オーレリア外伝『復讐の怨嗟』その4
帝国歴306年、9月。 かつてダラーン王国の王都であったビガンテの正門を、一人の男が潜り抜けようとしていた。
旅の塵に汚れた薄い外套を纏い、伸び放題の髭に覆われた顔。しかし、その瞳の奥には、風雪に耐えた鋼のような光が宿っていた。スライロ――かつてダラーン王国において「至高の頭脳」と称され、大臣の位にまで上り詰めた男である。
自らの足音が、石畳の街道に寂しく響く。 街の空気は一変していた。かつてダラーン王国の青地に黄金の剣を描いた国旗がはためいていた城壁には、今やラシル王国の赤地に漆黒の鷲の紋章が掲げられている。行き交う人々はどこか怯えたように目を伏せ、身を縮めて歩いていた。占領下にある街の、重苦しい静寂。
スライロが自由の身となったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。 大陸全土に覇を唱えるオーレリア帝国にて皇子が誕生し、その祝典に伴う大規模な大赦が発令された。帝国の庇護下にあるラシル王国もこれに倣い、各地方の流刑地から多くの罪人が放免された。スライロもまた、その「大赦の恵み」によって赦されたひとりに過ぎなかった。
だが、流刑地を去り、何ヶ月もかけて歩き続けた末に彼が戻ってきたのは、故郷であって故郷ではない場所だった。
スライロは城下町を見渡せる小高い丘へと続く階段を上った。かつて友と酒を酌み交わし、国の未来を熱く語り合ったあの広場を目指して。
彼の脳裏に、あの忌まわしい「帝国歴303年」の記憶が、鮮血のような鮮明さで蘇る。
――帝国歴303年。
スライロが流刑地である北方の寒村「アイスレー」に送られてから、ちょうど半年が経過した頃だった。
荒涼とした岩山と冷たい風しかないその地で、彼は毎日薪を割り、土を耕しながら、ただ王都ビガンテの方角を眺めていた。自らの処遇に対する怒りや怨嗟はなかった。ただ、遺憾と不安だけが胸を押し潰していた。
かつてのダラーン国王ギジルは、名君であった。 他国の侵略を幾度も退け、内政を整え、飢饉から民を救った。人々は彼の治世を「ダラーンの奇跡」と称え、神のごとき英明さを讃えた。スライロもまた、その奇跡の傍らに立ち、ギジル王の理想を実現するために全力で知恵を絞ったのだった。
しかし、奇跡は永続しなかった。 王の晩年、その明晰だった頭脳は衰えと疑心暗鬼に侵されていった。権力を貪る奸臣たちの甘い讒言に耳を貸し、国を支えてきた忠臣たちを次々と遠ざけた。スライロは何度も王の前に進み出で、涙を流して諫言した。
『陛下! 今、ラシル王国と国境の緊張が高まっております! 甘言を弄する者の言葉に惑わされず、いま一度、軍の引き締めと民の安堵を図るべきです!』
だが、ギジル王の返答は冷酷だった。 『スライロ、お前は余の威光を疑うのか。余の成し遂げた奇跡を忘れたか。余に逆らう者は、この国にいらん』
臣下の忠誠を疑うようになった王は、奸臣たちの不実な讒言を全面的に受け入れ、スライロから地位と名誉を奪い、極寒の北地へと追いやったのだ。
流刑地で寒さに震えながら、スライロはただ祈っていた。ギジル王が正気を取り戻すことを。そして、王都に残したかけがえのない仲間たちが、国を支えてくれることを。
しかし、その祈りは残酷な現実によって打ち砕かれた。
ある日、流刑地に一人の行商人が訪れた。商人がもたらした噂話に、スライロは耳を疑った。
「知らんのか? ダラーン王国は滅んだよ。ラシル王国の電撃的な侵攻を受けてな。たった三ヶ月で、王都は落ちた」
スライロの手から、木斧が滑り落ちた。 「……何だと? 滅んだ……? ダラーンが……?」
「ああ、跡形もなくな。ギジル王は占領軍の手によって、王都の広場で首を跳ねられたそうだ。……かつての英明さも形無しだな。名君と呼ばれた男の最期にしちゃあ、惨めなもんだったよ」
頭の中が真っ白になった。世界から色彩が失われていくようだった。 ダラーンが滅びた? ギジル王が処刑された? 我が祖国が、あの美しかった王都が、消え去ったというのか?
