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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴306年
137/287

『嵐の結末』

「……カシアン様が動いたのね。あの『目と耳』の蜘蛛が、ついに糸を引いたか」

翌日、激しい雨が降り続く後宮の私宮で、エマ才人は冷え切った紅茶の海を見つめながら、静かに呟いた。

皇帝アラリックの身辺にただならぬ緊張感が走り、近衛軍団長レイナルド・デル・ペーレの兵たちが後宮の各門を密かに封鎖し始めている――その報は、エマが潜めさせていた財界の連絡員から、すでにもたらされていた。ヴァロア家(賢妃派)による密告が成功し、皇帝が自分と尚書令トリスタンを排除すべく動き出したのだと、エマは一瞬で看破した。

普通の下級貴族や妃であれば、ここで絶望し、涙を流して命乞いをするだろう。しかし、エマの瞳に宿ったのは、燃え盛るような狂気と、絶対的な「資本への信頼」だった。

「血統の王が、力(武力)で私たちをねじ伏せられると思っているなら……教えて差し上げましょう。この帝国を本当に生かしているのは、誰の金なのかを」

エマは素早く筆を執り、財界連合の最高幹部たちへ宛てた、暗号化された無数の書状を書き上げた。それは、帝国の息の根を物理的に止めるための「経済的宣戦布告」だった。

数時間後、帝都、そして帝国全土の主要都市で、前代未聞の「大恐慌」が人為的に引き起こされた。

エマの指令を受けた財界連合は、その莫大な全資本を投じ、一斉に牙を剥いた。

「塩」と「鉄」の流通完全ストップ

財界が独占していた塩と鉄の倉庫がすべて封鎖された。市場から塩が消え、民衆はパニックに陥り、鉄の供給が止まったことで国境守備隊の武器製造も完全に麻痺した。

帝貨の回収と国債の投げ売り

財界の息がかかった大商使たちが、一斉に市場から現金を回収。さらに、帝国政府が発行していた国債を底値で投げ売りした。これにより帝国の信用は暴落し、通貨価値は一晩で紙屑同然へと突き落とされた。

物流(兵站)のボイコット

西部国境へ向かうはずだった穀物や兵糧の輸送馬車が、一斉に足を止めた。前線の兵士たちは、戦う前に「飢え」という現実の壁に直面することとなった。

「金」という、目に見えない網が帝国の首を絞めていく。

刃を交えることなく、血を流すこともなく、ただ数字の操作だけで、帝国という巨大な怪物が、足元からグラグラと崩壊し始めたのだ。

「陛下! 大変でございます! 帝都の全市場が閉鎖、暴動が発生しております! さらに、西部守備隊より『糧食の補給が途絶え、このままでは数日で軍が瓦解する』との悲痛な報告が……!」

政務局の玉座の間。駆け込んできた尚書(しょうしょ)たちの悲鳴のような報告を、皇帝アラリックは拳を固く握りしめて聞いていた。

その傍らには、自らの策略が招いた想定以上の国家危機に、顔を真っ白にしている尚書令トリスタンの姿もあった。トリスタンはエマの器の大きさを知っていたつもりだったが、まさか皇帝を相手に「帝国そのものを人質に取る」という、ここまでの狂気の大博打に出るとは予測していなかったのだ。

「……あいつめ。私を脅迫しているのか」

アラリックの低い声は、怒りと、そして言葉にできないほどの戦慄に震えていた。

近衛軍の武力でエマの首を撥ねることは容易い。だが、もし今ここでエマを殺せば、財界連合は完全に帝国を見捨て、この国は内側から財政破綻して滅びる。皇帝としての絶対的な権力すら、エマが握る「金」という現実の前には、ただの虚飾に過ぎないことを突きつけられたのだ。

