オーレリア外伝『復讐の怨嗟』その5
潮風には、かすかに焦げた鉄と枯れ草の匂いが混じっていた。帝国歴三〇六年九月。かつてアジール半島の覇者として君臨したダラーン王国が歴史の泡と消えてから、早くも三年という月日が流れていた。
南部の港町サンブリアの回廊からは、群青色の海が一望できる。かつてはダラーン王国の交易船が行き交い、繁栄を誇っていた港には、今やオーレリア帝国の双頭の鷲をかたどった軍旗が幾条もはためいていた。建物の壁面には帝国独特の重厚な石造りの彫刻が塗り重ねられ、ダラーン特有の優美な木造建築の痕跡を覆い隠そうとしている。
「帝国領サンブリア……かつての『ダラーンの宝珠』も、今やわが帝国の東方における橋頭堡に過ぎんな」
回廊の欄干に手をかけ、海を見下ろしていたのは、帝国将校の一人、カルル・ライネル中佐であった。彼の背後から、静かな靴音が近づいてくる。
「かつての敵国を分断し、自国の肉とする。地政学的論理としては完璧ですな、ライネル中佐」
振り返ると、そこに立っていたのはラシル王国の外交使節であり、かつて黄山原の激戦を生き抜いた精鋭騎士、クリストフ・ヴァルターであった。彼の胸元には、ラシル王室の象徴である鳳凰の金飾りが輝いているが、その目元には隠しきれない疲弊と鋭い警戒の色が宿っていた。
「やあ、クリストフ使節。クムソニアから遠路はるばるのご到着、ご苦労だった。ビガンテの統治はつつがなく進んでいるのかな?」
ライネルはうっすらと笑みを浮かべ、薄手の軍用手袋を嵌め直した。その口調は親密さを装いながらも、どこか冷ややかであった。
「旧都ビガンテは我がハニカ・マグレナ大王の親政の下、急速に復興を遂げつつあります。しかし……」クリストフは海から吹き寄せる風を受けながら、静かに視線を南の水平線へと向けた。「南北に二分された旧ダラーン領の現実を見るたび、胸を突くものがあります。かつての都ビガンテは我が国が治め、この南部の良港サンブリアは貴国が治める。地図の上に引かれた一本の境界線が、人々の命脈すら切り裂いてしまった」
「それは戦勝国の権限というものだ」ライネルは淡々と言い放った。「三年前に我がアルヴェリア親王殿下が十三万の艦隊を率いて熊津江へ突入していなければ、今頃クムソニアもウォンソン城も灰燼に帰し、ラシル王国という名すら地図から消えていたはずだ。虎の牙を借りて狼を払ったのだ。その代償としてサンブリアを割譲するのは、あまりに妥当な取引ではなかろうか?」
「……解っております」
クリストフは唇を噛み締めた。三年前の絶望的な夜、政務堂の灯火の下で地図を見つめていたハニカ大王の冷徹な眼光を、クリストフは鮮明に覚えていた。亡き姫君への情念を押し殺し、国家滅亡を回避するためにオーレリアという巨大な虎を呼び寄せた大王の決断。そして、「臨戦無退」の誓いを胸に血の海となった黄山原を駆け抜けた花郎たちの叫び。あの苦肉の策が、今の平穏をもたらしたことは紛れもない事実だった。
だが、狼が去った後に居座った虎は、あまりにも巨大で、あまりにも強欲であった。
現在、旧ダラーン領の北半分――富裕な農耕地帯と旧都を含む地域はラシル王国の領土となったが、南半分の海上交通の要衝であるサンブリアとその周辺領土はオーレリア帝国の直轄地「サンブリア提督府」として支配されている。境界線上には関所と要塞が築かれ、かつて同じ国で暮らしていた民らは東西南北に断絶されていた。
「大王様より、帝国皇帝陛下への親書をお預かりしております」
クリストフは懐から、重厚な紫の絹で包まれた筒を取り出した。ライネルはそれを受け取ると、恭しく一礼した。
