オーレリア外伝『花の都ルミナリア』その9
帝都オクタヴィアで「暗黒の嵐」と呼ばれた大恐慌が嵐のように吹き荒れ、そして平定されてから二か月。九月の秋風が北国の葉を赤く染め始めていた同じ頃――。
遠く南方に位置する大河アシェロンのほとり、爛漫たる「花の都」ルミナリアは、眩いばかりの陽光と芳しい香油の香りに包まれていた。
南部の東西を横断する大河アシェロンは、帝国全土の交易を繋ぐ命の血管である。その中ほど、昏々と流れる大河の抱擁を受けるルミナリアは、帝都の厳めしい石造りの街並みとは対照的に、白磁の壁と瑠璃色の屋根、そして街中に咲き誇る千紫万紅の花々で飾られた無類の上美を誇る都市であった。
「帝都で豪商どもが潰れ、リヴィエール商会が市場を握ったと聞いた時は冷や汗をかいたが……フフ、アシェロンの水の流れは、かわらず莫大な銀と絹を我らの元へ運んでくる」
アシェロン川に臨む豪奢な大テラスで、南方の貿易ギルド「百花同盟」の筆頭幹部、アルマン・ド・ラ・ロシュは、硝子杯の冷やした果実酒を優雅に口に含んだ。
ルミナリアの商人たちは、帝都の商人たちとは根本的に異なる毛色を持っていた。 帝都の豪商たちが「塩と鉄」、そして「軍需物資」という国家の骨格を握って政治に牙を剥いたのに対し、ルミナリアの商人たちが統理するのは「香料」「絹織物」「宝石」「高級酒」、特産の贅沢品や逸品群なのである。
◇
アシェロン川の水上市場「フローティング・バザール」では、色とりどりの小舟が水面を埋め尽くし、南国特有の陽気な売り声が飛び交っていた。
「見ろよ、西から届いたばかりの最新の帝貨だ! 純度も重さも寸分違わぬ、リヴィエラ商会の新極印つきだぞ!」 「西の塩も安く手に入るようになった! これでウチの高級ハムと香辛料漬けがいくらでも仕込める!」
船頭たちが笑い声を上げる中、テラスの奥では百花同盟の若手幹部たちが、東西の報告書を前に密談を交わしていた。
「アルマン様、帝都での旧財界連合の失脚は、我々にとっても危うい橋でした。旧豪商のマルセル一派は、我らルミナリアの香料や絹にも不当な高関税をかけようと画策していましたからね」 そう語るのは、高級香料「アシェロンの涙」を独占卸する女性商人、シドニーであった。
「そうだ」 アルマンは白磁のパイプをあおらせながら、紫煙の向こうに目を細めた。 「帝都の商人どもは、あまりに不躾で野蛮だった。『金で皇帝を買い叩く』などと不敬な野望を抱いたから、皇帝アラリックの逆鱗に触れ、アルヴェリア親王領のソルトラグーンとリヴィエラ商会に力づくで叩き潰されたのだ。商売とは、力で脅し取るものではない。相手が喜んで金を払いたくなるような『夢』と『悦楽』を売ることなのだよ」
ルミナリアの商人たちは、北方の政治闘争を冷酷に計算しつつも、決して直接的な牙を見せることはしなかった。 彼らが選んだのは、帝国の中央銀行となった「リヴィエラ商会」と即座に手を結び、南方の比類なき贅沢品を北方の宮廷や貴族たちへ流し込む「至高のパイプ役」となる道であった。
◇
九月。アシェロン川の増水期が落ち着き、水運にとって最高の季節が訪れていた。
アルヴェリア親王妃リゼリアと側室セシリアの手によって再編された南の新物流網は、大河アシェロンを通じてルミナリアにも巨大な恩恵をもたらしていた。
「アルマン様! リヴィエラ商会の船団が到着いたしました! 今期の注文分、アクスアルブ特産の紫の絹糸三千反と、特製ローズ・香油五百樽の買い付け資金として、天文学的な額の現生帝貨が持ち込まれております!」
報告を受けたアルマンの口元に、深い笑みが浮かんだ。
「素晴らしい。北の宮廷では、皇后派と賢妃派の妃たちが寵愛を競うために、我らの香料と絹をいくらでも買い求める。さらには、大恐慌を平定した皇帝アラリック陛下も、功臣たちへの褒美としてルミナリアの逸品を惜しみなく買い上げているのだからな」
「ふふ、実に優雅な商売ですこと」 シドニーが扇子を広げて微笑んだ。 「北の豪商たちが血を流して勝ち取ろうとした『権力』を、私たちは美と香りで容易く骨抜きにし、そのポケットから黄金を吸い上げているのですから」
ルミナリアの商人たちは知っていた。 どれほど硬固な武力を誇る皇帝であれ、どれほど冷徹な計算を持つ官僚であれ、人間である限り「欲望」と「美」の誘惑には勝てない。 彼らは帝国の軍需や塩といった『武の骨格』には手を触れず、帝国の『心の肉』を香油と絹で包み込むことで、絶対的な地位を確立していたのだ。
◇
九月の夕暮れ。花の都ルミナリアの街は、夕日に染まるアシェロン川の美しい水鏡と、街中に灯り始めた千の蝋燭の光で、幻想的な黄金色に包まれていた。
水上市場では、東からの商人や旅人、地元の職人たちが宴を開き、リュートの調べに合わせて歌い踊っていた。
「見ろ、シドニー。あのアシェロンの流れを」 アルマンはテラスの黄金色の手すりに寄りかかり、大河の遙か北の方向を指さした。
「帝都オクタヴィアで、あの二十歳の少女エマが起こした『暗黒の嵐』は、確かに帝国の歴史を変えた。血統だけで動いていた古い貴族の時代は終わり、これからは『経済と実利』が世界を動かす」
「ええ。ですが、彼女は暴風となって散り、私たちは咲き続ける花として残りました」 シドニーが並んで大河を見つめる。
「その通りだ。北でどれほど皇帝が権力を振るおうと、我々ルミナリアの商人たちが紡ぐ絹と香油がなければ、帝国の宮廷は色を失う。我らは戦わん。ただ大河の流れとともに富を育み、都を永遠に咲き誇らせるのだ」
水面を滑る船の航跡が、夕日にきらきらと輝いていた。 北方の政治の嵐を静かに受け流し、その崩壊と再編すらも自らの富へと変えてしまった花の都の商人たち。
九月の夜風が、咲き誇る大輪の百合の香りを乗せて、甘やかにアシェロンの水面を撫でていく。 遠い北の帝都で繰り広げられた血と金の世界をどこか他人事のように笑い飛ばしながら、花の都ルミナリアの商人たちは、今夜も贅沢な宴の盃を掲げるのだった。