スライロは必死で商人の胸ぐらを掴んだ。 「他の者はどうなった!? ソージュは! クラーク・ダナミアはどうなった!?」
商人は青ざめた顔で、スライロの手を振り払おうとしながら叫んだ。 「知るかよ! ……いや、待て、ソージュってのはあの学者肌の大臣か? あいつなら、王が狂っていくのを最後まで止めようとして、裏切り者として地下牢に叩き込まれたよ。救出されることもなく、湿気と病気で獄死したそうだ。最後まで『王よ、目を覚ましてください』と叫んでいたらしい」
「ソージュが……獄死……」
膝から崩れ落ちそうになるスライロに、商人は追い打ちをかけるように言った。
「それから、将軍のクラーク・ダナミアか。あいつの最期は凄絶だったぞ。王都が囲まれた時、残されたわずかな兵を率いて国境の要塞でラシル軍の主力と激突した。その数、十倍以上だ。味方の裏切りで背後を絶たれながらも、引き下がらずに三日間戦い続けた。最後は全身に数本の矢を受け、剣を杖代わりにして立ったまま戦死したそうだ。ラシル軍の将軍すらも、その勇敢さに敬意を表して遺体を手厚く葬ったという話だ」
「十倍の敵と……クラーク……」
声が出なかった。涙すら流れなかった。
ソージュ。 スライロとともに「王国の両輪」と称された同胞。生真面目で、書物を愛し、不正を何よりも嫌った男。王が狂気に囚われてもなお、逃げることなく忠言を繰り返し、冷たく暗い牢獄の床で一人、孤独に息を引き取った。
クラーク・ダナミア。 幼少期からの無二の親友であり、王国一の勇将。酒を飲めば大声で笑い、「お前が頭を使い、俺が剣を振るえば、ダラーンは百年間安泰だ」と胸を叩いていた男。勝ち目のない戦いと知りながら、祖国と王のために一歩も引かず、圧倒的な敵を相手に壮絶な討ち死にを遂げた。
そして、ギジル王。 かつて自分たちを見出し、溢れんばかりの情熱で「民が笑って暮らせる国を作る」と誓い合った、あの英明なる主君。栄光に目が眩み、友の言葉を退け、最後は敵の手で打ち首にされた愚王。
「俺は……何のために……」
スライロは極寒の土の上に膝をついた。 風が泣き叫ぶように吹き荒れていた。 優秀であった友を失った。 勇敢であった友を失った。 命を捧げると誓った主君を失った。 そして、自分が生まれ育ててきた祖国ダラーンは、地図の上から永久に消え去った。
自分だけが、何もない流刑地で、無力に生き残っていた。 忠言をして追い出され、友の死に立ち会うこともできず、祖国の終焉をただ聞きつけることしかできなかった。 「なぜ……なぜ俺を残した……! ソージュ! クラーク! 陛下! なぜ私だけを生き残らせたのだ……!」
天を仰ぎ、叫びたかった。しかし、掠れた喉からはヒューヒューと虚しい吐息が漏れるだけだった。スライロはただ、冷たい風の中で立ち尽くすことしかできなかった。あの日、彼の心は死んだのだ。
――そして、現在。帝国歴306年、9月。
過去の記憶を振り払うように、スライロは深く息を吐き出した。 気がつくと、彼はかつての王都の中央広場に立っていた。
ここは、かつてギジル王が戴冠式を行い、臣民の歓声が天を突いた場所だ。そして、ギジル王が処刑され、ダラーン王国が最期を迎えた場所でもある。
広場の中央にあったギジル王の銅像は跡形もなく破壊され、代わりにラシル国王を讃える味気ない石碑が建てられていた。
スライロはゆっくりと歩を進め、その石碑の陰、ひっそりと残された古びた石段に腰を下ろした。
(ソージュ……お前が正しかったのかもしれないな。狂った王とともに沈むのが、臣としての真の道だったのかもしれない)
胸の中で死んだ友に語りかける。
(クラーク……お前の戦いぶりは、ラシルの兵たちの間でも未だに語り継がれているぞ。『ダナミアの獅子』とな。だが、お前が守ろうとした国は、もうどこにもないんだ)
ポケットに忍ばせていた小さな革袋を取り出す。中には、流刑地を去る際に拾った、ダラーンの土が入っていた。 スライロはそれを掌にあけ、風になびかせた。褐色の粒子が、かつての王都の空へと散っていく。
祖国は滅んだ。 友は逝った。 王も消えた。
大赦によって自由の身となったスライロだが、彼には行くべき場所も、戻るべき家もなかった。彼の中にあった「ダラーン」という存在は、もうどこにも存在しないのだから。
「……これから、俺はどう生きればいいというのだ」
ぽつりと漏れた呟きは、誰に届くこともなく、ラシル王国の旗がたなびく秋の風にさらわれて消えた。
ただ一人残された元大臣は、かつて王都と呼ばれた街の喧騒の中で、空っぽになった手を見つめながら、静かに佇み続けていた。




