オーレリア外伝『花の都ルミナリア』その1
帝国歴三〇六年、七月。 太陽が天空の頂から惜しみなく陽光を注ぎ込む真夏の中、大河アシェロンの水面は、まるで敷き詰められた銀鱗のようにキラキラと眩しく輝いていた。 東のアルヴェリアから西へ——帝国南部の中央、交易と芸術が交差する要衝であり『花の都』と謳われるルミナリアを目指し、一隻の優美な船が川を遡上している。
アクスアルブとアルヴェリアのちょうど中間に位置するルミナリアは、四季折々の花々が咲き誇り、水路と石造りの街並みが調和した美しい都市だ。この船の船室で小さな我が子を抱く女性セシリアにとって懐かしい故郷である。
「いい風ですね、セシリア様」
甲板へ続く扉が開かれ、侍女のエミーナが明るい声をかけながら冷やした果実水を持って入ってきた。 セシリアは窓辺のソファに腰掛け、胸の中に抱いた生後四ヶ月になる愛娘・ルシアの小さな背中を優しく撫でながら、ふっと微笑を浮かべた。
「ええ、本当に。真夏だというのに、アシェロンの冷気を含んだ風がこんなに心地よいなんて」
アシェロン川の水深は深く、雪解け水を湛えた川底からは絶えず冷涼な気が立ち上っている。窓から吹き込む川風は、セシリアの淡い金色の髪を柔らかく揺らした。
セシリアにとって、今回の旅は13年ぶりとなる帰郷であった。 まだ幼く9歳でルミナリアの生家を立ち、帝都の後宮へ向かった。
波乱に満ちた年月を過ごしてきた彼女にとって、故郷に残してきた愛する両親——温かく穏やかな父アルベールと、包み込むような慈愛に満ちた母エレノアとの再会は、待ち望んでいた奇跡のような出来事であった。
「……セシリア様。川を上る船にしては、少々速すぎはしませんか? 船員たちが『自分たちの櫂の手際と帆の扱いが天下一品だからだ』と自画自賛しておりますが」
落ち着いた声でそう問いかけたのは、もう一人の侍女であるベルトトだった。彼女は室内を整えながら、セシリアの表情を静かに覗き込む。
セシリアは小さくクスリと笑った。
「秘密よ、ベルトト。気持ちが焦ってしまって、ついつい川の流れをほんの少しだけ押し戻してしまっているの。でも、船員たちのプライドを傷つけないよう、ごく自然な風と水流に見せかけているわ」
彼女が隠し持つ絶大な『異能』——自然の潮流や気流さえも密やかに操るその力は、今や愛しい娘を一刻も早く両親に見せたいという、一人の母親としての健気な願いのために使われていた。
◇
その時だった。 バシャリ! と甲板の方で大きな水音が響いたかと思うと、続いて「きゃっ!」というエミーナの驚きと歓喜の混ざった声が聞こえてきた。
セシリアとベルトトが顔を見合わせ、窓から外の甲板を窺う。 そこには、甲板の上で元気に跳ね回る、体長半メートルはあろうかという見事な大魚と、それを慌てて捕まえようとするエミーナの姿があった。
「わぁ! すごい! セシリア様、見てください! 立派なルーユー(スズキ)ですよ! 美味しそう!」
エミーナはスカートの裾が濡れるのも気にせず、勢いよく魚を掴み上げてはしゃいだ。銀色の鱗が夏の太陽を反射して眩しく輝いている。
ベルトトが静かに甲板へと歩み寄り、魚をじっと観察してから言った。
「アシェロン川のルーユーですね。上品な白身で、程よく脂がのり、ふっくらとした柔らかい食感の魚です。臭みが少なく、魚の本来の旨味がしっかりと感じられるはずです」
あまりにも淡々と、まるで博物誌の一節を暗唱するかのように語るベルトトの姿に、セシリアとエミーナは思わず吹き出してしまった。
「ふふ、ベルトトの説明はいつも本を読んでいるみたいね」
セシリアの言葉に、ベルトトは少しだけ照れくさそうに姿勢を正した。
「料理長に持って行ってちょうだい。ネギや生姜とともに蒸して、みんなで昼食にいただきましょう。こんな新鮮で立派なルーユーなら、最高の清蒸ができるわ」
