オーレリア外伝『復讐の怨嗟』その6
オーレリア帝国歴306年9月。
かつて南方の海を激動の渦に巻き込んだサンブリア沖および鳴梁の海戦から、3年の年月が流れていた。
ノバージェ共和国の首都、カレン。 海辺に佇むカレン宮殿を包む空気は、3年前の一触即発の危機感から一変し、どこか奇妙な静けさと冷徹な活力に満ちていた。
最高執政官の座に留まるシン・ネグラは、いまや漆黒の円卓に広げられた羊皮紙を前に、静かに黒いワイングラスを傾けている。円卓の上に並ぶのは、軍事的な陣形図でも艦艇の建造計画でもない。オーレリア帝国との間で結ばれた、無数の鉱石や木材、硫黄の「輸出貿易協定書」であった。
「ドージェ。今月も港から、質の良いエストロ材と大量の硫黄を積んだ大船団が出発いたしました」
重臣が恭しく報告を差し出す。その声に、かつての悲壮感や戦慄は影を潜めていた。
3年前、ノバージェは絶体絶命の淵にあった。絶対的な優勢を誇っていた大艦隊が、アルヴェリアの鬼神のごとき水明将軍セシリアの手によって壊滅的な大敗を喫したからである。一時は国家の存亡すら危ぶまれたが、ノバージェの本質は軍事国家ではなく、一族の利益と株主の配当によって駆動する「巨大な軍事海洋会社」であった。
戦後、オーレリア帝国のイリアード親王から金・銀・銅をはじめとする豊富な鉱物資源や木材の優先購入を約束されたことで、商人政治家たちの計算尺は瞬時に弾き直された。「武力で半島をねじ伏せるよりも、交易によって巨万の富を吸い上げる方がはるかに利幅が大きい」――その現実的な冷徹さこそが、ノバージェという国の真面目であった。かつて開戦を叫んだ貴族派も庶民派も、流れ込む圧倒的な利権を前にして侵攻反対派へとあっさり転じ、戦火の危機は瞬く間に立ち消えていたのである。
宮殿の窓から見下ろす造船所では、今夜も松明が焚かれている。しかし、そこに響く槌音は軍船を組み上げるものではなく、肥大化した交易網を支える巨大商船の船体を打ちつける音であった。
サン・ジルジ銀行の金庫には、莫大な貿易利潤が絶え間なく流れ込んでいた。軍船を失った傷跡は、金の力によってものの見事に埋め合わされ、むしろノバージェの国庫は歴史上最も豊かな絶頂期を迎えつつあった。
シン・ネグラは窓辺に歩み寄り、9月の湿気を帯んだ夜風に身を任せた。
(敗北すらも商品に変え、地獄の底から利益を搾り取る。これこそが我らノバージェだ)
彼の脳裏には、かつて自らの艦隊を壊滅させ、海を赤く染め上げたあの恐るべき「蓮の花の軍旗」が焼き付いて離れない。武力で勝てぬならば、経済という名の無形の鎖で縛り上げればよい。
だがこの時、国民総商人を自称するノバージェの誰もが危機的状況に気がついていなかった。
建国以来初めてとなるインフレの入り口に立っていたのである。ノバージェの市民達は競う様にアクスアルブの絹や錦。ルミナリアの『アシュロンの涙』などの香料や酒や宝石。アルヴェリアのガラス製品や高級綿。南部の香辛料などを大量に求めるようなっていった。そして一度身についた生活習慣は元に戻らず、贅沢な消費文化へと移行していったのであった。9月の澄んだ夜空の下、カレンの港には無数の松明と船の灯りが揺らめいている。一見すると平穏な繁栄の影で、ノバージェは没落の危機に瀕していたのであった。




