オーレリア外伝『復讐の怨嗟』その2
薄霧が覆う燕国の首都・鳳山。かつて大陸を統一した大秦帝国により東北の果てへと追いやられた錦族の都には、今も他国とは一線を画す異質な色彩が満ちていた。大河アシュロンの上流を起源と伝えられる錦族の歴史は、アクスアルブの特産である色鮮やかな錦織の目にも綾な紋様の中に深く息づいている。大秦文化と交わり変化を遂げながらも、根底に流れる古の文字と独自の文化は決して途絶えることがなかった。
ゆえに、過去に北方の遊牧民オテゲンに支配された折、双方の相容れなさは決定的なものとなった。文字を持たず、文化的な営みを異にする遊牧の民と、高潔な文化を誇る錦族が共存できるはずもない。燕国は南方のオーレリア帝国の力を借りてオテゲンを排し、独立を果たした。朝貢国としての屈辱を受け入れねばならなかったとはいえ、文字も知らぬ野蛮なオテゲンに虐げられるよりは、オーレリアの庇護下に下る方がはるかに甘受し得る選択であったのだ。
だが、オーレリアの手を借りて手にした平穏は、自らの首を絞める罠でもあった。
宮殿の奥深く、重厚な沈香の香りが立ち込める一室で、燕国王・王義力は 玉座の肘掛けを固く握りしめていた。
「陛下のご意向に従い、今期の租税における特例措置の申請をオーレリア宮廷へ提出いたしました。皇帝陛下のお許しが下り次第、政務を進めてまいります」
目の前に控える重臣——大臣のひとりが、恭しすぎるほどの深い一礼とともに言葉を述べた。言葉遣いは丁寧そのものだが、その瞳に王への敬意など一切宿っていない。慇懃無礼な態度で報告を終えると、彼は王の返答を待つことすらなく視線を逸らした。
この宮廷を埋め尽くす大臣たちのほぼすべてが、オーレリアの権門貴族と婚姻関係を結んだ者たちである。王義力自身もまた、オーレリア皇族から降嫁した王妃を迎え入れさせられていた。一見すれば両国の絆を深める蜜月に見えるが、その実体は、燕国という国家の体液を内側から啜り尽くすための蜘蛛の巣に過ぎない。
(人事一つ、法令一つ、余の意志で決められるものは何一つない……)
王義力は心の中で苦い吐息を漏らした。 重要とされる人事が持ち上がるたび、大臣たちは口を揃えて「オーレリアの皇帝陛下にご意見をお伺いした後に」と繰り返す。ならば、この国における国家元首とは一体何なのか。国王とは何者なのか。自らの存在意義を模索すればするほど、思考は暗い虚無へと落ち込み、やがて心が麻痺していく。父である先王も、まったく同じ無力感に苛まれ、やがて政務への意欲を失っていった。自分もいま、父と同じ破滅の道をなぞっているのだという自覚が、王義力の魂を刻一刻と削り取っていた。
燕国の歴史における最大の汚点——かつて宰相・崔厳に国を乗っ取られた惨事も、元を正せば国家元首のこの「無気力」が招いた隙であった。 朝貢国としての屈辱に病み、まともな治世を放棄した先王の足元を見透かし、崔厳は巧みに権力を掌握して自ら僭主へと成り代わったのだ。崔厳による恐怖政治は帝国の介入によって破綻し、燕国は再び復活を遂げ、王家も存続を許された。だが、帰ってきたのは真の独立ではなく、より巧妙に洗練された傀儡政権でしかなかった。
「……分かった。帝国の返答を待つとしよう」
王義力が擦れた声で答えると、大臣は満足げに、そして嘲笑を隠そうともせずに辞去していった。
一人残された王座で、王義力は虚空を見つめた。 燕国は今も傀儡の国であり、自らはその頭上に据えられた傀儡の王に過ぎない。帝国の意のままに動く糸を手繰られながら、いつ終わるとも知れぬ退屈と侮蔑の日々を生きている。
しかし——この時、王義力も、彼を縛り付けるオーレリアの貴族たちも、何も知らなかった。
燕国を狂わせ、国を乗っ取った恐るべき怪物・崔厳が、いまどこで何をしているのかを。
オーレリア帝国暦306年9月。 燕国の遥か南西部、眩いばかりの光と彩りに溢れた「花の都ルミナリア」。その繁華の裏に潜む暗がりにて、かつて国を揺るがした男は、もはや「崔厳」という名を捨て去っていた。
「見よ、迷える羊たちよ。我こそは真理の光。この世の苦しみを開放する救世主である」
絢爛たる祭壇の前、怪しい光を放つ瞳をした男——ゲンドラス・サイリュンが、ひれ伏す信徒たちを見下ろしていた。 崔厳は潜伏の果てに狂信的宗教組織『真理の光教団』を立ち上げ、その絶対的な教祖として君臨していたのだ。言葉巧みに人々の孤独と欲望を救済の名のもとに喰らい、巨万の富と狂信的な信徒の軍勢を蓄えつつある。
燕国で培った陰謀の才と、国家を一つ潰しかけた残忍な知略。それらは今、オーレリア帝国の心臓部近くで、より深く、より巨大な毒花を咲かせようとしていた。
遠い北東の地で無力さに苛まれる傀儡の王、王義力。 そして、南西の都で邪教の教祖として新たなる王国の建設を目論む崔厳。
巡り始めた歴史の歯車は、帝国という巨木を揺るがす大風となり、再び二人を、そして錦族の運命を巻き込んでいく。燕国の静かなる退廃の裏で、暗雲は確実に大陸全土へと広がり始めていた。




