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『オーレリア戦記』  作者: りあと
オーレリア外伝『ガラスと大理石の幼姫』帝国歴310年
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オーレリア外伝『ガラスと大理石の幼姫』その2

帝国歴310年3月。

オーレリア帝国の心臓部、帝都オクタヴィアの奥深くに広がる後宮は、爛漫たる春の気配に満ちていた。

幾重もの回廊と高い朱塗りの壁に隔てられたその一角に、緑濃い竹林と清らかな泉に囲まれた優美な居館——『翡翠宮(ひすいきゅう)』が佇んでいる。

かつては先帝の『御前琴師(ごぜんきんし)』であり婕妤(しょうよ)でもあった名手、フレデリカ・リヴィエールに下賜された特別な宮。そしてここは、アウルヴェリア親王イリアードの側室となったセシリアが、九歳から十五歳までの多感な少女時代をフレデリカの侍女として過ごした思い出深い場所でもあった。

現在は、セシリアの妹であり、現皇帝の徳妃となった二十二歳のルネッタ・リヴィエールがその正主として住まっている。


「……ふふ、イスファ。お見事ですよ。よくそこまで集中できましたね」


翡翠宮の明るい日差しが差し込む温室で、ルネッタは我が子にやわらかな笑みを注いでいた。 今年で四歳になる第4皇子イスファは、漆黒の髪に皇帝譲りの凛とした面立ちをした聡明な幼子だ。小さな手で筆を握り、真剣な眼差しで小さな紙に春の花を描き終えたところだった。


「母上、見てください! 翡翠宮のお庭に咲いた梅の花です!」


「まあ、本当によく描けていますこと。イスファは本当に絵がお得意ね」


ルネッタが愛おしそうにイスファの頭を撫でると、イスファは少し照れくさそうに、けれど誇らしげに目を細めた。 静かで、満ち足りた春の午後。 帝都の陰謀や権力闘争から遠ざけられた翡翠宮には、ただ穏やかな時が流れていた。

——その穏やかさが、唐突に破られるまでは。

空間が、揺れた。


「……え?」


ルネッタが違和感を覚えた瞬間、温室の空間そのものが水面に落とされた一滴の雫のように歪んだ。 空気の密度が一変し、大気が微かに澄んだ鈴の音のような澄んだ共鳴音を奏でる。翡翠宮を覆う静寂を切り裂いて、一陣の光の風が吹き抜けた。

次の瞬間——空間の裂け目から、眩い光の粒子と共に「それ」は現れた。


「——きゃあっ!?」


床の上に突如として出現した可憐な影。 透き通るような銀髪に、レースをふんだんにあしらった可憐なドレス。宝石のように澄んだ大きな瞳をした、天使のような美少女が、尻もちをつくようにして大理石の床にストンと落ちていた。


「……あいたたた。空間を跳ぶときは、もう少し柔らかい着地にしないとダメですわね」


少女はドレスの裾を小さな手で払いながら、ぷくっと頬を膨らませて立ち上がった。 その立ち振る舞いはあまりにも自然で、そして何より——異様なほど堂々としていた。

ルネッタは息を飲み、目の前の光景を疑った。


(……空間移動!? まさか、結界と近衛兵で厳重に守られた後宮の深部に、突如として侵入者が……!?)


反射的にイスファを背中に庇い、警戒の眼差しを向けかけたルネッタだったが、少女の顔を正面から捉えた瞬間、その思考がフリーズした。

セシリアに生き写しの、あまりにも美しい面立ち。 高慢でありながら、どこか天真爛漫な輝きを放つその瞳。


「……ル、ルシア……!?」


ルネッタの声が小さく震えた。

アウルヴェリア親王領の都アクアパレスにいるはずの、姉セシリアの娘。自分の姪にあたる四歳の幼子、ルシアであった。

ルシアはきょとんとした様子で周囲を見回した。翡翠宮の趣ある竹林や、繊細な調度品に視線を走らせ、やがてルネッタへと視線を止める。


「あら? ……あらあら? ここは皇宮ではありませんわね? おじさまのお屋敷の庭に出るつもりでしたのに……」


ルシアは小さな腰に手を当て、不満そうに「むぅ」と声を上げた。


「……ルシア!?なぜ……なぜあなたがここにいるのですか!? ここは帝都の後宮ですよ!? アウルヴェリアからは830㌔も離れているのですよ!?」


普段は徳妃として静淑なルネッタが、なりふり構わず声を張り上げた。

無理もない。アウルヴェリア親王領と帝都オクタヴィアは、馬車を飛ばしても何日もかかる距離だ。それを「空間移動」などという、おとぎ話でしか聞いたことのない現象で一瞬にして飛び越えてきたのだから。

