オーレリア外伝『ガラスと大理石の幼姫』その1
帝国歴310年3月。
早春の光が、オーレリア帝国の東南部に位置するアウルヴェリア親王領の都、アクアパレスを柔らかく包み込んでいた。まだ寒気の残る風が街を吹き抜けていくが、ここ『ルシア宮』の周囲だけは別世界のように温かな春の陽気に満ちている。
ガラスと白大理石で作られたこの小宮殿は、かつて生後六ヶ月だったルシアが無意識に生み出した奇跡の産物だ。四年が経った今もなお、太陽の光を浴びて幾重もの虹色の結晶を庭園に投げかけていた。
その眩いテラスの真ん中で、セシリアはティーカップを手に、愛娘の姿を見つめていた。
今年で二十六歳になったセシリアは、大人の女性としての深く落ち着いた気品を漂わせている。そのやわらかな瞳の先には、今年四歳になったばかりの娘、ルシアがいた。
「——だめですわ! お庭のお花は、全部ルシアのものなのですから! 勝手に散ってはいけません!」
可憐なレースのドレスの裾を翻し、小さな腰に手を当ててぷんぷんと怒っているルシア。 セシリア譲りの透き通るような美しい銀髪と、宝石のように澄んだ大きな瞳。誰もが息を呑むほどの可憐な美貌を持ちながら、その口から飛び出すのは、なんとも高慢で天真爛漫な言葉だった。
ルシアが小さな足で地面を「とん」と踏み鳴らす。 すると次の瞬間、彼女の異能が発動した。風に煽られて散りかけていた桜に似た花々が、空中ピタリと停止する。それどころか、ガラスの粒子のような光を纏いながら枝へと逆戻りし、さらに庭園全体の蕾が一斉に開花して、色鮮やかな大輪の花を咲かせたのだ。
「ふふん、見たかしら? ルシアが『咲きなさい』って言ったから、みんな咲いたのよ!」
ルシアは胸を張り、セシリアに向かって自慢げに微笑んだ。その我儘で高慢な態度さえも、天使のような愛らしさの前にはただただ愛おしく映ってしまう。
「まあまあ、ルシア様ったら……。自然の摂理までルシア様の我儘に従わせてしまうなんて、相変わらず凄まじいお力ですね……」
紅茶の注ぎ足しにやってきた二十三歳のエミーナが、呆れ混じりの溜息をつきながら苦笑した。侍女としての落ち着きと手際の良さに磨きがかかったエミーナだが、この小さな主人の「突拍子もない」行いには、毎日ヒヤヒヤさせられっぱなしだ。
「ルシア。お花を咲かせてくれたのはとても綺麗けれど、自然の命を無理に引き留めては駄目よ? 花は散るからこそ、次の春にまた綺麗に咲くのですから」
セシリアがやさしく諭すと、ルシアはふくれっ面をして「むぅ」と声を上げた。
「だって! 散ってしまったら寂しいではありませんか! ルシアは、おかあ様と一緒にきれいなお花を見たいのです!」
高慢な振る舞いの裏に見え隠れする、母親へのまっすぐな愛情。セシリアは思わず笑みをこぼし、ルシアを膝の上に引き寄せて抱きしめた。
「ありがとう、ルシア。お母様のために咲かせてくれたのね」
「……ん、まあね! ルシアは世界で一番素晴らしい女の子だから、これくらい朝飯前なのですわ!」
セシリアの胸に顔を埋めながら、誇らしげに鼻を鳴らすルシア。その頭を優しく撫でていると、庭園の奥から賑やかな悲鳴が聞こえてきた。
「ひやあぁぁぁっ!? ル、ルシア様〜〜っ! た、助けてください〜っ!」
ドタバタと大騒ぎしながら走ってきたのは、十九歳になった侍女のベルトトだった。成長してすっかり背も伸び、見習いから一人前の侍女へと成長したベルトトだったが、慌てん坊な性格だけは昔のままだ。
そのベルトトの後ろを、巨大な『何か』が浮遊しながら追いかけてきている。
「ベルトト、何を騒いでいるの? ……って、まあ! それはなんですの!?」
