オーレリア外伝『花の都ルミナリア』その10
九月の空は、息をのむほど澄み渡っていた。初秋の気配を含んだやわらかな風が、大河アシュロンの水面を滑り、微かに波立つ川面に柔らかな光の粒を散らしている。
船の船尾に立ち、遠ざかる景色を見つめる女性の姿があった。黒髪を軽く風になびかせ、紺碧の瞳に切なさと晴れやかさを交差させているのは、 アルヴェリア親王側室セシリアであった。彼女が纏う上質な絹の旅装は、秋の浅い日差しを受けて落ちついた光沢を放っている。
「セシリア様、日差しが強くなってまいりました。お召し物も汚れますゆえ、どうぞ船室へお入りください」
後ろから控えめな声で声をかけてきたのは、ベルトトであった。セシリアはふっと口元を緩め、緩やかに首を振った。
「ううん、もう少しだけこうしていたいの。街が見えなくなるまで……」
視線の先には、爛漫たる「花の都」ルミナリアの美しいシルエットがあった。白磁の壁、瑠璃色の屋根、そして街中に咲き誇る千紫万紅の花々。水上バザールを行き交う色とりどりの船が、まるで絵の具を散らしたかのように大河のほとりを彩っている。その壮麗な都市の姿は、川を下るにつれて徐々に小さく、かすんでゆく。
◇
この夏から初秋にかけての滞在は、セシリアにとって13年ぶりの「里帰り」であった。アクアパレスでの目まぐるしい親王府の取り仕切りから離れ、慣れ親しんだ故郷の空気と両親の温もりに包まれた日々。しかし、一領主を支える身でもある彼女は、ただ無為に実家で寛ぐことなどできなかった。
『せっかくの里帰りなのだから、最高の親孝行をしなくてはね』
セシリアがそう思い立った瞬間から、リヴィエール商会ルミナリア支社は大忙しとなった。彼女はルミナリア滞在中、持ち前の商才と精緻な指揮能力を余すことなく発揮した。帝都での混乱や南方の物流再編の波を巧みに捉え、ルミナリアが誇る最高級の香料「アシェロンの涙」、極上の紫の絹糸、特製のローズ香油、さらには秋の収穫を見越した特産品を怒涛の勢いで買い付け、調達したのだ。
結果として、リヴィエール商会ルミナリア支社の広大な倉庫群は、天井に届かんばかりの物資と財貨で完全に満杯となった。両親が経営に関わる支社の基盤はこれ以上ないほど強固になり、向こう数年は安泰というまでの利益をもたらしたのである。それどころか、商会の名声はルミナリアの貿易ギルド「百花同盟」の商人たちの間でもさらに高まり、両親の立場を確固たるものに押し上げた。
昨日の朝、ルミナリアの港で行われた別れの光景が、セシリアの脳裏に鮮やかに蘇る。
「セシリア、お前は本当に……親孝行が過ぎるよ。こんなに倉庫をいっぱいにされては、検品だけで年が明けてしまうじゃないか」
目元を濡らしながら苦笑いしていた父親アルベールの顔。
「体にだけは気をつけなさいね。アクアパレスでも、あまり無理をして一人で抱え込んではいけませんよ。いつでもこの街は、あなたの家なのですから」
母エレノアはセシリアの手を何度も固く握りしめ、愛おしそうにその頬を撫でてくれた。豪華すぎる「親孝行」の成果と、あふれんばかりの親愛。涙を堪えて微笑み返し、手を振りながら乗船したあの瞬間の胸の熱さが、今もじんわりと残っている。
◇
船が大きく舵を切り、大河アシュロンのゆったりとした流れに乗ると、花の都ルミナリアの全景はついに小さな小島ほどの大きさにまで縮んでいた。
セシリアはそっと胸に手を当て、小さく息を吐いた。
ルミナリアは今、表向きの華やかさの裏で大きな変革の渦中にあった。天信教の伝統的な威光が陰りを見せる一方で、新興の「真理の光教団」が着々と信徒と経済圏を広げている。また、北方の帝都オクタヴィアで荒れ狂った大恐慌の嵐は去ったものの、新時代の「経済と実利」の波は確実にこの大河アシュロンを伝って南方へと押し寄せていた。
だが、どれほど世情が揺れ動こうとも、自分の歩むべき道は決まっている。自分には守るべき場所があり、戻るべき帰路があるのだ。
「アクアパレスへ帰ろう」
彼女はひとり呟いた。そこには、彼女の帰りを待っている人々がいる。そして何より、共に時代を切り拓く大切な存在が待っているのだ。
船の船首側からは、満載された荷が軋む心地よい音が聞こえてくる。この船に乗せられた物資もまた、アクアパレスの発展とそこに暮らす人々を支える糧となるはずだ。里帰りで充填されたのは、商会の倉庫だけではない。彼女自身の心もまた、家族の情愛と新たな誓いで満たされていた。
川面を吹き抜ける風が、ほのかに甘い百合の花の香りを運んできた。ルミナリアの街が贈ってくれた最後の見送りだろうか。セシリアは髪を耳にかけ、くるりと振り返ると、力強い足取りで船室への階段を降り始めた。
大河アシュロンは昏々と流れ、東のアクアパレスへと船を運んでいく。黄金色の秋光を浴びながら、セシリアの船は アルヴェリアへと向かっていった。