リヴィエール一族に稀に発現する『強力な異能』。 それがセシリアの娘であるルシアに受け継がれていることは、一族の絶対の秘密として厳重に伏せられていた。ルネッタも一族なので聞いていたが、まさか四歳の女児が帝都の後宮へ「誤って瞬間移動してくる」ほどの規格外な力だとは夢にも思っていなかったのだ。


「ルシア、あなた、ひとりで……ひとりで来たのですか!? セシリアお姉様や侍女のみなさんは!?」


「おかあ様なら、ルシアがお昼寝をしている間に、おとう様とお仕事のお話しをしていましたわ。ルシアは退屈だったから、ちょっとお外に遊びに行こうと思っただけですの!」


ルシアは悪びれる様子もなく、胸を張って言い放った。まさに高慢で天真爛漫な、四歳児の言い分である。


「た、退屈だからって……こんな……!」


ルネッタは目眩を覚えた。もしこの子の存在や異能が、後宮の他の妃や皇帝の耳に触れれば、どんな大騒動になるか分からない。下手をすれば「侵入者」として命を狙われるか、あるいは政治の道具として囚われてしまう。

その時、ルネッタの背後から小さな声が聞こえた。


「母上……この子は、だれ?」


イスファがルネッタの服の裾をギュッと握りしめ、不思議そうにルシアを見つめていた。同い年くらいの、見たこともない可憐な少女の突然の出現に、目を丸くしている。

ルシアの視線がイスファへと向いた。 ルシアはすたすたと小さな足音を立ててイスファへ近づくと、じっとその顔を覗き込んだ。


「まあ! あなたがイスファね? おかあ様からお話は聞いていますわ! ルシアの従弟(いとこ)なのですから、ルシアのお家来になりなさい!」


「えっ……け、けらい……!?」


イスファは呆然とした。第4皇子として生まれ、周囲から敬意を持って接されてきた彼にとって、「家来になれ」などと言われたのは生まれて初めてのことだった。


「ルシアちゃん! イスファ皇子になんということを……!」


「良いのですわ、ルネッタ叔母様! ルシアは世界で一番偉くて可愛い女の子なのですから、イスファが家来になるのは当然のことですの!」


ふふん、と自満げに笑うルシア。そのあまりにも堂々とした我儘ぶりに、ルネッタは言葉を失った。セシリア似の愛くるしい顔立ちでそんなことを言われては、怒る気すら失せてしまう。

イスファは怒るどころか、どこか圧倒されたようにルシアを見つめていたが、ふと思いついたように手にした絵を差し出した。


「……これ、僕が描いた梅の花。あげる」


ルシアは差し出された紙をひょいと受け取ると、まじまじと見つめた。


「ふうん……なかなか上手ですわね。でも、紙に描いたお花なんて、ちっとも面白くありませんわ!」


「えっ……」


イスファがショックを受けたように顔を曇らせた瞬間、ルシアが小さな手足を軽く振った。


「ルシアのお花を見せてあげますわ! ——咲きなさい!」


ルシアが可愛らしく命じた次の瞬間、彼女の指先から、真珠のような光の粒子がポロポロとこぼれ落ちた。 光は温室の大理石の床を駆け抜け、イスファの描いた絵に触れる。すると、紙に描かれていた梅の絵が光を放ち、実体となって空間に飛び出したのだ。

さらには、翡翠宮の庭園全体に光の波が広がり、まだ蕾だった春の花々が一斉に開花した。甘い花の香りが大気を満たし、温室の中には光の花びらが舞い散る。


「……わぁ……っ!」


イスファの目が、感嘆に見開かれた。絵から飛び出した光の梅の花が、イスファの周りをくるくると楽しそうに舞っている。


「すごいや……! すごいよ、君!」


「ふふん! 当然ですわ! ルシアの異能は世界一なのですから!」


ルシアは威張ってみせたが、イスファが目を輝かせて喜んでいるのを見ると、嬉しそうに小さな鼻を鳴らした。

ルネッタはその光景を、息をのんで見つめていた。


(なんて強大な力……。これが、セシリアお姉様のお子……)