エミーナが驚愕の声を上げた。
ベルトトを追いかけていたのは、ルシア宮のガラスと大理石で作られた、体長二メートルはある巨大な「うさぎ」の像だった。透明なガラスの体の中に色鮮やかな光の粒子を蠢かせ、ピョンピョンと空中を跳ねながらベルトトを追っている。
「べ、ベルトトがルシア様のおやつのクッキーを落としちゃったのを見て、この大理石うさぎさんが怒って動き出したんです〜っ! セシリア様、お助けを〜!」
「ルシア! あれはお前が動かしているのですか?」
セシリアが尋ねると、ルシアはセシリアの膝の上で威張るように腕を組んだ。
「当たり前ですわ! ルシアの大事なクッキーを粗末にするなんて、おしおきです! いけっ、ガラスうさぎ! ベルトトを捕まえて、こちょこちょの刑にしなさい!」
「ひぃぃぃっ! ルシア様、ごめんなさい〜っ!」
「あははは! 逃げても無駄ですわ! ルシアの言いつけを守らない悪い侍女には、おしおきなのです!」
天真爛漫な高笑いを上げるルシア。四歳にして既に親王領の誰もが恐れ敬う(そして愛して止まない)小さな女王様の貫禄である。
「ルシア様! お戯れが過ぎますわ!」
エミーナが慌てて割って入ろうとするが、空中を跳ねる巨大うさぎは素早くエミーナを回避し、逃げ惑うベルトトを追い回す。ルシアの異能は成長と共に洗練され、今や彼女の意思一つで無機物を生物のように自在に動かす域に達していた。
「まあまあ、ルシア。ベルトトも悪気があって落としたわけではないのよ? ほら、うさぎさんを止めてあげて」
「ダメです! ルシアは我儘な女の子なのですから、一度決めたおしおきはやめません!」
ルシアはぷいっと横を向いた。我が子の可愛らしい頑固さに、セシリアはふっと息を漏らす。
「困った子ね……。なら、お母様が『おしおき』をしようかしら?」
「え?」
ルシアが振り返った瞬間、セシリアはルシアのお腹のあたりを、両手で「こちょこちょこちょ!」とくすぐり始めた。
「きゃああっ!? ひゃははははっ! お、おかあ様、やめて! やめてくださいな〜っ!」
「我儘なルシアちゃんには、こうです! さあ、うさぎさんを止めないと、ずっとこちょこちょしますよ?」
「ひゃはは! わ、わかりました! 止めます! 止めますから〜っ!」
ルシアが必死に叫んで小さな手をかざすと、ベルトトを追い回していた巨大なガラスうさぎはピタリと動きを止め、ただの光る綺麗な像へと戻り、芝生の上にドスンと着地した。
「はぁ……はぁ……助かったぁ……」
へたり込むベルトト。エミーナも胸を撫で下ろし、「まったくもう……」とルシアに向かって溜息をついた。
くすぐり責めから解放されたルシアは、息を整えながらセシリアの膝の上で涙目になっていた。セシリアの頬をぺちぺちと小さな手で叩く。
「うぅ……おかあ様のおバカ! ルシアをくすぐるなんて、不敬ですわ!」
「あら、ごめんなさいね。でも、ベルトトも反省しているわ。許してあげて頂戴?」
セシリアが優しく微笑みかけると、ルシアは悔しそうに唇を噛みしめたが、やがて「ふん!」とそっぽを向いた。
「……今回だけですわ! ベルトト、新しいクッキーを今すぐ焼いて持っていらっしゃい! 今度はルシアの分と、おかあ様の分と、ベルトトたちの分も全部ですわ!」
「ルシア様……! はいっ! すぐに特大の焼きたてクッキーをお持ちしますっ!」
ベルトトはパッと顔を輝かせ、深々と頭を下げて厨房へと走っていった。我儘の裏にあるルシアなりの優しさに気づき、エミーナもやわらかな笑みを浮かべる。
「ルシア様は、本当にお優しいですね」