「はい! すぐに厨房へ運んできます!」
エミーナが嬉しそうに魚を抱えて走っていくのを見送りながら、セシリアは再び腕の中の我が子を見つめた。 生後四ヶ月のルシアは、騒ぎの中でもすやすやと心地よさそうに眠っている。セシリアは娘の丸く柔らかい頬を指先でそっと撫で、小さく語りかけた。
(ルシア……今のルーユーは、あなたが獲ってくれたのね? ありがとう)
そう、船の周囲の流れを読んでいたセシリアには分かっていた。 まだ言葉も話せず、寝返りすらおぼつかない幼子でありながら、ルシアは母譲り——いや、それ以上の強い『異能』の力を秘めている。川底深くを泳いでいた大魚が不自然なほど軽やかに水面へと跳ね上がったのは、幼いルシアが無意識に放った無垢な力の悪戯だったのだ。
母の言葉に応えるかのように、腕の中の赤子はむにゃむにゃと口を動かし、愛らしく身をよじって小さな寝返りを打ってみせた。その愛くるしい仕草に、セシリアの胸は締め付けられるほどの愛おしさで満たされた。
◇
陽が少しずつ西へと傾き始め、アシェロン川の水面が黄金色に染まり始める頃。船の厨房からは、ネギと生姜の香ばしい香りと、蒸し上がった魚の芳醇な湯気が漂ってきた。船員たちと共に味わったルーユーの蒸し料理は絶品で、ふっくらとした白身に生姜の風味が効いた醤油ダレが絡み、誰もがその美味しさに舌鼓を打った。
昼食を終え、ルシアの従僕である中年男、『崔厳』が甲板の隅で静かに警護に当たる中、セシリアは船首に立ち、遠くに見えてきた街の影を見つめていた。
水路の随所に美しい百合の花が咲き乱れ、白い石造りの橋がかかる街——花の都ルミナリア。 その美しい都が、夕暮れの光を受けて橙色に輝いている。
(もうすぐ……お父様、お母様とお会いできるのね)
13年の歳月は長かった。様々な困難を乗り越え、母となった自分を、両親はどんな笑顔で迎えてくれるだろうか。 期待に胸を膨らませるセシリアだったが、その幸福感の裏側には、かすかな寂しさと切なさが影を落としていた。
妹、ルネッタのことである。
セシリアには、ひとつの心残りがあった。自分と同じくルミナリアで生まれ育ち、共に笑い合った愛しい妹・ルネッタ。彼女は現在、遠く離れた帝都の後宮にて『徳妃』という尊い身分に身を置いている。
後宮——それは一度足を踏み入れ后妃となれば、皇帝の許可なくしては一歩も外に出ることが許されない美しくも孤独な篭の鳥の城だ。
(ルネッタ……あなたも一緒に、このルミナリアに帰ってこられたらよかったのに。お父様とお母様、そして私の新しい家族であるこのルシアに、あなたを引き合わせたかったわ)
帝都の絢爛豪華な宮殿で、皇帝の寵愛を受けながらも、常に権力闘争の渦中に身を置く妹の苦労を思うと、胸が痛んだ。かつて姉妹でルミナリアの水路を小舟で巡り、花を摘み合ったあの日々は、もう遠い思い出の中にしかない。
「セシリア様、そろそろ着岸の準備が整います」
崔厳が静かに近づき、低い声で告げた。セシリアは深く息を吸い込み、妹への切ない想いを胸の奥にそっと仕舞い込むと、しっかりと頷いた。
「ええ、ありがとう崔厳」
船が滑り込むようにルミナリアの港へと近づいていく。 桟橋の上には、豪華な馬車と、懐かしい面影を残す老僕、そして……セシリアの帰還を今か今かと待ちわびる、愛する父アルベールと母エレノアの姿が見えた。両親は船の上にセシリアの姿を見つけると、いとおしそうに手を振り、涙ぐんでいるようだった。
「ルシア、見て。あれがあなたのおじい様とおばあ様よ」
胸の中で目を覚ましたルシアが、母の輝くような笑顔を見上げ、きらきらとした大きな瞳を瞬かせた。
日没前——茜色の光に包まれた花の都ルミナリアにセシリアは帰って来たのであった。