驚愕の一方で、ルネッタの胸には温かな愛おしさがこみ上げていた。どれほど恐ろしい力であろうと、この子は大切な姉の愛娘なのだ。そして、我が子イスファを喜ばせようとする、無邪気で優しい心を持っている。

だが——現実的な問題が、ルネッタの頭を冷やした。


(大変だわ……! 長居をさせたら、翡翠宮の侍女や近衛兵に気づかれてしまう……!)


後宮は秘密が漏れやすい場所だ。ルシアのこの規格外の異能が露見すれば、帝国の政争の渦に巻き込まれてしまう。


「ルシアちゃん、すごいですわ……とっても素敵なお花ね。でもね、ルシアちゃん」


ルネッタは膝をつき、ルシアの目線に合わせて優しく両手を握った。


「お母様やお父様が、ルシアちゃんがいなくなって、きっと今頃とても心配していらっしゃいますよ? お家に帰りましょう?」


「えー? もう帰るのですか? ルシアはもっとイスファとお遊びしたいですわ!」


ルシアはぷくっと頬を膨らませて不満をあらわにした。 


「だめですよ。セシリアお姉様が泣いてしまったら、ルシアちゃんも悲しいでしょう?」


「おかあ様が……泣く……?」


ルシアは少し考え込むように首をかしげた。 強がりで我儘なルシアだが、何よりも愛しているのは母親のセシリアだ。セシリアが悲しむ姿を想像したのか、ルシアの大きな瞳に少しだけ不安の色が浮かんだ。 


「……わかりましたわ。おかあ様が寂しがるなら、帰ってあげます!」


ルシアは素直にそう言うと、イスファに向き直った。


「イスファ! 今日のところは帰ってあげますけれど、ルシアはまた遊びに来ますわ! あなたはルシアの家来なのですから、次までにともっとたくさんお絵描きをしておきなさいね!」


「……うん! 僕、もっと絵を練習しておくよ! また来てね、ルシアちゃん!」


イスファは嬉しそうに頷いた。ルシアの天真爛漫な我儘は、幼い皇子の心を完全に掴んでしまったようだった。

「ルシアちゃん、帰りは……自分で戻れますか?」


ルネッタが心配そうに尋ねると、ルシアは「勿論ですわ!」と胸を張った。


「ルシア宮のルシアのお部屋……えいっ!」


ルシアが小さな手をキュッと握り締めると、再び彼女の周囲の空間がぐにゃりと歪み、眩いガラスのような光の粒子が舞い上がり始めた。


「ルネッタ叔母様、さようなら! イスファ、またねーっ!」


光の旋風が巻き起こり、少女の可憐な姿を包み込んでいく。


「さようなら、ルシアちゃん! セシリアお姉様に、よろしくね……!」


ルネッタが手を振ると同時に、眩い閃光が弾けた。 そして光が収まった時——翡翠宮の温室には、静寂が戻っていた。

あとに残されたのは、甘い花の香りと、ルシアが咲かせた光の花びら、そして呆然と立ち尽くすルネッタとイスファの姿だけだった。


「……本当に行ってしまわれたわ……」


ルネッタは大きく息を吐き出し、胸に手を当てた。心臓が早鐘のように打っている。 嵐のような時間だった。だが、ルネッタの心には、どこか晴れやかな温もりが残っていた。

アクアパレスで暮らす姉セシリアと、その愛娘ルシア。何百リーグも離れた場所にいるはずの家族の息吹を、思いがけない形で肌で感じることができたのだから。


「母上……ルシアちゃん、また来てくれるかな?」


イスファがルネッタの服を引っ張り、期待に満ちた目で聞いてきた。

ルネッタは苦笑しながら我が子の頭を優しく撫でた。

「ええ、きっとね。……でも次は、ちゃんと連絡をしてから来てほしいものね」


温室の天井から、春の柔らかな日差しが注ぐ。 ルネッタは咲き誇る梅の花を見上げながら、遠くアウルヴェリアにいる姉の無事と、嵐のような愛くるしい姪の健やかな成長を、静かに祈るのだった。


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