オーレリア外伝『花の都ルミナリア』その7
静寂は、かつて至高の美徳であった。しかし今の天信教大聖堂において、その静寂は不吉な病苦のように館を蝕む冷気でしかなかった。
花の都ルミナリアの中心に鎮座する天信教の大聖堂――『銀の白百合宮』。 三百年もの間、王公貴族や富裕層から莫大な寄進を受け、絢爛たる装飾と優雅なパイプオルガンの音色を響かせてきた聖域である。幾重にも重なるアーチ状の天井には金箔が惜しみなく使われ、磨き抜かれた大理石の床には、かつて日曜日ごとに絹やベルベットの衣装を纏った貴婦人や豪商たちが溢れかえっていた。
だが、その栄光の光景は、過去の幻影へと変わりつつあった。
「……本日も、これだけか」
高壇の上に立ち、がらんとした礼拝堂を見下ろした天信教の大司教、アルフォンソ・ド・ヴァロワは、抑えきれない苦々しさを込めて呟いた。 広い礼拝堂に並ぶ数百もの樫の木の長椅子。そこに腰掛けているのは、せいぜい二、三十人程度に過ぎない。しかもその大半は、昔からの義理で顔を出している高齢の落ちぶれた貴族や、他に行き場のない古い信徒ばかりであった。
かつて、この大聖堂の扉は「品位」という名の見えない選別によって守られていた。 継ぎはぎの服を着た貧民や、匂い立つような労働者層が階段を上ろうとすれば、厳しい目つきの警備兵や下級聖職者が即座に追い払ったものだ。神の祝福は美しく、清らかで、相応の寄進を差し出せる者にのみ与えられる――それが天信教の暗黙の教義であり、アルフォンソたち聖職者の自尊心を支える柱であった。
しかし、その選別が今や自らの首を絞める絞首縄となっていた。
「大司教様……中間層の市民たちまでもが、次々とセレスティアル山の方角へ足を向けております。かつて当大聖堂で熱心に寄進を行っていた商人たちの多くが、あちらの『奇跡の岩』や『奇跡の泉』の噂に尾を振って群がっているようでして……」
背後にひかえていた若い司祭が、恐る恐る報告口調で囁いた。その声は震えている。
「セレスティアルの……あの胡散臭い偽者どもか!」
アルフォンソは激昂し、手にしていた純銀の十字架を握りしめた。極上の絹で作られた法衣の袖が、彼の荒い鼻息に合わせて揺れる。
「あのような野蛮で下品な集まりのどこに神がいるというのだ! 飢えた豚どもにパンの屑と偽物の宝石を投げ与え、泥水を『奇跡の水』と偽って売りつけるような詐欺師の詐術ではないか! あんな場所に群がる者たちなど、最初から神の光を解する知性すら持たぬ愚か者どもだ!」
アルフォンソの声は高らかに響いたが、かつてのような荘厳さは失われ、ただの老人のヒステリックな喚き声となって空しく大理石の壁に跳ね返った。長椅子に座っていた数少ない信徒たちが、顔をそむけるようにして肩をすくめる。
真理の光教団――そして教祖ゲンドラス・サイリュンの出現は、ルミナリアの宗教的秩序を根底から覆していた。 かつて天信教が「汚れ」として毛嫌いし、都の隅へと追いやってきた貧民層を、ゲンドラスは熱狂的な狂信の火で包み込んだ。それだけに留まらず、教団がセレスティアル山の麓に生み出した『新たな経済圏』は、実利と刺激を求める市民層や中間層の心までをも強力に惹きつけたのである。
天信教の大聖堂に行けば、高圧的な聖職者から見下され、高額な寄進を暗に要求される。 だが真理の光教団へ行けば、厳かな救済の言葉と同時に、活気ある市場での取引や、ささやかながらも確かな「利益」と「平同」の錯覚が得られるのだ。どちらを選ぶかなど、もはや明白であった。
「大司教様、落ち着いてください……信徒たちの前でそのようなお言葉は……」 「黙れ! 黙れ黙れ!」
アルフォンソは司祭の手を払いのけた。 彼は生まれてこの方、苦労というものを知らなかった。名門貴族の三男として生まれ、若くして高位の聖職者の座を約束され、極上のワインと贅を尽くした料理、そして人々からの無条件の崇拝に囲まれて生きてきた。彼にとって聖職者とは「教える者」であり、民衆とは「ひれ伏して財を差し出す者」でなければならなかったのだ。
その優雅な日常が、たかだか数ヶ月で崩れ去ろうとしている。
大聖堂の金庫は日増しに底をつき始めていた。聖歌隊を維持する資金も、大聖堂を飾る百合の花を仕入れる金も、彼らの豪奢な食卓を彩る食材のツケも払い清めることができなくなっている。
「許しがたい……許しがたいぞ! ゲンドラスとかいうあのペテン師め! かつてどこぞの零細教団で燻っていた崔厳などという男が、神の代弁者を気取るとは片腹痛い! あれは悪魔の申し子だ! 邪教だ! 下衆な泥棒猫め!」
