オーレリア外伝『花の都ルミナリア』その8
ルミナリア北部に広がる一面の稲穂は、秋の陽光を受けて黄金色に輝くはずだった。
しかし、代官所に勤める中堅役人・ダグラスの眼前に広がるのは、手入れを失い荒れ果てつつある無数の水田だった。かつては豊かな水を引き込み、幾世代にもわたってルミナリアの財政を支えてきた生命線。それが今や、静かな崩壊の音を立てて崩れ去ろうとしている。
「また一軒、夜逃げ同然で村を出たそうです」
部下の若い役人が、疲弊した顔で帳簿を差しの出した。ダグラスは深いため息をつきながらそれを受け取り、朱筆で削られた農家の名前に目を通す。
「これで今月に入って何件目だ?」
「北部だけで四十件を超えました。自作農だけではありません。地主から土地を借りていた小作農までもが、農具を売り払い、夜陰に紛れて田畑を捨てております」
「……向かう先は、例の場所か」
「はい。セレスティアル山の麓……『真理の光教団』の膝元です」
ダグラスは固く拳を握りしめた。
ルミナリアという国家の命脈は、ひとえにこの北部と東部に広がる広大な稲作地帯に依存している。国が取り立てる全税収の実に六割が、米という現物によって賄われているのだ。米が集まらなければ、王都の行政も、国境を守る兵士たちの給与も立ち行かなくなる。そして何より、彼ら役人たちの威信と、暗黙のうちに懐へ入る「潤滑油」たる余剰の税も消えてなくなることを意味していた。
農民たちが田畑を捨てる理由は単純明快だった。いくら豊かな水田であっても、春から秋まで汗水垂らして育て上げた収穫のほとんどを、容赦ない重税として役人に持って行かれる。手元に残るのは、今日明日を生き延びるのが精一杯のわずかな米だけだ。割に合うはずがなかった。
そこへ現れたのが、『真理の光教団』だった。
教団はセレスティアル山の麓に巨大な「セレスティアル大聖堂」を建立し、傷ついた人々を受け入れ始めた。彼らは教団の庇護のもとで新たな職——聖書の印刷、製本、あるいは教団が使う法具や装飾品の製造——を与えられ、汗をかいた分だけ正当な報いを得られるという。過酷な年貢に苦しむ農民たちにとって、それは暗闇の中に差し込んだ真の救いの光に見えたに違いなかった。
「ダグラス様、上からの指示はまだ出ないのですか? 強制的に連れ戻すか、大聖堂に踏み込んで連れ戻さねば、今年の秋の徴税は破綻します!」
「バカ者、声が大きい」
ダグラスは部下を鋭い眼光で制した。
「セレスティアル大聖堂の敷地がどういう扱いになっているか、忘れたわけではあるまい」
部下はぐっと言葉を詰まらせた。
セレスティアル山の麓、大聖堂が建つあの広大な土地は、教団の設立時に古くからの貴族から買い取られた「私有地」である。ルミナリアの現行法において、私有地内における治外法権的な慣例と、宗教施設への立ち入り制限が複雑に絡み合い、代官所の役人といえども徴税権を行使することはできない。一歩でも敷地に入り込んで強制力を行使すれば、それは「神聖侵犯」として教団信徒たちの暴動を引き起こしかねないのだ。
「だが……だからといって、指をくわえて見ているわけにはいかないでしょう! 奴らは聖書を大量に印刷し、街中で飛ぶように売っています! ロザリオや聖油といった関連物品の売り上げだけでも、日に金貨数百枚が動いているとか。あそこには莫大な金が流れているのです!」
「分かっている。分かっているのだ……」
ダグラスはこめかみを指で強く押さえた。
それこそが、役人たちを最も苛立たせている根源だった。 現在、ルミナリアの法律には「聖書の印刷・販売」や「宗教関連物品の取引」に関する税法が全く整備されていない。歴史上、これほど大規模に書物を印刷し、商業として宗教グッズを売り捌く団体など存在しなかったからだ。
法がない以上、課税のしようがない。教団は大手を振って莫大な利益を上げ、その資金力を背景にさらに規模を拡大している。本来であれば、それほどの物流と金銭の動きがあれば、市場の関門や店舗から関税や営業税を搾り取れるはずだった。そして、その折々に役人の懐に入っていた「手切れ金」や「献金」という名の裏金も、すべてすり抜けていく。
手の中で着実に減っていく権益と、肥え太っていく教団。役人たちにとって、それはただの宗教の台頭ではなく、自らの生活と立場を脅かす悪夢以外の何物でもなかった。
「……本日、代官様と州の徴税監察官による緊急会議が開かれる」
ダグラスは低い声で切り出した。
「法律がないのなら、作ればいい。聖書の印刷紙に特別な印紙税を課すか、あるいは宗教物品の持ち込みに関税をかけるか……何らかの形で教団の財脈に楔を打ち込む計画だ」
「おお! では、ついに動くのですね」
「安易に喜ぶな」ダグラスは冷ややかに首を振った。「教団の後ろには、すでに何万人もの信徒がついている。下手に圧力をかければ、彼らが一斉に米の出荷を拒否したり、王都へ押しかけて直訴する可能性もあるのだ。我々が探しているのは、奴らを合法的に、かつぐうの音も出ない形で縛り上げる縄だ」
ダグラスは立ち上がり、窓の外に広がる黄金色の田畑を見つめた。
遠く、霞の向こうにそびえるセレスティアル山。その麓には、今日もまた過酷な年貢から逃れようとする農民たちが、小さな荷物を背負って歩いていることだろう。
国を支える米が消え、新興の宗教が金を呑み込んでいく。ルミナリアの静かなる均衡は、すでに音を立てて崩れ始めていた。役人たちの執念と、教団の拡大——暗雲立ち込める時代の渦中で、ダグラスは自らの未来に昏い陰影を感じずにはいられなかった。




