……は……? サンブリア……!? 南部のアウルヴェリア領だと……!?」
スライロは愕然として膝をついた。 ビガンテ郊外から、帝国の最南部サンブリアまで330㌔。
馬車を飛ばしても8日から10日かかる。それを一瞬で飛び越えたというのか。目の前の少女の力を前に、彼の誇る最高峰の知性はただただ絶句するしかなかった。
「ふふん! 驚きましたかしら? ルシアの異能にかかれば、こんなもの朝飯前なのですわ!」
ルシアは高慢に笑い、満足そうに腕を組んだ。
「さて、スライロ。あなたをここへ連れてきたのは、他でもありませんわ。あなたには今日から『真理の光教団』の司教になってもらいますの!」
「……は? 宗教の……司教だと?」
あまりに唐突な命令に、スライロは眉をひそめた。
「教団だと……? 冗談ではない。私は元ダラーン王国の大臣だ。知識も持たぬ無知な民を騙すような怪しげな新興宗教などに関わるつもりはない。それに……教祖は誰なのだ?」
「教祖は『ゲンドラス・サイリュン』燕国の崔厳ですわ!」
その名を聞いた瞬間、スライロの目が鋭く光り、表情が険しくなった。
「……崔厳。待て……燕国の元宰相であり、新国の王となった崔厳......崔厳といえば、ダラーンを裏から揺さぶり、我らを滅びへと追いやった謀略の鬼ではないか!」
スライロの胸の奥で、かつて大臣として味わった屈辱とプライドが激しく燃え上がった。
「断る! 崔厳の手先などにつくなど、このスライロ・ハリスの自尊心が許さん! ゲンドラスの下など、いくらその異常な力で脅されようと——」
「ぐだぐだ言ってないでやりなさい!」
「……ぶふっ!?」
スライロの理路整然とした反論を、ルシアの甲高い一喝が完璧に遮断した。
ルシアはプンプンと頬を膨らませ、小さな指をスライロの鼻先に突きつけていた。
「ルシアは忙しいのです! あなたの昔のお話しなんて、ちっとも興味ありませんわ! ルシアが『やりなさい』と言ったら、やるのです! 我儘を言っていないで、ルシアの言いつけを守りなさい!」
セシリア譲りの天使のような美貌で、天真爛漫かつ容赦のない高慢さを叩きつけられ、スライロは一瞬脳内が真っ白になった。
国家の興亡、政治的思惑、過去の恩怨——彼が積み上げてきたあらゆる理屈が、目の前の四歳児の「理屈無用の我儘」の前に惨敗したのだ。
あまりの圧と、あまりにも不条理な勢いに押し切られ、至高の頭脳と称された男の口から、知らず知らず言葉が漏れていた。
「……は、はい……」
「よし! 返事は大変よろしいですわ!」
ルシアは嬉しそうにニコリと微笑んだ。スライロは自分の発言にハッと息を呑んだが、時すでに遅しであった。
「では、教団の大聖堂を作って差し上げますわね! 感謝しなさい!」
ルシアが手を広げ、クルリと可憐に一回転した。
その瞬間、サンブリア郊外の広大な大地が地鳴りを立てた。
「な……なんだ!? 地震か!?」
スライロが狼狽する目の前で、信じがたい光景が繰り広げられた。 大地から、透明なガラスと無傷の純白の大理石が、まるで春の竹の子のように生えてきたのだ。それらは急速に組み合わさり、天を突くような尖塔を描き、美しくも壮大な大聖堂の姿を形作っていく。
ルシアの指先から舞い散る光の粒子が、巨大な建築物を装飾し、色鮮やかなステンドグラスが太陽の光を浴びて輝きを放つ。
ほんの数十秒の出来事だった。 何もない小高い丘の上に、数千人を収容できるであろう壮麗極まりない大聖堂が忽然と現れたのだ。
『真理の光教団』アジール大聖堂。
「……こんな……馬鹿な……。一夜にして……いや、一瞬にしてこのような神殿を……?」
スライロは腰を抜かし、完成した巨大な大聖堂を見上げた。言葉が出てこない。この少女の力は、もはや「異能」などという生易しいものではない。神の業そのものだ。
「ふふん! 出来上がりましたわ! ルシア宮の次に素敵なお建物ですわね!」
ルシアはご満悦の様子で胸を張ると、腰を抜かしているスライロを見下ろした。
「スライロ! これで準備はバッチリですわ! ここでしっかり司教として働きなさいね! ルシアはたまに見回りに来ますから、サボったらおしおきですわよ!」
「あ……ああ……」
「それでは、ルシアはお腹がすいたのでお家に帰りますわ! さようなら!」
ルシアが可愛らしく手を振ると、再び空間がぐにゃりと歪み、光の粒子とともに可憐な姿はかき消えるように消え去った。
あとに残されたのは、南国の爽やかな潮風と、新築されたばかりの大理石の匂い。 そして、突如として巨大な大聖堂の司教にされてしまった、元ダラーン王国の大臣スライロ・ハリスひとりであった。
スライロは呆然と大聖堂の巨大な扉を見上げ、深々と溜息をついた。
「……崔厳……ゲンドラス……。奴らの陰謀など、どうでもよくなってしまったわ……」
自分の持つ緻密な戦略も、至高の頭脳も、あの規格外な我儘姫の前では何の意味もなさない。
スライロは苦笑いを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。自分の運命が、突拍子もない四歳児の手によって完全に狂わされたことを悟りながら、彼は新しく出来上がったアジール大聖堂の階段を、どこか吹っ切れた足取りで登り始めるのだった。




