オーレリア外伝『復讐の怨嗟』その3
白亜宮の太極殿は、早朝の低い雲を映し出す巨大な影の中に静まりかえっていた。
黎明の光が朱塗りの太い柱を斑に染め、香炉から立ち上る龍涎香の白煙が、朝気の冷たさにたゆたっている。階下に整列する文武百官の朝服——深緑や緋色の絹糸に刺繍された鶴や麒麟の意匠が、薄暗がりの中で静けさを纏っていた。
誰一人として、咳払いひとつ許されない。
玉座の上に鎮座するのは、オーレリア帝国第14代皇帝アラリックである。
その偉容は、威厳に満ちて眼光は、鋭く深く、群臣の頭頂を射抜いている。
「……カシアン・ヴァロア」
低く、しかし殿内の隅々にまで響き渡る声が下された。
「はっ」
文官の列の後方、1人の宦官が静かに前へ出た。
カシアン・ヴァロア。今年で42歳になるカシアンは、一見すると覇気のない穏やかな人物に見える。背を少し丸め、誰に対しても腰が低く、目立たない地味な役職に長年就いていた男だ。しかしその実直さと、何よりも「口の堅さ」を皇帝アラリックに買われ、彼は内侍監という要職へ大出世を果たした。
カシアンは玉座の前に進み出ると、裾を払い、完璧な所作で伏礼した。冷たい石の床に額をつけ、天子の御威光をその身に受ける。
「頭を上げよ」
「御意」
カシアンが顔を上げると、玉座のアラリックの鋭い視線と真正面から交差した。アラリックの口元が、わずかに笑みを刻む。それは慈愛ではなく、巨大な野望を孕んだ将の笑みであった。
「カシアン・ヴァロアよ。朕が即位してより、内外の清定に努めてきた。西のグラッデェは退き、国内の基盤も整いつつある。しかし、我が帝国の威光は、果たしてこの国土の上だけで留まっていてよいと思うか?」
帝の問いかけに、朝議の場に緊張が走った。大臣たちの肩がわずかにこわばる。
アラリックは立ち上がり、龍袍の裾を揺らしながら御階の際まで歩み出た。
「海だ」
帝の一言が、広大な太極殿の空気を震わせた。
「海の向こうには、いまだ我が天子の徳を知らぬ蛮国が無数に蠢いている。南海の島々、国々、果ては大秦が支配した国土の彼方に至るまで……朕の威光を届かせねばならぬ。オーレリアを中心とした新たなる天下の秩序——朝貢の理を、大海原の果てまで打ち立てるのだ」
朝臣の列から、忍び笑いとも溜息ともつかぬかすかな動揺が漏れた。海。それは古来、帝国とって災いの源であり、未知の魔物が棲む暗黒の領域であった。莫大な資金を投じて海へ出ることなど、正気の沙汰とは思えないという気が文官たちの間に広がっていく。
財務長官が耐えかねたように前へ一歩踏み出そうとした。だが、アラリックの放つ威圧感がそれを許さない。帝の視線は、ただ一人の男——カシアンだけに注がれていた。
「カシアン。南海の波は高く、風は荒く、異国の民は言葉も通じぬ。並の将であれば、途中で恐れをなし、船を返すか、あるいは海の藻屑となろう。……お前はこの命を受けられるか?」
カシアンはゆっくりと息を吸い込んだ。
運命の糸が、いま全てこの瞬間に繋がったのをカシアンは感じていた。
海へ出る。それは単なる皇帝の虚栄心を満たす旅ではない。帝国の国威を示すと同時に、広大な世界と繋がり、知見を広げ、平和的な秩序を築くための遠征なのだ。
カシアンは、深く胸を張り、静かながらも朗々と声を響かせた。
「陛下。このカシアン・ヴァロア、謹んで御命、お受けいたします」
「ほう……」
「我が身はすでに陛下に捧げたもの。波涛の恐ろしさなど、陛下の御威徳の前には微風に過ぎません。南海の果て、日の沈む地に到るまで、オーレリアの天子の勅書を届け、諸国を我が帝国の徳に服せしめて見せましょう」
「言ったな、カシアン!」
アラリックが大笑した。その声は太極殿の天井を揺らし、居並ぶ群臣たちを震撼させた。
帝は満足げに頷くと、左右の側近に手招きをした。捧げ持たれた黒漆の盆の上には、一巻の金糸で織られた勅書と、天子直臨の証である符節が載せられていた。
「これより、ナシュルの龍江宝船廠にて、未だかつて世に存在したことのない巨大な船団を造らせる。長さ四十四丈、幅十八丈を超える大船——『宝船』を数百隻。兵員は二万七千。糧食、絹織物、磁器、茶を山と積み、我が明の富と力を異国に見せつけるのだ!」
長径130メートルを超える巨大木造船の建造。二万七千人という、一つの都市に匹敵する大軍勢の海上輸送。その桁外れのスケールに、朝臣たちは息を呑み、顔を見合わせた。
「カシアン・ヴァロアを『欽差正使太監』に任命する。船団の全権をお前に委ねる。ナシュルを出航し、南洋の海を統べるのだ」
アラリックは御階を下り、自らカシアンの眼前に立った。そして、符節をその手に手渡した。
帝の手は熱く、鉄のように硬かった。
「カシアンよ。朕が欲しいのは、力による征服ではない。万国がオーレリアの威徳を仰ぎ、自ら進んで朝貢に訪れる平和なる天下だ。お前なら、それができる」
「陛下……」
カシアンは符節を両手で受け取ると、それを額の高さまで掲げた。
「この命に代えましても、御期待に応えてみせます。オーレリアの旗印を、世界の果ての海原に掲げてまいります」
「頼んだぞ」
アラリックの眼光が、未来の海原を見据えるように遥か遠くを射抜いていた。
朝議が終わり、文武百官が潮が引くように去っていく中、カシアンは一人、太極殿の広大な石畳の上に立ち続けていた。
見上げれば、雲が切れ、朝陽が白亜宮の黄金色の瓦を眩しく照らし始めていた。
風が吹いている。南からの風だ。
その風は、大河アシュロンの河口を越え、広大な東海へ、そして未だ見ぬ南方の青い海へと続いていた。
二万七千人の命を預かり、数百隻の船団を率いて、誰も行ったことのない暗黒の大海原へ乗り出す。そこには想像を絶する暴風雨が待ち受け、見知らぬ異国の兵が刃を交えてくるかもしれない。
しかし、カシアンの胸に恐れはなかった。あるのは、巨大な使命感と、静かな昂ぶりだけだった。
「行くぞ……海の果てまで」
カシアンは握りしめた符節を胸に抱きかかえ、力強い足取りで朝陽の中へと歩み出した。