その頃、後宮のエマの宮の前に、剣を抜いた近衛兵たちが殺到していた。

しかし、扉の奥に座るエマは、一歩も動かない。

彼女は、近衛兵の向こうにいるであろう、皇帝アラリックの影に向かって、静かに微笑みかけた。

「さあ、陛下。私を殺して、帝国と共に滅びますか? それとも、私の提示した『新しい時代』の契約書に、その尊い血でサインをなさいますか?」

血統という名の古い王座が、20歳の少女が放った「黄金の嵐」によって、今まさに粉々に砕け散ろうとしていた。


◇

しかし、

帝都を揺るがした前代未聞の「経済戦争」は、開戦からわずか数日にして、誰もが予想だにしない結末を迎えようとしていた。

後宮の才人エマが放った「黄金の嵐」は、帝国の塩と鉄の流通を麻痺させ、国債を暴落させて宮廷の息の根を止めかけた。勝敗は決したかに見えた。皇帝アラリックの絶対的な武力すら、市場の崩壊という現実の前には無力であると、エマ自身も、そして彼女と結託した尚書令トリスタンも確信していた。

しかし、エマは一つの決定的な事実を見落としていた。

彼女の背後にいる財界連合が、いかに帝国の流通網と金蔵を握っていようとも――帝国には、彼らの手の届かない「絶対的な富の源泉」が、もう一つ存在していたのだ。

「報告いたします! 帝都のすべての市場に、突如として莫大な量の『塩』が運び込まれました! その数、数万石! 暴騰していた塩価は一瞬にして大暴落、元の価格へと戻りつつあります!」

政務局の玉座の間。先ほどまで絶望的な報告を繰り返していた尚書たちが、今度は信じられないといった様子で叫び声を上げた。

「さらに、国債の暴落を食い止めるべく、天文学的な額の現生帝貨(キャッシュ)が市場に投入されました! 投げ売りされた国債はすべて買い戻され、通貨価値は完全に安定を取り戻しました! 財界連合の資金力を上回る、圧倒的な資本力です!」

玉座に座る皇帝アラリックの口元に、ついに鋭い笑みが戻った。

隣で立ち尽くす尚書令トリスタンは、顔面を蒼白に染め、ガタガタと震えている。

「ば、馬鹿な……。この帝国のどこに、財界連合の総力を上回る金と塩が眠っているというのだ……!」

トリスタンの絶叫に答えるように、玉座の間の重厚な扉が堂々と開け放たれた。

現れたのは、一人の高貴な青年だった。その腰には、帝国の守護者たる証にして、帝国の至宝である『黄金の獅子剣』が神々しく輝いている。

アラリックの異母弟――アルヴェリア親王、イリアードであった。

「兄上、お待たせいたしました。アルヴェリア親王領の全総力を以て、大逆の徒を圧殺いたしました」

イリアードは爽やかに笑い、アラリックの前に跪いた。

エマの計算を狂わせた最大の要因。それは、イリアードが統べるアルヴェリア親王領に存在した。そこには、帝国最大の塩の産地である「ソルトラグーン(塩の潟湖)」が存在していたのだ。エマの財界連合がどれほど市場の塩を買い占めて流通を止めようとも、ソルトラグーンから湧き出る無限の塩が直接帝都へ流し込まれれば、その独占は一瞬で瓦解する。

そして、その莫大な塩を瞬時に買い付け、帝都の市場へと流通させた実務の立役者こそ、イリアードの背後に控える「リヴィエラ商会」であった。

「リヴィエール商会が陛下からお預かりしていた全財源にて、お財界の仕掛けた空売りをすべて買い支えました。エマ才人の背後にある商人どもは、いまや仕掛けた大博打の逆流に飲み込まれ、破産寸前でございます」

アンチルマの地下で発見された財宝。及びシュタインブルク家から取り上げた10年分の国家予算に匹敵する財宝を皇室の資金として秘匿していたのだ。つまりはリヴィエール商会は帝国初の中央部銀行の役割を担っていた。官僚や商人がわからなくても無理はない。皇帝個人の資産としての預かりであるので、彼らに知らせる必要はないのである。リゼリアがベルナデットをリヴィエール商会に送り出した理由もこれを想定しての事であった。