「承った。しかしクリストフ使節、貴国の大王様は少々お急ぎのようだ。この三年、境界線付近での我が軍の小競り合いについて、何度も抗議文を寄せておられるが……あれは我が軍勢の治安維持活動の範疇に過ぎん」
「治安維持、ですか」クリストフの声が低くなった。「サンブリアから北上する貴国の偵察騎兵が、我が領内の村々にまで入り込み、徴税と称して糧食を接収しているという報告が相次いでおります。これは明確な協定違反です」
「ふむ……帝国軍の末端が起こした些細な行き違いかもしれんな。あるいは、滅亡したダラーン王国の残党が野盗化し、貴国の警戒網を破っているのではないか?」
白々しいライネルの言葉に、クリストフの手が腰の飾剣の柄へと伸びかかった。だが、彼はすぐさま自制し、深く息を吐き出した。いま、ここで帝国と衝突することは、ハニカ大王の望むところではない。ラシルはまだ三年前の激戦から完全に回復していないのだ。
「野盗、ですか……。ならば我が国の精鋭、ムジン・ユシン将軍の部隊を境界線に増員派遣し、真の『野盗』を討伐いたしましょう。貴軍の手を煩わせるまでもなく」
『ムジン・ユシン』の名が出た瞬間、ライネルの目元がかすかにピクリと動いた。三年前にダラーン軍の激浪を岩山のごとく受け止め、オーレリア軍の揚陸と同調して敵の本陣を崩壊せしめた名将の威名は、帝国将校団の間でも一目置かれていた。
「……大将軍ムジン・ユシン閣下か。相変わらずお盛んなようだね。だが、無用な軍の動員は余計な摩擦を生む。お互いに自重しようではないか」
ライネルは苦笑いを浮かべながら親書の筒を小脇に抱えた。「今夜はサンブリア提督府で歓迎の宴が催される。三年前に我らが共に戦い、勝利を掴んだことを祝おうではないか。ダラーンという強大な脅威が消え去った今、ラシルとオーレリアの友情は永久に不滅であるべきなのだから」
「友情……」クリストフは静かに呟いた。「ええ、国境に立つ武人の刃が互いに交わらぬ限りは、そうありたいものです」
◇
その夜、サンブリアの港を見下ろす提督府の迎賓館では、豪華絢爛な宴が開かれていた。爛爛と輝くシャンデリアの下、オーレリア帝国の高官たちがワイングラスを傾け、異国風の音楽に合わせて談笑している。
宴の喧騒から離れたテラスで、クリストフは一人、夜の海を見つめていた。はるか北の暗闇の中には、旧都ビガンテがあり、さらにその先にはラシル王国の首都クムソニアが存在する。
「滅亡の淵からの逆転……しかし、それは新たなる冷酷な現実の始まりに過ぎなかったか」
三年前、政務堂の灯火の下でハニカ大王が放っていた「研ぎ澄まされた刃のごとき痛切な気」。大王は知っていたのだ。ダラーン軍を滅ぼした瞬間、昨日までの「救世主」であるオーレリア帝国が、一転して「最も恐ろしい潜在的敵国」へと変貌することを。
だからこそ、二分割された旧ダラーン領の北部を確保し、ビガンテの防壁を強固に築き上げつつ、ムジン・ユシンの軍勢を再編しているのだ。ダラーンという巨大な敵がいなくなった今、アジール半島の天秤は「ラシル」と「オーレリア」という二つの重しによって危うく均衡しているに過ぎない。
波音が重く足元に響く。九月の風は、すでに秋の冷気を孕んでいた。
「決して呑まれはしない」
クリストフは夜の海に向かって誓うように低く呟いた。武人たちが捧げた血と命、そして滅びの淵で掴み取ったこの国の存続を、帝国という大波に呑ませるわけにはいかない。
帝国歴三〇六年九月。かつての激戦から三年を経たアジール半島の地に、静かではあるが確実に、次なる地動説の予兆のような冷たい暗雲が垂れ込めていた。