数日後、アルフォンソは大聖堂の前堂に集まった僅かな信徒と、街の回覧記者たちを前にして、大規模な「破門と断罪」の説教を行った。
かつてなら、重厚で格式高い説教が行われていたはずの高壇。 しかし、そこに立ったアルフォンソの姿に、かつての威厳は微塵もなかった。贅肉のついた顔は怒りと焦燥で赤く腫れ上がり、金糸の刺繍が施された贅沢な法衣は、かえって彼の醜悪さを際立たせていた。
「皆よ、聴くがよい!」 アルフォンソはしわがれた声を張り上げた。
「セレスティアル山に集う者たちは、皆一様に地獄の業火に焼かれるであろう! あのゲンドラスという男は、偽りの言葉で豚どもを惑わす邪悪なペテン師に過ぎん! 貧民の泥に塗れた手で聖堂を汚し、神聖なる信仰を金銭の売買へと貶めたあくどい罪人だ! 奴にひれ伏す者たちも同罪である! あのような浅ましい場所へと足を運ぶ者は、天信教の加護を永遠に失うものと知れ!」
説教は、もはや教義の解説でも神の愛の説法でもなかった。 ただの嫉妬と怨嗟に満ちた、新興勢力に対する醜い誹謗中傷であった。アルフォンソは顔をくしゃくしゃにし、口から泡を飛ばしながら、ゲンドラスの出自や『真理の光教団』の儀式を根拠もなく罵り続けた。
「……見苦しいな」
大聖堂の隅でその様子を見ていた老商人が、呆れたように小さく首を振った。
「かつては『慈愛に満ちたお方』などと崇められていた大司教様が、あんな露骨な嫉妬に狂ったお顔をされるとは。私たちが納めていた寄進金も、結局はあの方々の贅沢な暮らしとプライドを保つためだけに落ちていたのだな」
「ええ……」隣にいた若い妻が囁き返す。「セレスティアル山の大聖堂にいらっしゃるゲンドラス様のお姿をご覧なさいな。あのお方はどれほど冷徹に見えても、立ち振る舞い一つ取っても隙がなく、真の神聖さを感じさせますわ。こちらの大司教様のように、感情に任せて他人を呪うような真似はなさらない……」
言葉は、伝染する。 アルフォンソが激しい言葉で『真理の光教団』を叩けば叩くほど、ルミナリアの市民たちは天信教の「底の浅さ」と「余裕のなさ」を看破していった。自分たちの地位が脅かされた途端に剥ぎ取られた聖職者たちのメッキ。その下に隠されていたのは、特権階級の横暴さと、身勝手なプライドだけであった。
罵詈雑言を撒き散らすアルフォンソの姿は、翌日のルミナリアの噂話の格好のネタとなった。
「天信教の大司教が、またセレスティアルの悪口を言って泡を吹いていたそうだ」 「自分たちが貧しい者を追い払っておいて、いざその人たちが別の場所で救われたら『邪教だ』と騒ぐのだから世話はないな」 「品格も何もあったものじゃない。あんな浅ましい聖職者に祈りを捧げても、ご利益などあるはずがないよ」
批判と断罪の言葉は、何一つ『真理の光教団』にダメージを与えなかった。 それどころか、攻撃されればされるほど、セレスティアル山の大聖堂で静寂と圧倒的な威厳を保ち続けるゲンドラス・サイリュンの「神聖さ」が際立つ結果となったのだ。
完璧な教義と音響演出、そして幼きルシアが裏で完璧にコントロールする『真理の光』の計算された演出の前には、感情的になった老聖職者の悪口など、ただの空しい犬の遠吠えに過ぎなかった。
数ヶ月後。
『銀の白百合宮』の礼拝堂は、完全に静まり返っていた。 かつて毎日のように焚かれていた高級な香炉からは煙が絶え、パイプオルガンの奏者も給金が出ないために去っていった。大聖堂の大きな扉は開け放たれているものの、中に入ってくる者は誰一人としていない。
高壇の陰で、アルフォンソは大理石の床に力なくへたり込んでいた。 手にしたワイングラスからは、安物の酒の匂いが漂っている。かつて極上のヴィンテージしか口にしなかった男は、今や身なりを整えることすら忘れ、肥満した体を震わせていた。
「なぜだ……なぜなのだ……」
乾いた声で、アルフォンソは誰もいない大空間に向かって問いかけた。
「我々こそが正当なる神の僕……気高く、美しく、伝統ある天信教なのだぞ……。なぜあのような下種なペテン師に……貧民どもの泥にまみれた集まりなどに、我が聖堂が負けねばならんのだ……!」
その問いに答える者はなかった。
大聖堂の外からは、セレスティアル山へと向かう巡礼者たちの賑やかな足音が、遠く風に乗って運ばれてくる。 新しい経済圏の活気と、そこに生まれる狂信の熱気。 ルミナリアが三百年かけて築き上げてきた虚構の平和の裏で、古い権力は自らの醜悪さを露呈させながら、静かに、そして確実に廃墟へと変わりつつあった。
落ちぶれた大聖堂の天井で、かつて金箔で彩られていた天使の絵画が、悲しげに剥げ落ちていくのだった。