イリアードの後ろから、ニ人の美しい女性が歩み出て、並んで跪いた。

一人は、イリアードの正妻であり、親王妃リゼリア。その圧倒的な用兵術から「水の中を進むが如く、隙のない軍略を敷く」と謳われる、水鏡(すいきょう)将軍、リゼリア。

もう一人は、イリアードの側室であり、リゼリアとも従姉妹にあたる「澱みのない清流のごとき迅速な手腕」を持つ、水明(すいめい)将軍、セシリア。2人は帝国の危機の際に各5000名もの兵を徴発権限など、有事の際に皇帝の代理として独自に動く権限が約束されている女性達である。

リヴィエール家が誇る二大女将軍が、その武力と実務能力のすべてを注ぎ込み、財界連合の物流網を力づくで接収、リヴィエラ商会の新しい血脈として組み替えたのだ。経済戦という名の戦場において、彼女たちはエマを完全に包囲し、圧殺したのだった。

アラリックは玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を下りてイリアードたちの前へと歩み寄った。その瞳には、深い信頼と感謝の念が灯っていた。

「見事だ、イリアード。そしてリゼリア、セシリア。お前たちの機転と圧倒的な力のおかげで、帝国の危機は救われた。この『黄金の獅子剣』を持つ弟と、その二人の賢き妻に、私は心からの感謝を捧げる」

「もったいなきお言葉にございます、陛下」

リゼリアが凛とした声で応じる。

「ですが、この策が成功したのは、私たちの力だけではございません。後宮の奥深くで、命を懸けて潜行していた、もう一人の身内のおかげにございます」

「ああ、分かっている」

アラリックは頷き、その視線を後宮の方向へと向けた。

今回の反撃の糸口を掴み、財界の暗号通信を事前にリヴィエール商会へと横流ししていた者。それこそが、今年1月に皇子を出産したばかりの18歳の若き徳妃であり、セシリアの実妹であるルネッタ・リヴィエールだった。

ルネッタは、若くして寵愛を受け、生後5ヶ月の皇子を抱える身でありながら、決してただの無力な少女ではなかった。彼女は、実姉セシリアやアルヴェリア親王領と密かに連絡を取り合い、エマが財務監査の裏で動かしていた不審な金の流れ(財界の資金移動)を、完璧なタイミングで外部へと露呈させていたのだ。新興の徳妃として他の妃たちから嫉妬の目を向けられながらも、彼女はその視線すら利用し、己の「真の動き」を完全に隠蔽していたのである。

同じ頃、エマ才人の宮は、静寂に包まれていた。

部屋の机の上には、各地の財界幹部から届けられた「破産」「総崩れ」「リヴィエール商会による接収」を伝える悲鳴のような書状が散乱していた。

「……ソルトラグーン。そして、リヴィエール商会……」

エマは、冷え切った部屋の中でぽつりと言葉を漏らした。

彼女の絶対の武器であった「数字」は、今や彼女の完全な敗北を冷酷に示している。血統という古い格式を買い叩こうとした20歳の天才少女は、アルヴェリア親王領の圧倒的な現実と、リヴィエール家という強固な一族の絆の前に、完全に叩き潰されたのだ。

バタン、と激しい音を立てて扉が開いた。

入ってきたのは、近衛兵を率いた内侍監カシアン・ヴァロアだった。その顔には、いつもの覇気のない穏やかな笑みはなく、大逆の徒を捕らえる冷徹な役人の表情があった。

「エマ才人様。……いや、エマ。大逆罪、および国家転覆謀略の疑いで、身柄を拘束いたします」

エマは抵抗しなかった。彼女は静かに立ち上がり、最後に窓の外、激しい雨が上がり、初夏の美しい青空が広がり始めた後宮の庭を見つめた。

そこには、騒動など何も知らずに、穏やかに本を読んでいる6歳の第一皇子サンドルの姿が、遠くに見えた。

「新しい時代は……まだ、早すぎたのね」

エマは自嘲気味に微笑むと、カシアンの差し出した縄へ、静かにその白い両手を差し出した。

血統と家柄の古いルールを、金という新しいルールで塗り替えようとした前代未聞の経済戦争は、皇帝アラリックの絶対の統治と、彼を支える血族の圧倒的な団結によって、ここに完全な終結を迎えた。後宮に渦巻いていた嵐は去り、瑞々しいそ青葉が、再び帝国の栄華を祝福するように輝き始めていた。


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