『底知れぬ恐怖に』
「……これは、もはや後宮の寵愛争いなどという生易しいものではございませんな」
賢妃ベアトリス・ヴァロア(24歳)の私宮。その最も奥まった密室で、内侍監カシアン・ヴァロア(42歳)は額の汗を拭うことすら忘れ、驚愕に震える声で報告を結んだ。
雨の東屋で交わされた、尚書令トリスタン・フォン・ブライトクロイツとエマ才人の密約。カシアンが張り巡らせた「目と耳」は、二人が帝国の経済と兵站を文字通り買い叩き、ブライトクロイツ家を看板にした「財界による帝国統治」を目論んでいるという、恐るべき全貌を捉えていた。
ベアトリスは、いつもなら優雅に傾ける茶杯を机に置いた。その端正な顔立ちは、かつてないほどに青ざめている。
「ブライトクロイツの武力と政治力に、財界の無限の金が結びついた……。これが完成すれば、皇后派のシュタインベルク家だけでなく、私たちヴァロア家も、いずれは彼らの家畜のように飼い慣らされるか、不要になれば切り捨てられるわね」
「御意にございます。中書令閣下をはじめとする我がヴァロア家の血統も、あの二人の前には無力な数字に還元されてしまう。もはや、静観して漁夫の利を狙う段階は過ぎました」
カシアンの目は、保身を越えた「一世一代の勝負」を賭ける狂気の光を帯びていた。
「賢妃様。我らヴァロア家が生き残る道は、もはや一つしかございません。この密約を、あえて陛下に直接密告するのです。この盤面をひっくり返せるのは、帝国でただ一人、皇帝アラリック(29歳)その人しかおられぬ」
「陛下に……? だがカシアン、エマを後宮に引き入れ、財務監査権を与えたのは陛下自身よ。トリスタンを抜擢したのも陛下だわ。私たちが密告したところで、嫉妬に狂った妃の讒言だと一蹴される恐れはないの?」
ベアトリスの懸念はもっともだった。だが、カシアンは不敵に首を振った。
「陛下は徹底した現実主義者。そして、何よりも『絶対に己の支配権を他者に譲らない』絶対者でございます。陛下がエマ才人を寵愛されたのは、貴族を牽制するための『便利な道具』だからです。その道具が、あろうことか尚書令と結託し、帝国の兵站という心臓部を乗っ取ろうとしていると知れば……陛下がどう動かれるか」
ベアトリスは深く息を吸い込み、立ち上がった。その瞳にヴァロア家の誇りが蘇る。
「わかったわ。今夜、陛下を私の宮へお招きして。私が直接、お伝えします」
その夜、雨はいっそう激しさを増し、後宮の屋根を激しく叩いていた。
ベアトリスの要請に応じ、皇帝アラリックがヴァロア宮を訪れたのは深夜だった。多忙を極める若き皇帝の顔には、微かな疲労が滲んでいる。
「賢妃、夜更けにすまぬな。急ぎの用とは何だ。ライナ(5歳の皇女)の身に何かあったか?」
アラリックは上着を脱ぎながら尋ねた。その側には、影のようにカシアンが控えている。
ベアトリスはアラリックの前に静かに跪き、深く頭を垂れた。
「陛下。お耳に入れたきは、我が娘のことではございません。この帝国の根幹を揺るがす、恐るべき大逆の企てにございます」
「大逆だと?」
アラリックの目が一瞬で冷徹な統治者のそれへと変わった。
ベアトリスは顔を上げ、淀みのない声で告げた。
「夕べ、尚書令トリスタン閣下が密かに後宮へ立ち入り、エマ才人と密会いたしました。二人は、ブライトクロイツ家の権力と財界連合の資金を結託させ、帝国全土の『軍需物資の輸送権』を商人の手に委ねる密約を交わしたのです。エマ才人は陛下のお心を欺き、ブライトクロイツ家を傀儡として、この帝国を『金』で支配しようとしております!」
室内が、凍りついたような静寂に包まれた。
激しい雨の音だけが響く中、アラリックは微動だにせず、ベアトリスを見下ろしていた。
普通であれば、激怒するか、あるいは不敬罪でベアトリスを処刑してもおかしくない衝撃の告発だ。しかし、アラリックはただ静かに、その冷徹な思考を巡らせていた。彼自身、エマの背後にある財界の不穏な動きと、トリスタンの急進的な勢力拡大には勘づいていた。だが、まさかその二つが、自分の足元である後宮で手を結んだとは。
アラリックの視線が、ベアトリスの後ろに控えるカシアンへと向いた。
「カシアン。お前が調べたのか」
「はっ……。我が身の破滅を覚悟で、後宮の安寧のため、両名の会話を記録いたしました」
カシアンは震える手で、東屋での対話を詳細に記した書状を差し出した。
アラリックはそれを取り、蝋燭の光にすかして一通り目を通した。書状を読み進めるにつれ、皇帝の口元が、恐ろしいほどの冷笑へと歪んでいく。
「看板だけを誇っていいただければ、それで十分……か。あの小娘も、トリスタンも、随分と私を侮ってくれたものだな」
アラリックは書状を握りつぶすと、それを近くの香炉の火へと投げ入れた。炎が青白く燃え上がり、密約の証拠が灰になっていく。
「陛下……!」
驚くベアトリスに、アラリックは冷酷な眼差しを向けた。
「賢妃よ、見事な働きだ。お前たちの忠誠、しかと受け取った。……二人が私を買い叩くつもりなら、逆に見せてやろう。この帝国において、真の絶対者が誰であるかをな」
アラリックは踵を返し、深夜の豪雨の中へと歩き出した。
皇帝の背中を見送りながら、ベアトリスとカシアンは、ついに巨大な怪物を揺り動かしてしまったという狂おしいほどの興奮と、底知れぬ恐怖に身を震わせるのだった。
盤面は完全にひっくり返り、皇帝アラリックによる「血の粛清」の幕が上がろうとしていた。