「べ、別に優しくなんてありませんわ! ルシアは世界で一番偉くて、我儘な姫君なのですから!」
恥ずかしそうに叫ぶルシアの姿は、セシリアの目には愛おしくてたまらなかった。
四年という歳月は、ルシアに強大すぎる異能と、少しばかり高慢な態度をもたらした。けれど、その根底にある純粋さや、周囲を愛し愛される天真爛漫さは、何ひとつ変わっていない。
この『ルシア宮』は、彼女の強大すぎる力を隠し、守るための場所でもあった。帝国の政争や、異能を恐れる者たちの目から遠ざけるために。 けれど、こうして日々を重ねる中で、ここはこの子にとっての、そして自分たちにとってのあたたかな「家」となっていた。
「あ、おとう様ですわ!」
ルシアがパッと目を輝かせ、庭園の入口を指さした。
ガラスの門を潜って歩いてきたのは、アウルヴェリア親王イリアードだった。 深紅の飾緒をつけた黒の軍服を身にまとい、相変わらず厳めしい雰囲気を纏っているが、その瞳はルシア宮に入った瞬間から、優しく和らいでいる。
「ルシア、セシリア。……何か騒がしかったようだが」
「おとう様〜っ!」
ルシアはセシリアの膝から飛び降りると、タタタッと小さな足音を立ててイリアードへと駆け寄った。イリアードは慣れた手つきでルシアを軽々と抱き上げる。
「おかあ様がルシアにいじわるをしたのです! だからおとう様、おかあ様におしおきをしてくださいな!」
抱っこされた途端、親王である父親に母親の「告げ口」をするルシア。 イリアードはセシリアへ視線を向けた。セシリアが「ふふ」と微笑んで首を振ると、イリアードも全てを察したように苦笑した。
「そうか。だがルシア、お前がまた何か突拍子もない我儘を言ったのではないか?」
「むぅ! おとう様までおかあ様の味方をするのですか!? もう知りません! おとう様の軍服、またお花だらけにしてしまいますわよ!」
ルシアがぷんぷんと怒ると、彼女の指先からポロポロと光の粒子がこぼれ、イリアードの漆黒の軍服の肩や胸元に、一斉に色鮮やかな春の花々が咲き誇った。
以前、一度見せたいたずらを、今では意図して完璧に再現してみせるルシア。 イリアードは豪華絢爛に花飾られた自分の軍服を見下ろし、困ったように溜息をついたが、その口元は嬉しそうに緩んでいた。
「……相変わらず、鮮やかな異能だな。最高の装飾だ」
「ふふん! そうでしょう! ルシアの作ったお花が、一番綺麗なのですわ!」
イリアードに褒められ、一瞬で機嫌を直すルシア。
「さあ、殿下もご一緒に紅茶をいかがですか? ベルトトが美味しいクッキーを焼いてきてくれますわ」
セシリアが声をかけると、イリアードはルシアを抱っこしたまま、セシリアの隣の椅子へと腰掛けた。
「ああ、そうさせてもらおう。……今日もこの宮殿は、賑やかで良いな」
「ええ、本当に」
暖かな春の陽光が、ガラスの天井を透過してテラス全体をキラキラと照らし出す。 ルシアの放った光の粒子が、春風に乗ってチラチラと舞い踊っていた。
我儘で、高慢で、天真爛漫。 世界を創り変えてしまうほどの強大な異能を持ちながら、誰よりも愛らしく輝く娘。
セシリアは、イリアードの腕の中で楽しそうにおしゃべりを続けるルシアの頬にそっと手を添えた。
「お母様の、可愛いルシア」
「なぁに、おかあ様?」
「ううん、なんでもないわ。ずっと、こうして一緒にいましょうね」
「当たり前ですわ! ルシアはおかあ様と、おとう様と、ずっとずっと一緒にいるのですから!」
ルシアが当然のように胸を張り、眩いばかりの笑顔を弾けさせた。 帝国歴310年、春。ガラスと大理石の小宮殿『ルシア宮』には、今日も温かな笑い声と、溢れんばかりの愛が満ちていた。




